一、

 周囲が生臭い。曇天の空の下、湿った地面はざわざわと騒々しく空中の水分をかき乱す。風はない。草木はまるで生気を失ってしまったかのように黙っている。生物が呼吸をする音が聞こえない。鳥の鳴き声も、道端を駆ける猫の姿も、獲物を捕らえて蜷局を巻く蛇の影も、ここには無い。雲は太陽を隠蔽してしまった。光の差さない街は、死んでいるようだ。

 物陰で何かが動いた。生物であるのか、そうでないのか判断が出来ない。太陽のない街は夜のように暗かった。

 夏が迫っているというのに、肌寒ささえ感じる。その所為なのか、恐怖の所為なのか、鳥肌を帯びてぶわっと総毛立つ。気色の悪い空間は、暗闇のその奥にある不気味を妄想させる。

 異変に気付いた夏芽は立ち止まった。教室まであと少し。しかし、平日の学校にしては、余りに静かすぎる。臨時休校だっただろうか。夏芽は慌てて、スクールバッグから予定表を取り出した。そんなことは、何処にも書いてない。

―――気の所為?

 夏芽は近くの教室を覗き込む。誰も居ない。休校だとしても、誰も居ないのは流石に不自然である。部活動や、補習の生徒がいる筈だ。腕時計を見る。時計の針は、八時半を指している。決して、早く来過ぎたわけでは無い。寧ろ、丁度いい時間だ。

―――おかしいなあ……。

 その時、時計の針はぐるぐると回転を始めた。回転は徐々にスピードを上げる。

「え?」

 夏芽は思わず声を上げた。回転は止まらない。磁場が狂った時のコンパスのように、夏芽の腕時計は急回転を続ける。夏芽はそこで初めて、現在自分が置かれている只ならぬ状況に恐怖を感じた。教室に飛び込み、時計を見上げる。やはり、どの時計も、針を急回転させている。

 夏芽は奇妙な時計から目をそらすことが出来ないまま、震える手で、携帯電話を手に取った。親友のたかねに電話しよう。電話することでこの状況が打破できないとしても、一人心細くここに居るよりはマシだ。携帯電話の画面を見た。アンテナは“圏外”を表示している。通い始めて二年目になるが、この学校で圏外になったことなど一度もない。

 異常な事態が起きている。そういえば、朝から何かがおかしかった。

いつも夏芽は、登校時間ぎりぎりに起床し、五分で朝食を食べて、口にものが入ったまま走って登校する。今日は珍しく早めに起きて、きちんと朝食を済ませ、母、春代に「何かあったの」と心配されるくらい、“模範的”な行動をとった。早く家を出た夏芽は、少し探検しながら学校に向かおうと、冒険心と余裕を心に滲ませた。いつもすれ違う他校の生徒達や、近所のおばさんたちには出会わなかった。すれ違うのは、皆知らない人ばかり。早く家を出過ぎたからだろう。

夏芽は、一度通ってみたいと思っていた“八千代トンネル”を潜ってみることにした。電灯のない暗いトンネルで、『通行禁止』の看板がある為、いつも回り道をして学校まで通っていたのだが、今日はなんとなく、通ってみたくなった。

異常を感じ始めたのは、トンネルを過ぎた頃である。トンネルを抜けると、それまで晴れていた空は曇天に変わっていた。静かで、通学ラッシュの時間だというのに、人ひとりすれ違わなかった。


夏芽は慌てて教室を出ると、廊下を走った。何とかしてこの状況から脱さなければならない。先程上ったばかりの階段を駆け下りる。来るときは気付かなかったが、校舎の壁が、古臭い気がする。夏芽の通っている木沢高校は、建て替えられたばかりで、真新しい白い塗装の壁だ。しかし、今日は木造の部分がむき出しになっている。

 一番下まで下りると、そこに全身鏡があった。

―――こんなの、あったっけ?

