二、

夏芽が奇妙な体験をしてから一週間が経とうとしていた。あれは夢だったのだ、そう思い始めたのも束の間、夏芽の脳裏を揺さぶる恐ろしい事件が、現実世界では起きていた。

『新たに被害者が出てしまいました』

 画面の中のニュースキャスターがマイクに向かって言う。事件現場は夏芽の住む町の隣町、被害者は、夏芽の学校の生徒だった。

―――人喰い惨殺通り魔事件―――

 世間はこの事件をこう呼ぶ。何故なら、見つかる遺体には、まるで獣に襲われたかのような歯形が残っているのだ。見つからない部位もあるという。歯形の大きさから考えて、やはり人間の犯行らしいのだが、だとしたら犯人は、被害者を襲って“食べている”ことになる。

「怖いわねえ」

 夏芽の母、春代が言った。

「学校、お休みにしてくれないかしら。もう二人も襲われているのよ」

「多分、今日から休みになるよ」

 夏芽は朝食のパンをちぎって口に入れながら言った。

「流石に、怖いよね」

「なっちゃん、気をつけて帰ってくるのよ?被害者の子に、なっちゃんの知り合いはいないわよね?」

 幸い、知り合いは皆無事だった。

「でもなっちゃんの学校の生徒が二人も襲われるなんて。やっぱり、なっちゃんを学校に行かせるの、お母さん嫌だわ」

 春代は夏芽に抱きついた。

「大事ななっちゃんが怖い目にでもあったら」

「やめてよお母さん、私、大丈夫だから。それに、多分今日は学校早めに終わると思うからさ」

 夏芽は春代を押しのけて、

「じゃ、行ってくる」

とスクールバッグを手に玄関に走った。

「あ、おかあさん、新しいローファー買っといて」

 家を出る間際に、夏芽は思い出したように言った。

「はいはい。気をつけてね」

 最後まで聞かず、夏芽は学校へ急いだ。


 暫く走ると、たかねの後ろ姿が見えた。

「たかね!」

 夏芽の声に振り向くと、

「あ、夏芽、おはよ」

いつも通りにたかねは笑った。

「たかね、また襲われたってね!」

「人喰い事件でしょ?あれ、ほんとに人なのかなあ?でっかい熊とか、そういうのにやられたんじゃない?ほら、この街、に森に囲まれてるじゃん」

「違うよ、私、犯人は“人喰い女”だと思うの!」

 一瞬間を開けて、たかねは腹を抱えて笑った。

「もう、夏芽はほんとに“オカルト”が大好きだね。そんなの居るわけないじゃん」

「居るのよ!居たの!私会ったって、この前言ったじゃん!」

「あれは夢だよ。あ、もしかしたらこのことを予見してたんじゃない?そうだとしたら夏芽、サイキックだよ!預言者!そっちの方が凄い!」

「違うって!」

「それにね、お化けなんてこの世にいないの。知ってる?口裂け女の話。あれはね、子供が夕方出歩かないように、保護者が考えた作り話なんだよ。だから口裂け女は、夕方とか夜しか出ないの」

「それとこれとはまた話が違うじゃない」

 二人はなんとなく言い合いながら、地獄坂を上る。すると、後ろから、

「おい、二人とも」

聞ききなれた声がした。担任の教師、平沢利夫だ。

「あ、先生おはようございます」

「利やーん」

 たかねは平沢に抱きついた。

「ちょ、ちょっと唐沢君……」

 平沢は顔を赤くして、慌ててたかねを引き離した。

「通学路で、ほら、みんな見てるじゃないか。ああ、恥ずかしい。それに、そのネックレス。校則違反だぞ」

 たかねの首元に、エメラルドのネックレスが緑色に光っていた。先日“彼氏”からもらったのだそうだ。どうやら他校の生徒の様で、夏芽はたかねの“彼氏”に会ったことが無かった。

「すみません、先生、たかね、ちょっと頭のねじ落としてきちゃったんです」

 夏芽は慌てて謝る。たかねは悪びれる様子もなく、

「利やん隙だらけだからあ。それにこのネックレスは、命よりも大事なものだからたかねの首から離れないのですう」

と笑った。

 平沢利夫は国語の教師で、夏芽のクラスの担任だ。身長は一七五センチメートル位の細身で、整った髪型に眼鏡をかけている。歳は三十五くらいだろうか。トレードマークは緑の背広。夏でも欠かさず、着ている。優しい性格に気の利いた面白い授業。生徒達からの評価はかなり高かった。

「担任教師に抱きついて、保護者に苦情が行ったらどうするんだ」

「ええ、そんなこと気にしてたの?利やん、ダサー」

「たかね!」

 夏芽は一喝した。

「そんなことより先生」

 夏芽は二人の間に割って入ると、平沢を見上げた。

「昨日もひとり、亡くなったみたいですね?」

「ああ。三年生でね、頭もよくて進路も決まっていたんだが……残念だよ」

 色白の肌をさらに青くして、平沢は眼鏡の淵に手をかけた。

「犯人が許せないね」

「二人とも、ここの生徒だって」

「ああ。先生も知っている生徒たちだったから、非常に、残念だ」

 平沢は悔しがっているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、わからない表情を曇らせた。

「昨日の夜、臨時で職員会議があってね、今日は全校集会だけ行って、下校することになったよ」

「そりゃそうですよね……」

 最もだ。この学校の生徒が二人も襲われ、死んでいる。三人目がいつ出てもおかしくない。少なくともこの地域の周辺の人物が狙われているのは確かだ。まだ二人だから断定はできないが、この学校の生徒“のみ”を標的に犯行を行っている可能性だってある。

「利やん、利やんはどんな人が犯人だと思う?」

 たかねは夏芽を挟んで顔をのぞかせた。

「そうだな……」

 平沢は眼鏡を曇らせて、拳に顎を乗せた。

「異常で、残忍な性格のやつじゃないかな。兎に角、許されないことだ」

 いつになく、怖い顔だった。それだけ生徒思いの先生のだ。夏芽は改めて、良い担任を持ったことを誇りに思った。

 張りつめた空気を壊すように、たかねが明るい調子で言った。

「夏芽ったらね、妖怪が犯人だって言ってるんだよ!」

「た、たかね……」

「妖怪?」

 平沢は目を見開いて、それから少し笑った。

「まあ、確かに、こんな残虐な犯罪を犯す奴は、最早人間なんて呼べない、妖怪と呼んだ方がいいかもしれないね」

「利やん、うまくまとめたね!」

 玄関までつくと、平沢は教員用入口の方へ去って行った。

「やっぱ、利やん、頭いい」

「そりゃ先生だもん」

 夏芽とたかねは上履きのスリッパに履き替え、教室へ向かった。

 九時になると、平沢は教室に現れ、全員をまとめて体育館へ向かった。全校生徒が集められた体育館は、蒸し風呂のように暑かった。校長の長話を聞く。いつもは退屈な話でほとんど耳を貸さないが、今日は“殺人事件”がテーマという事で、皆興味津々だった。

 亡くなった生徒の友人たちのすすり泣く声も聞こえる。夏芽はざわざわと楽しげに騒ぐ生徒たちと、悲しみに打ちひしがれる生徒たちの狭間で、複雑な思いを抱えていた。

 夏芽は犯人を知っている。犯人は確実に、人喰い女”波奈野目優子”だ。あの日、夏芽が人間世界に戻ってきたのを機に、ついてきてしまったのかもしれない。もしそうだとしたら、この事件の発端は夏芽にある。途端、罪悪感で心臓が握りつぶされるような感覚に陥った。

 いつの間にか校長の話は終わり、夏芽たちは平沢に先導されて教室に戻った。皆が席に着いたのを見ると、平沢は廊下側から、プリントを配布する。

「みんな、落ち着いて聞いてくれ」

 歩きながら、平沢は言う。

「昨日被害に遭った生徒も、三日前に被害に遭った生徒も、先生の教え子だ。先生は今回の事件で、これ以上被害者を出したくない。君たちは特に、先生の大事なクラスメイトだ。だから絶対に、こんな目に遭わないように、危ない行動は控えること、夜ひとりで出歩かないこと。約束してほしい。君たちに何かあったら、親御さんだけでなく、ここに居る全員が悲しむという事、忘れないでくれ。いいね?」