 全身鏡の前に、おかっぱ頭の少女が立っていた。夏芽もおかっぱに近い髪型だったが、この少女のように、後頭部を刈り上げる程短くはしていない。不安を感じながらも、学校に来て、いや、朝あのトンネルを出てから出会った唯一の人間である少女に、夏芽は声をかけた。

「あの、すみません」

「はーあい」

 消え失せそうな声で少女は言った。少女の声は、妙に廊下に反響していた。

「今日、学校お休みだったりしますか?」

「いーいえ」

 同じ調子で言う。

「でもこんな時間なのに人がひとりも居なくて。それに、学校の時計が狂ってるんです、私の時計も。気付きました?」

「いつものこと、でーすよ」

「いつもは、時計、ぐるぐるしてないですって。見てないでしょ?あなた」

「見てますよ、毎日時計はぐーるぐる、ですよ。“ここ”に時間なんてなーいもの」

 この子は、天然ボケなのか。夏芽は少女に歩み寄った。

「そんな悠長なこと言っている場合じゃないですよ。あなた、一年生?」

「いいえ、六年生」

「こんな時に冗談はやめてくださいよ。高校は三年生までですよ」

「冗談じゃないでーすよ。あなた、見ない顔ですーね」

 見ない顔、当たり前じゃないか。木沢高校は、県内でも有数のマンモス校なのだ。学年が違えば、見たことのない顔なんて幾らでもある。

「安心してくださーい。もう少ししたら、みんな来まーすよ」

「もう少ししたらって……さっき既に八時半だったんです。ホームルームに間に合わないんじゃ……」

「いいえー。間に合いまーすよ。あなたが早く来過ぎたんでーすよ。ざーんねん」

 少しイラッとした。

「じゃあ、なんであなたも、この時間に学校にいるんですか?人の事言えませんよね?」

 喧嘩腰に、夏芽は少女の肩を掴んで、無理やりにこちらを向かせた。少女は整った顔をしていた。かわいい、とか、美人、とか、そういう意味の整った顔ではない。あえて言うなら、“コケシ”。

「だって私は、ここに住んでるから。知らないの?座敷童」

 はっとして、コケシ顔は、鼻をひくひくさせた。

「あれ、この臭いはもしかして」

 それからにぃ、と歯を見せて笑った。全ての歯が、黒で塗りつぶされていた。

「あなた、人間?」

「ひぃ!」

 夏芽は反射的にコケシ顔を突き飛ばして、下駄箱の方に駆け出した。コケシの顔が笑う時、紙芝居を捲るように、一瞬で表情が変化した。人間ではありえない動きだ。しかも彼女は自分を“座敷童”と呼んだ。座敷童。そんなものがこの世にいる筈ないではないか。

 下駄箱からローファーを取り出して、夏芽は足をねじ込んだ。非常時だというのに、足がなかなか入らない。一年生から履いているローファーがきつくなり、新しいのを買ってもらおうと思っていたところだった。

―――もっと早くお母さんに言っておけばよかった。

 今更後悔した。

 夏芽の耳に、ざわめきが聞こえたのはその時だった。正面玄関の向こう側から、人々の話し声が聞こえる。生徒たちが登校してきたのだろうか。夏芽は靴を履く手を止めたまま、正面玄関を見つめた。

 最初に顔を出したのは、髪の長い、美人で長身な少女だった。少女は長い前髪で、片目を隠していた。一見、普通の人間だ。よかった、自称座敷童が言っていたことは、やはり冗談だったのだ。安堵の溜息を洩らした直後、その後ろを、一つ目の丸坊主が続いてきた。夏芽は息を呑んだ。

―――一つ目!

 長身の少女は夏芽を見つけると、

「おや、座敷童、おはよう」

と言った。夏芽は何も返せない。

―――この人は私を座敷童と勘違いしている。という事は、やはり彼女は座敷童。

「どうしたんだ、座敷童」

 今度は一つ目が言って、それからはっとしたように、夏芽に駆け寄った。

「おい!岩!こいつ、座敷童じゃない!」

「え?」

「私はこーこよ」

 後ろから座敷童の声がした。夏芽は足がすくんで動けない。長身の少女は座敷童と夏芽を見比べて、首を傾げた。

「ホントだ、座敷童が二人いる」

 その時、少女の前髪がはらり、と横に散った。そこには、焼け爛れ、目玉が飛び出た半顔があった。眼球はそのままころりと床に落ちる。少女はそれを拾い上げると、

「おっといけない。まだ上手く扱えないんだったよ」

と笑った。

―――目が取れた!

 血の気が引いていくのが分かった。それを見て、一つ目の少年は面白そうに笑った。

「岩!こいつ、人間だぜ!道理でいい臭いがすると思った」

「え?人間?そりゃ」

 岩は前髪を態と退かして爛れた顔を見せつけた。

「懐かしいねえ」



ーーーーーーーーーーーーー!