 平沢がこんなに熱血的に喋るのを聞くのは初めてだった。いつも温和で優しい発言しかしない平沢が、怒りに燃えている。ただ事ではないんだ。生徒たちは改めて、今回の事件の重大性を思い知った。

「これでホームルームは終わり。犯人が逮捕されるまで、学校は休校。でも」

 少し間を置いて、平沢は突然、いつものように笑った。

「その分宿題はあるからね?」

 平沢の冗談に、生徒たちは線が切れたように一気に「えー」とか「そんなー」とか言って騒ぎ始めた。張りつめた生徒たちの空気を、優しくほぐす。これも平沢の出来る“技”だった。

「先生ってすごいな」

「何が?」

 夏芽の呟きを聞いて、たかねが言った。

「だって、さっきまであんなに怒ってるように見えたのに、今じゃこんなに生徒たちを和ませてる」

「利やんだもん」

 たかねは何故か、鼻が高そうに笑った。

 ホームルームが終わり、学校を出て地獄坂を下る。学校中の生徒が一気に下校するため、地獄坂は満員電車のように混雑していた。地獄坂の一番下で、体育教師の鷲島が竹刀を持って、生徒一人一人にさよならを言いながら見送っていた。

「利やんに比べて鷲島って、あの風貌にしては人望がないよね」

「言えてる」

 二人はひそかに笑った。

 夏芽は家から徒歩で通学だが、たかねは途中からバスだった。今日のバスは混雑していそうで、気の毒だ。

「夏芽、先帰っていいよ。私、次の次のバスくらいに乗るや。混んでるの嫌だし」

「分かった」

 夏芽は言うと、たかねに手を振った。

「変質者に襲われないように、気をつけてね」

「お互いに」


 帰宅すると、春代がキッチンから飛んで出てきた。

「なっちゃん!無事でよかったー!」

 夏芽を抱きしめる。春代は、過保護にも程があるのだ。

「お母さん、大丈夫だから。それより、ローファー新しいの買っといてくれた?」

「そんな時間なかったわよ。それになっちゃんが心配で、ずっとテレビ見てたから」

 嘘つけ。買いに行くのが面倒だっただけだ。夏芽は溜息をついた。

「まあいいや。犯人が捕まるまで、安全策を取って休校だって」

「そう!それはよかった」

 春代は安堵しているようだった。

「さて、お昼作らなくちゃね」

 春代は夏芽をやっと放すと、キッチンへ向かった。やれやれ。ローファーは通販で買うとしよう。




 その夜の事だった。

「ただいまー」

 父の冬吉が帰宅する。

「おお、夏芽、無事だったか」

「何よ、襲われた方が良かった?」

「冗談だよ、冗談。親父ジョーク」

 ははは、と冬吉が笑った。

 夜崎一家は名前が面白い。母は春代、父は冬吉。だから最初に生まれてくる子は、男の子だったら秋に矢と書いてシュウヤ、女の子だったら夏芽にしようと決めていたそうだ。何とも安直な名前の付け方であるが、そもそも、春と冬の名前を持つ者同士がカップルという時点で奇妙で面白い。

―――結局一人っ子だから、私も秋の名前の付く人と結婚したりして……。

 夏芽はふとそんなことを考えてぞっとした。

 その時、夏芽の携帯電話がぴりり、と音を立てた。たかねだ。夏芽は通話ボタンを押すと、明るく、

「もしもーし」

と言った。

『夏芽っ』

 その声はいつもの、お調子者のたかねでは無かった。

「どうしたの?」

『私……』

 たかねは声を潜めて喋っているようだった。状況が読めない。

『私、見ちゃったの』

「何を?」

『……人喰い女』

「えっ?」

 全身に痺れが走るのを感じた。

「人喰い女を見たって、もしかしてたかね、まだ家に帰ってないの?」

『今……帰宅途中……』

「何やってんのバカ!近くに交番か何かないの?」

『ないよ。てか、私は、大丈夫、たぶん。でも……』

「でも?」

『食べられてたの、二組の麻奈ちゃんだった』

 夏芽は言葉を失った。二人は三組。二組は隣だった。佐々木麻奈とは選択体育のバドミントンで一緒で、夏芽もたかねも仲が良かった。

「そんな……どうして……」

 佐々木麻奈は明るい性格で、クラスにも、他クラスにも友人が大勢いた。彼女の死を悼む人は、数知れないだろう。

「たかね、とりあえず、警察に言おう、人喰い女の事」

『警察には通報した。でも、ダメだよ、夏芽。人喰い女の事は言えない。だって、妖怪だよ?私の目の前で、ふわって、浮いたの。絶対に、人じゃなかった。お化けだった。そんなこと、警察に言っても信じてもらえるわけない。でも、夏芽なら……信じてくれると思って』

 たかねは泣きながら、

『私、どうしたらいいんだろう……麻奈ちゃん、麻奈ちゃんが食べられているのに怖くて近寄れなくて、助けてあげられなかった……』

「たかね、そんなの、誰だって同じだよ、仕方ないよ。悪いのはたかねじゃない。悪いのは……」

―――波奈野目優子―――

 夏芽は拳を握った。

「たかね、すぐに警察に保護してもらって、親に迎えに来てもらうんだよ!私が、私が犯人を捕まえて、この事件を終わらせてみせるから!」

『何言ってんの?夏芽。私はそんなつもりで夏芽に電話したんじゃ……』

「ううん、私、馬鹿だった、逃げてた。犯人が人喰い女だって知ってて、知ってて逃げてた。妖怪だから、私には何もできないって、自分に言い聞かせてた。でもその所為で、私が放置したせいで、私の友達は、死んでしまった」

『……夏芽』

「いいね?たかね。私、たかねまで失いたくない」

『何か、アテがあるのね?』

「……うん」

 あの人なら、助けてくれる。そんな気がした。

―――綺堂壱紀―――

 夏芽は電話を切ると、駆け出した。春代と冬吉が、驚いた様子で夏芽を見る。

「なっちゃん!何処へ行くの!」

「夏芽!こんな時間に、危ないじゃないか」

 二人の声が後ろから聞こえてくる。しかし、それどころではない。一刻も早く、“あの場所”へ行かなければいけない。夏芽は玄関で靴を履くと、そのまま家を飛び出した。冬吉と春代が夏芽を追うように家から飛び出してくる。夏芽は振り返ることなく、八千代トンネルにめがけて走った。暗闇の中、あの日夏芽を暗黒の世界に誘ったトンネルが、不気味に口を開けている。夏芽はスピードを緩めることなく飛び込むと、向こう側にかすかに見える光に向かって駆けた。

 トンネルを抜けた。

―――――――――。

 そこは、以前来た時とは別世界のようであった。至る所に提燈が吊られており、道の両脇に屋台が広がっていた。“街”は人や妖怪で賑わっている。恐怖というよりも、幻想的な美を感じた。

 暫く立ち尽くしていた夏芽は、はっとここに来た目的を思い出した。

―――綺堂壱紀を探さなきゃ。

 人混みの中、歩き出す。屋台には、様々なものが並べられていた。地べたに着物を置いて売っている者もいる。カエルやトカゲの干物を串刺しにして並べている者もいる。

「御嬢さん御嬢さん」

 声をかけられた。

「あんた、人間だね?どうだい、食べると妖怪……の気分になれる飴玉だよ。人間のアカと蛇の心臓で出来ているんだ。三十分だけ、妖怪になれるよ」

「……いえ、間に合ってますから」

 妖怪になんかなりたくもないし、なりたかったとしても今はそんな悠長なことを言っている場合ではない。夏芽は先を急いだ。

 夏芽が通るたび、屋台や周りの“人々”が盛り上がる。

「人間の臭いだ!」

「妖怪の世界へようこそ」

 今や、然程怖いと思わなかった。祭りで賑わっている所為だろう。夏芽はあの日とは違って、堂々と祭り街道を歩き続けた。その内、妖怪たちの夏芽への興味も無くなってきた。夏芽は街道を進みながら、あの紺色の着物姿を探した。