 夏芽は駆け出していた。正面玄関を飛び出すと、そこには信じられない光景が広がっていた。首が異常に長い女、顔だけ熊の人間、大きな壁の様な真四角な何か……。そこに居たのは、童話や昔話で聞く“お化け”たちだった。

 駆け出した足は止まらなかった。悲鳴も止まらない。夏芽は“地獄坂”を駆け下りながら、どうか、この夢が覚めますように、と願った。



 前髪を元に戻した少女、岩は、夏芽の後姿を見送った。

「久々に化かしたねえ。お偉いさんたちに褒められるよ、あたし」

「あんたーなんかより、さーきに、わたしが褒めらーれるよ」

 座敷童が鉄漿を見せて笑った。

「でも、驚きだねえ」

「何が?」

 一つ目小僧が聞く。

「まだあたしたちを見て、驚いてくれる純粋な人間がいるなんてね」

 岩の表情は少し切なげだった。

 岩は、一昔前まで『東海道四谷怪談』の主人公として、怪談界の一躍を担っていた妖怪だった。岩の怪談を聞くものは皆岩を恐れ、涙し、それが岩の喜びであった。

 しかし近年、岩の話はすとんと無くなってしまった。

「すべてはあいつ、貞子って奴の所為さ」

 岩は肩を落とした。

「あたしは忘れられちまった」

「何言ってんだ、ここにいるやちゃ、みんな同じじゃないか」

 一つ目小僧は岩の背中に手を回した。

「俺だって、今や笑いの種だぜ」

「あーたしも」

 座敷童も寂しそうに肩を落とした。

「だーから今日、みーんなここに、あーつまるんだもの」



 夏芽は転がるように坂道を下った。沢山の“妖怪”とすれ違ったが、恐怖のあまり、顔も見ることが出来なかった。妖怪たちにぶつからないように身をひるがえしながら、地獄坂の一番下に到達する。ここまで来ると、“登校する妖怪”の数は少なくなっていた。きっと今が妖怪たちの登校ラッシュだったのだ。冷静さを取り戻した夏芽の脳味噌は、そんなことを考えた。

 それからどのくらい歩いただろうか。行くべき場所もわからないまま、夏芽はただ街中を歩きまわっていた。登校、通勤ラッシュが終わり、人っ子一人、いや、妖怪っ子一人居ない街。歩いては壁にぶつかり、歩いては壁にぶつかり……繰り返すうちに夏芽はとある公園に辿り着いていた。古びたベンチに腰を沈める。木製のベンチは夏芽の体重を感じてみしり、と軋んだ。

 今の夏芽の脳内には、これからどうすべきか、それしかなかった。妖怪は怖かった。だからこそ、ここから出なければいけない。しかし、今自分がどこにいるのかもわからない。夏芽は両手に顔を埋めた。

―――もう帰れないのかな……。

 涙がこぼれる。絶望が夏芽の背中に覆いかぶさる。ベンチが再びみしりみしりと軋んだ。夏芽は妖怪たちに怯えながら、声を殺して泣いた。

 その時、頭上から声が降ってきた。

「おや、あんた、迷子かい」

 反射的に見上げる。そこには如何にも“普通そうな”、真赤な着物姿のきれいな女性が立っていた。夏芽は問いに答えることが出来ないまま、彼女を見つめた。たっぷりとした長い黒髪が緩く結われて右側に垂れている。目は二個ある。首も座っている。顔も爛れていない。足もある。

「どうしたんだい。木霊に、声とられたかい?」

 女性は心配そうに夏芽を覗き込む。夏芽は我に返って答えた。

「私、迷子になってしまって」

 女性は笑顔を浮かべた。

「うんうん、そうだろうねえ。見りゃ、誰でもわかることさ。あんた、人間だろ?しかも、“向こう”の」

 “向こう”ってなんだろう、と思いながら、夏芽は首を傾げた。

「何が起きたのかわからないんです。突然、ここに来ていて……学校に行ったら時計は狂っているし、お化けがいっぱい出てくるし……」

「お化けってあんた、そりゃそうだよ、ここはあんたの言う、“お化けの世界”なんだから」

 ああ、やはりここは、夏芽が住んでいた世界では無いのだ。夏芽は項垂れた。先程の奇怪な生き物たちが脳裏に甦る。妄想だと良い、夢だと良い、そう思っていたことが、彼女の言葉によって“現実です”とあっけなく証明されてしまったのだ。