―――居ないなあ。

 その時、不意に右手を引っ張られ、夏芽は立ち止まった。振り返ると、夏芽の肩位の身長の、小学生か中学生くらいの丸刈りの男の子が、にっこりと笑って夏芽を見ていた。

「お姉さん、誰かお探しですかい」

 愛想のいい笑顔に、夏芽は思わず頷く。それから先日の恐ろしい体験を思い出し、慌てて少年の手を振り払った。

「あ、いえ、別に」

「そんなに警戒しないでくださあ」

 少年は笑った。

「お姉さん、誰かお探しなんでしょう?」

 夏芽は迷った。人喰い女は頼みごとをすると対価を求めてくる。他の妖怪もそうだったらどうしよう。しかし、このだだっ広い異世界の空間で、闇雲に綺堂壱紀を探したところで、見つかる可能性はミジンコ以下だ。

 思惑に思惑を重ねた挙句、夏芽は思い切って頷いた。

「はい……」

「はい、なんて、敬語は使わないでくださあ。おいら、姉さんの肩までしか背がないんですぜい」

「あ、じゃあ、うん……」

「で、誰をお探しなんでえ」

「あの、紺色の着物を着ていて、背が、そうだなあ、百八十センチメートル位あって、扇子を持っていて、黒髪で……」

「へ?それって、綺堂の旦那の事じゃないですかい?」

「そ、そうです!綺堂壱紀さん」

 少年は肩をすくめた。

「なあんだ。綺堂の旦那なら今日は家に籠りっきりでさあ」

「そうなの?こんなに皆……お祭りで楽しそうに騒いでいるのに」

「綺堂の旦那は祭りが大の嫌いでね。年の内の三百日が祭りだってのに、祭りの日は家から一歩も出ないんでさあ」

「三百日間お祭り!」

「俺ら妖怪は、祭りが大好きなんでさあ」

 少年はにっこり笑った。

「あの、じゃあ、今日は綺堂さんに、会えない?」

 不安そうに眉を歪める夏芽を見て、少年は腕を組んだ。

「うーん、会える可能性は、低いでしょうねえ」

「そうかあ……」

「でも、お姉さん美人だし、おいら、綺堂の旦那の一の子分なんでさあ。だから二人で頼み込めば、会えるかもしれやせん」

 美人、と言われて夏芽は少し顔を赤らめた。

「どうしやす?行ってみやすか?」

 夏芽は頷いた。

「ちょっとでも可能性があるなら。凄く重大な用事なんだ。だから、行ってみる。もしだめなら、また違う日に来ればいいし」

 少年は微笑んだ。それから、

「おっと、いけねえ、自己紹介が遅れやした。あっしぁ、“ぎょろ眼の辰之助”。綺堂の旦那はぎょろ眼って呼びます。辰之助でもなんでも、好きなようにお呼び下せえ」

「じゃあ、辰之助くんって呼ぶね。私は、夜崎夏芽。よろしくね」

「よろしくお願いしまさあ、夏芽姉さん。そいじゃ、行きやしょうか」

 辰之助は夏芽の手を取って歩き始めた。いい子に出会えてよかった。そう思った矢先、夏芽は辰之助の後頭部を見てぎょっとした。

 辰之助の後頭部には、拳一戸分くらいの大きな“ぎょろ眼”がついていた。

 夏芽は心の中に悲鳴を隠した。仕方がない、この世界は”妖怪”の世界なのだ。一々驚いてはいられない。夏芽はぎょろぎょろと動く辰之助の後頭部の眼と視線が合わないように、ずっと先の方を向いて歩いた。冷や汗が頬を伝った。

 暫く歩いた。祭りの賑やかな灯篭や人々が灯す提燈は、何処まで行っても途絶えることがない。本当に、街中が祭りなのだ。いや、世界中が、祭りなのだ。

 突然、辰之助が立ち止まった。明かりの中に、一か所だけ、屋台が並んでいない路地に、ぽつりと民家が在った。二階建ての立派な民家で、瓦屋根で戸はガラスの引き戸だった。“田舎のおばあちゃんの家”を連想させる。

 辰之助は二階を見上げて、叫んだ。

「旦那―!旦那―!綺堂の旦那―!」

 返ってくる声はない。今度は辰之助はガラスの引き戸に近寄ると、思い切りそれを叩き始めた。

「旦那―!旦那―!綺堂の旦那―!」

 尚も返答はない。辰之助は諦める様子もなく、ガラス戸を叩きながら叫び続ける。

「旦那―!旦那―!綺堂の」

「五月蝿――――――――い!」

 ガラン、と勢いよく二階の窓が開いた。綺堂壱紀は項垂れた様子で、右手で額を押さえていた。

「五月蝿い五月蝿い五月蝿い!五月蝿いぞ、ぎょろ眼!僕は五月蝿いのと祭りとお前が大嫌いなんだ!ああ、なんて厄日だ、災難だ。一年の内三百日が祭りだって?ふざけるな!僕の安息はいつになったら訪れるんだ!」