 暗い表情になった夏芽を見て、女性は優しい微笑みを浮かべた。

「安心おしよ」

 夏芽は顔を上げる。

「あんたは、ちゃあんと、帰れるからねえ」

 女性は夏芽の肩を抱いた。

「あたしにお任せよ」

「ホントですか」

 ああ、神様。夏芽は再び流れる涙を止めることが出来なかった。

―――私、帰れるんだ。

「よろしくお願いします」

 夏芽は頭を下げた。その時、女性が不気味に舌なめずりをしたことに、夏芽は気付かなかった。

「あたしね、波奈野目優子。優子ってお呼びね」

「私、夜崎夏芽です。よろしくお願いします」

 優子は夏芽に手を差し伸べた。夏芽はためらいなくその手を取って、立ち上がった。

「ついておいで」

「はい」

 この人なら信用できる。この人は、きっと人間なのだ。温かい手を握りながら、夏芽は思った。

「ところで」

 優子は振り返った。

「あんた、どうやってここに来たんだい?“何の変哲もない向こうの人間”が来るなんて、なかなかない話だよ」

「いえ、それが、分からないんです。気付いたらここに」

「ああ、そういう事もあるか」

 優子は曇天を見上げて、少し懐かしそうに言った。

「そう言えばあのヒトも、そんなこと言っていたっけ」

「あのヒト?私以外にもこの世界に迷い込んだ人がいたんですか?」

「ああ」

 優子は少し寂しそうだった。

「もう何年も前の話さ」



 暫く歩いた。もともと生臭かったこの“世界”だが、歩くたびにその臭いを増していた。夏芽は優子に握られていないもう片方の手で、鼻を押さえる。

「あんた、運が良かったよ」

「運が良かった?」

「そうさ。あたしゃ、この世界じゃ、お人よしで通ってる。この世界はね、広いんだ。迷い込んだら最後、一生出られない奴もいる。けれど、あんたは、この“お人よし”に出会った。幸運の持ち主だよ」

 夏芽は鼻をつまみながら、

「ありがとうございます」

とぎこちなく言った。先程から、少しだけ嫌な予感がする。優子は歩くペースを緩めると、

「まあ、あたしも、ただのお人よしじゃあ、ないんだけどねえ」

と呟くように言った。

 手を引かれて進んで行く。やはり段々、生臭さが増している様だ。今までよりも更に増して薄暗い、不気味な場所へ向かっているように思われた。火事に遭って焼けてしまったような煤けた屋根、そして何より、生肉を腐らせたようなこのひどい臭い……。ところどころに丸い大きな果実が落ちていて、虫のようなものがたくさん群がっていた。夏芽は思わず顔を背ける。

「あたしも、最初は嫌な臭いだと思ったけどね、慣れちまえば平気さ」

 前を行く優子は言った。夏芽は、その声が先程よりもワントーン低い気がして、眉を顰める。

「あの、私の世界に帰るには、こんな気持ち悪い道を通らないといけないんですか?」

 優子は不意に立ち止まった。夏芽は距離を置きたい気持ちだったが、手を握られていて動けない。先程は感じなかった不気味なオーラが、優子を包んでいる気がした。

 突然、優子はくっく、と笑い出した。

「あたしゃ、お人よしだ。あんたに道を教えてあげるんだから。でもね、ちょっとくらいは対価が欲しいんだ。うん、ほんの、ちょっとでいいからね」

 心臓が冷えて行くのが分かった。夏芽は優子から逃れようと必死に手を引っ張るが、彼女は中々手を放してくれない。

 優子は振り向いた。笑っていた。不気味な笑顔だった。

「そう、一本でいいのさ」

「一本?」

 夏芽は慌てて、

「あ、私、何も持ってなくて、筆記用具くらいしか、しかも使い古した奴で、だから、家に帰って新しいの持ってくるんで、それじゃだめですか?」

「違う!」

 早口で言う夏芽を、優子は一喝した。恐ろしい声である。目の前に在る美しい顔からは想像も出来ないような、耳をつんざく、悍ましい声である。夏芽の背中に、悪寒が走った。優子は再びくっくと笑うと、掴んでいた腕をぐい、と引っ張った。

「ほら、あんた、二本も持っているじゃないか。一本くらいおくれよ」

 夏芽は優子の目から逃れられない。

「二本……。私、何も持ってません……」

「いいや、持っている」

―――知らない人について行っちゃだめよ。

 母の言葉が今更夏芽の脳内を駆け巡った。

―――遅いよ、お母さん……。

 優子は舌なめずりをした。

「あんたの、二本ある腕、一本おくれよ」

 夏芽の脳内からさーっと血が抜けていくのが分かった。この女は、夏芽の腕を“捕ろう”としている。

 夏芽は優子に掴まれている腕を振りほどこうと暴れた。

「嫌よ!誰があんたなんかにやるもんですか!」

「何を言っているんだい。あんたを、元の世界へ返してあげるって言っているんだ。その為なら、腕の一本や二本、惜しくないだろ?」

「惜しいです!」

 夏芽はやっと優子の手から逃れ、その反動で地面にしりもちをついた。それから、ふと、隣に落ちている巨大な果実に目を落とし、それが何かを悟って悲鳴を上げた。夏芽が果実だと思っていたものは、その様なかわいらしいものではなかった。見開かれた目、鼻、唇。紛れもなくそれは、人間の頭部であった。

 逃れようとする夏芽に詰め寄りながら、優子は言った。

「頭って、美味しくないのよ」

 美味しいとか美味しくないとかそう言う話ではない。人間を食べる時点で、どうかしている。

「いいじゃあないか、一本くらい」

 優子は赤い鼻緒の下駄で、一歩一歩夏芽に詰め寄る。夏芽は辺りに転がる無数の生首を避けながら、這うようにして優子から必死で遠ざかろうとする。

「若い女の腕は美味しいんだよ。死に立てのやつは特にね。だから、生きているあんたの腕はさぞ美味いに違いない」

 夏芽は建物の角に追い詰められた。もう逃げ場はない。

 その時、誰かが優子を突き飛ばした。優子はバランスを崩してその場に倒れ込む。唖然としていると、何者かが夏芽の右手を掴んだ。

「走るぞ」

 男性の声だった。驚いている暇などない。夏芽はただ引かれるままに立ち上がり、駆け出した。背後で女の悔しがる声が聞こえる。夏芽の手を引く紺色の後ろ姿は、決して振り返ることもしないで、全速力で走り続けた。夏芽も必死で足を動かす。

 気が付くと、先程の公園まで戻ってきていた。

 夏芽は、握られていない方の手を膝に手を置き、荒い息を早急に整えようとした。しかし、運動が苦手な夏芽の呼吸は、なかなかまとまらない。

「危ないところだったな」

 最初に言葉を発したのは、男の方だった。

「君は、とんでもない女について行ったね」

 紺色の着物姿に短い髪、懐から扇子を取り出して仰ぎながら、男は細い目で夏芽を見下ろしていた。

「ありゃ、“人喰い女”だ。あそこに死んだばかりの死体を集めて、毎日毎日むさぼっている、とんでもない女だよ」

「ひ……人喰い女!」

 夏芽は悲鳴を上げた。無数に転がっていた頭たちは、皆、人喰い女に食い殺された残骸だったのだ。

「人喰い女はお人よしだ。だから頼みごとをすれば何でも聞いてくれる。その代り、大切なものを持っていく。それが、あいつの本性さ」

「私、腕をくれって言われました」

「腕か。マシな方だよ。命や心を取られる奴だっているんだから。次会ったら、終わりだと思っておいた方が良い」

 男は涼しげな表情で言った。

「君、“向こう”の人間だね」

「はい……」

 夏芽は最初から気になっていたことを思い切って聞いてみることにした。

「“向こうの人間”ってことは、こっちにも人間はいるんですか?」

 男はきょとんとした顔をしてから、突然笑い出した。

「当たり前じゃないか。僕だって人間だ」

「人間?本当に?」

「本当さ。首だって取れないし、人を食べたりもしない」

 夏芽は安堵でそのまま座り込んでしまった。

「よかった……やっとまともな人に会えた……」

 座り込む夏芽に、男は急に厳しい表情になった。

「ところで君、どうやってここまで来たんだい」

「えっと、それが、気付いたらここに来てしまっていて」

 夏芽は朝からの状況を伝えた。

「それで、今に至るんです」

「そうか。人間というものは、規則性無く生きるものだ。突然規則性を持った君の本能が、この秩序保たれた規則正しい世界への入口へと無意識に君を誘ったのだろう。そういう事は、たまにある」