 綺堂は明らかに機嫌が悪そうだった。辰之助はそんなことなど気にも留めない様子で、

「旦那あ、今日はお客さんをお連れしたんでさあ」

「客だと?ふざけるな!こんな不快な日に不快なものをよこすんじゃない!」

 綺堂は怒鳴って、辰之助を見た後、夏芽の存在に気付き目を見開いた。

「……おや?君は」

「お久しぶりです。綺堂さん」

 夏芽は頭を下げた。少し間を開けて、綺堂はあの時のように、ははは、と笑った。

「なんだ、客だというから、またあの不快なルポライターやら何やらが来たのかと思ったよ。夏芽さんなら、大歓迎だ。ささ、中に入り賜え」

 綺堂がそう言うと、辰之助は「へい」と言って、勝手に引き戸を開けて中に入った。

「綺堂の旦那が祭りの日に客人を家に入れるなんて、夏芽姉さん、相当綺堂の旦那に気に入られてるんですねえ。うらやましいでさあ」

 辰之助は振り返りながら言った。綺堂が階段を下りてくる音がする。夏芽は玄関をくぐりながら、線香の懐かしい匂いにうっとりとした。やはり、おばあちゃんの家、みたいだ。

「夏芽さん、さあ、遠慮なく上がり賜え」

 言われて夏芽は、慌てて靴を脱いで、家の中へ入った。床は畳張りの綺麗な作りで、壁の色は黒に近い茶色をしていた。客間の真ん中に、大きめの卓袱台がある。綺堂と、辰之助も既にそこに座っていた。

「お、お邪魔します」

「どうぞ」

 言ってから、綺堂はきっと辰之助を睨み付けた。

「お客さんに茶を出せ。気の利かん奴だ」

「へい、すいやせん!」

 辰之助は立ち上がり、台所へ向かった。

「夏芽さん、もう来ちゃだめだよって、言ったじゃないか」

 綺堂は言った。

「ここは君みたいな、普通の女の子が来るところじゃないんだよ。妖怪の世界だ。それに君は……」

 綺堂は鼻をひくひくさせてから、おや、と顔を歪めた。

「人間の臭いが消えているね?まだここに来るのは二回目のはずだろう?」

「人間の臭いが消えている?」

 夏芽は困惑した。

「じゃあ、もう人間の世界に帰れないんですか?」

「いや、別にそう言うわけじゃない。君がこの世界に馴染んだ、というだけのことだ。だが……」

 綺堂は腕を組んだ。

「余りに早すぎる」

 辰之助が冷えた麦茶をお盆にのせて戻ってきた。

「君は何か、“特異”な体質なのかもしれないな。霊力が強い、とか。興味深い」

「そんなことより、夏芽姉さんは、何で旦那を探してたんでさあ」

 麦茶を夏芽の目の前に置きながら、辰之助は言った。

「その前に、旦那の事を、なんで知ってたんでさあ」

 夏芽は麦茶を一口飲むと、言った。

「あのね、一週間くらい前にね、ここに迷い込んだの。そこで人喰い女っていうお化けに襲われてる私を、綺堂さんが助けてくれたんだよ」

「人喰い女?」

 辰之助は惚けた顔をした。

「人喰い女が人を襲うなんざ聞いたことありやせんぜ?ねえ、旦那」

「まあ、そうだな」

「え?でもあの時綺堂さん、人喰い女は危険だって」

「だって人喰い女はお人よしなんですぜ?それに、人喰い女の主食は“死肉”。生きている人間なんか喰いやせんぜ」

「でも……」

「まあ、あの時は」

 綺堂は目を閉じた。

「あの時はいろいろとあったからな」

 二人とも、何のことを言っているのかわからない。

「でも私……」

 それから思い出したように夏芽は立ち上がった。

「私、綺堂さんに相談が合って、今日来たんです。実は、人間世界で、人喰い女が暴れてるんです」

 二人が同時に夏芽を見た。それから顔を見合わせて、ははは、と声をあげて笑った。

「何を言っているんだ、夏芽さん。人喰い女はね、この世界から出られないよ。ただでさえあの辺鄙で気持ちの悪い“自宅”から出られない引きこもりなんだ。そんな人喰い女が、人間世界に出て、しかも暴れるなんて信じられない」