 男は溜息をついた。

「何度と無く訪れる“向こうの人間”を、この世界の住民たちは優しい目と心を持って追い返してきたのだが……僕自身がこうやって参加するのは初めてだ」

「優しい目と心を持ってって……でも妖怪ですよね?ここに居るひとたち、みんな、お化けですよね?優しくないです、怖いです」

 ははは、と男は笑う。

「いいかい、妖怪とかお化けってのは、人を驚かせて何ぼなんだ。人を驚かさない妖怪なんて存在意義がなくなって消滅してしまう。人間だって、息をしない人間はいないだろう?息が出来なくなったら死んでしまう。それと同じさ。妖怪は人を驚かせるために生まれてきたんだ。だからこの世界に人間が迷い込んだら、驚かせて、まあ、優しく、向こうの世界へ戻してやる。それがこの世界の秩序を守る規則みたいなものさ。都市伝説や神隠しなんて話があるだろう?あれはほとんどが、そうやって成り立っている。迷い込んだ人間は、“怖い思い”をして元の世界に戻るわけだ。それが口伝に伝わって行って、人間世界の恐怖のひとつになる。人喰い女もそのつもりだったはずだ。腕さえ渡せばね」

 最後の一言に悪寒がした。確かに、怖くない妖怪なんて、居ないに違いない。男の言う事は一理ある。

「さて」

 男は夏芽の手を離さないまま、立ち上がることを促した。

「君もそろそろ帰ろう。これ以上いると、また“人喰い女”みたいに厄介なのに出会いかねない」

 夏芽はその手に目を落とす。男は人喰い女から逃げた時からずっと、夏芽の手を離さない。

「あの、私、一人で立てますから、手、放してもらえませんか?」

「それは出来ない」

 男は冷たく言った。

「人間には臭いがある。独特の臭いだ。それは妖怪たちを呼び寄せる。君はまだこの世界に来て浅いから、臭いが強い。僕から離れたら、忽ち人喰い女が再登場さ」

「でも、あなたも人間なんですよね?」

「ああ。でも君とは違う。人間と妖怪の間の子なんだ」

「半人!」

「何とでも呼びたまえ。でも、君が僕の手を放したら最後。奴はここへ来るよ。もう顔も見たくないだろう」

 夏芽は男と、人喰い女、どちらがマシか、頭を巡らせた。それから、背の高い――身の丈百八十センチメートルくらいだろうか――男を上目づかいで見ながら、

「私の事、食べませんよね?」

「ははは、人肉は美味いと聞くから興味はあるけど、生憎僕にそんな趣味は無いよ」

 男は言うと、

「さあ、行こう」

と、夏芽の手を引いた。夏芽は半信半疑で立ち上がる。男は鼻で笑った。

「まだ、疑っているようだね」

 夏芽は答えられずに顔を背けた。男は歩き出し、夏芽は仕方なく、それに続いた。

「正直だなあ。じゃあ、信用を得るために、人喰い女に出会った時の対処法を教えよう」

 男は夏芽に微笑みかける。

「そんなものがあるんですか?」

「ああ、いくつかあるよ。でも決して行ってはいけないことがある。それは、人喰い女の交換条件を飲むことだ。人喰い女はお人よしだが、貪欲だ。交換条件が飲まれ契約が成立してしまうと、なんとしてでもその条件を満たそうとする。どんな無理難題でもだ。君の場合、既に“元の世界に戻る”ことの交換条件として“腕”を提示された。勿論君は納得していないね?お人よしの人喰い女は無理やり君の腕を取ることはしない。でも、代わりに他のものを求めてくるはずだよ。だから決して、人喰い女に頼みごとをしないことだ」

 人喰い女が“お人よし”というのはまるで標語のようだ。しかし、あの時夏芽に迫ってきた女の顔は、決してお人よしのものでは無かった。夏芽は思い返す。

―――ちゃんと頼んだわけじゃないけど、“よろしくお願いします”って言っちゃったなあ。

「けれど、人喰い女にも欠点がある。奴は、自分が人を食べることを“醜いことだ”と自覚している。だからああやって辺鄙で陰気な気持ち悪いところにひとりで住んでいるのさ。そして、自分の正体を知っている者の前には決して現れない。お人よしで恥ずかしがりだからね。次会ったときは奴に面と向かって”醜い人喰い女め”と言ってやればいいのさ。そうすれば、奴は自らの行いに羞恥し、君から逃げていくはずだよ」