「でも、もう二人も犠牲者が出てるんです。いや……三人。みんな体に食いちぎられたような歯形がついていて、どう考えても人間が食べたとしか思えないっていう警察の見分が出てるんです。人喰い女がやったとしか思えません」

「夏芽さん、辰之助が言った通り、人喰い女は死人しか食べない。しかも、“本当に食べているのかどうかは分からない”んだよ。妖怪って言うのはね、人間の妄想や幻想からつくられるんだ。人喰い女が誕生した謂れは、昔、戦場で死人の肉をあさる女を誰かが目撃した、という証言。当時は飢饉なんかで貧しかったから、本当に死人を食べていたのかもしれないし、追剥をしていただけかもしれない。もしかしたら木の影が揺らめくのがそう見えてしまっただけかもしれない。人喰い女って言うのは“虚像”なんだ。妖怪ってものはみんな、人間が作り出した“虚像”。わかりやすく言えば、人間の想像でしかない。実態を持たない“あれ”が、人間世界に出て実際に人を喰らうなんて、不可能だよ」

「でも、目撃情報だってあるんです。私の親友が、人喰い女が人を食べているのを見たって、そう言ったんですよ!」

「だとしたら、虚言だよ。妖怪たちは人間を驚かすことしかできない」

 綺堂は懐から扇子を取り出し、仰いだ。

「人間というものは、恐ろしいものだ。なんでも作ってしまう能力を神から授けられた。そして、要らなくなったら容赦なく捨てる。生があるモノでさえ捨ててしまうのだから、そうでないモノは勿論、容赦なく暗黒に放り込んでしまう。人間が勝手に妄想で作り上げた妖怪たちが、この世界に住んで生活している。この世界はね、向こうの世界で人間が必要ないと判断したモノたちが集まる、虚像の世界なんだよ」

 辰之助が続けた。

「あっしも、昔はお金持ちの御曹司のお気に入りのおもちゃでした。でもある日、この後ろに“ぎょろ眼”を書かれて、それを気味悪がった親が、あっしを燃やしちまったんでさあ」

 切なげだった。

「夏芽さん、人間ほど、怖いものはないんだよ」

 綺堂は念を押すように言った。

「でも……でも!」

 夏芽は拳を握った。

「友達が、殺されたんです。それを見てしまった親友も、いつやられるかわかりません。人喰い女が犯人じゃないって言うんなら、私、どうすればいいんですか……折角、怖い思いまでしてここまで来たのに」

 夏芽の瞳から涙がこぼれた。

「また、友達を救えないかもしれない……」

「夏芽さん」

 綺堂は扇子を閉じて、カタン、と卓袱台に置いた。

「君が泣くなんて、余程大事な友達だったんだろうね」

 夏芽は服の裾で涙を拭った。最初から、間違っていたのだ。妖怪なんて、いる筈がない。その妖怪が、犯人の筈ない。ホラー映画の見過ぎだ。夏芽は自分を責めた。

 少し間を置いて、綺堂は言った。

「確かめに、行ってみるかい?」

「え?」

「人喰い女のところに」

 辰之助がうれしそうに立ち上がった。

「旦那あ、そう来なくっちゃ!」

「女性の涙をただ見ていられる綺堂じゃない。君がそんなに親友を思うのなら、真実を追求したいのなら、人喰い女に会うのも一つの手かもしれない。人間世界で、しかも君が迷い込んだすぐ後に、事件は起きているのだろう?もしかしたら、その事件、人喰い女が一枚かんでいるかもしれないしね。それに、あの日は“異常”だったんだ。それは人喰い女に会ってから話すことにするけれど」

 綺堂は笑った。

「さあ、そうと決まったら、支度だ」

 立ち上がる。それから夏芽の肩に手をかけると、力強く言った。

「君を泣かせたこの事件、僕が解決してみせよう」

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