 歩きながら、夏芽は辺りを見回した。信号もない、横断歩道もない。人―――いや、妖怪か―――の気配もない。皆寝静まっているかのようだ。

「登校する“生徒”たち以外は、まだ寝ている時間だ。妖怪は夜になると動き出す生き物だからね」

 男は説明した。

 突然、立ち止まる。目の前には、朝通った八千代トンネルがあった。

「たぶん、ここから来たんじゃないかな?」

「はい!そうです!」

 夏芽は目を輝かせた。

「ありがとうございます!よかった、これで帰れる!」

 涙が浮かんだ。父、母、親友のたかね、学校の皆、沢山の人の顔が脳裏を過る。夏芽は、不安から解放された安堵で、思いが溢れた。

 男を見る。この人のおかげで、助かった。命の恩人だ。

「ここはね、この世界と“向こう”をつなぐトンネルだ。今は通行禁止になっているし、幽霊や妖怪を信じない人間が増え、この世界に迷い込む者は少なくなってきた。久々の来客で妖怪たちもさぞ喜んだろう。朝だったからよかったものの、夜に来ていたらさらに大歓迎されていたに違いない」

 にっこりと笑う男は、容赦なく夏芽の恐怖を煽った。

「君は怖がりなんだね。もう来ちゃだめだよ」

 夏芽は頷いた。

「さあ、行きなさい。トンネルを通っている間、決して振り向いてはいけないよ」

「どうしてですか?」

「日本神話でも、西洋の神話でも、昔から語り継がれていることだ。振り向くと、見てはいけないものを見てしまうからだとか、情念がその場所に残ってしまうからだとか、また引き戻されてしまうからだとか、様々な説がある。しかし僕は、これは形式的な、儀式的なものだと考えている。子供から大人へ成長するときの通過儀礼のように、この世界から違う世界へ旅立つ通過儀礼。だから特に意味はない。けれど、何が起こるかわからないから、決して振り返ってはいけない」

 男は手を放した。

「さあ、今言ったことを心に留めて。決して振り返らず、進むんだよ」

 夏芽は最後に、男を見て言った。

「お名前を、助けて下さった方のお名前を知りたいです」

 男は懐から扇子を出すと、仰ぎながら言った。

「僕の名前は綺堂壱紀。さよなら、夏芽さん」

 夏芽は綺堂に肩を押されて、トンネルの中へ進んだ。トンネルは薄暗く、気味が悪かった。明かりが見える。あの先に、元の世界はあるのだろうか。

 トンネルを抜けると、夏芽を太陽の光が照らした。懐かしい温もりだ。登校ラッシュの人混みが、少し遠くに見える。戻ってきたのだ。“私の世界”に。

 その時、夏芽ははっとして振り返った。

「綺堂さん、なんで私の名前を知っているの!」

 しかし、トンネルの奥に、綺堂壱紀の姿はもう無かった。


「なーつめ!おはよ!」

 突然背中を押され、夏芽は前のめりになった。振り向くと、親友の唐沢たかねが立っていた。

「どうしたの?狐に化かされたみたいな顔して。顔色悪いよ?」

 たかねの顔を見た途端、夏芽は再び涙を止めることが出来なくなった。

「たかねぇぇぇぇぇ」

 夏芽はたかねに縋る。

「ちょっと、なにがあったのよ」

 たかねは笑いながら、それでも夏芽を抱きしめて、頭を撫でた。

 黒髪短髪で背の低い夏芽とは正反対で、たかねは長身で茶髪で髪が長い。二人は全く正反対のルックスであり、性格だったが、だからこそ、相性が合った。

「たかねぇ、怖かったんだよぉ。お化けがたくさん居たの」

「うんうん、怖い夢を見たんだねぇ」

「違うよぉ。夢じゃないんだよぉ。夢だったかもしれないんだけどぉ」

「そうそう、じゃあ、歩きながらゆっくり聞くよ」

 二人は歩き出して、登校ラッシュの波に呑まれて行った。

「で、お化けがどうしたの?」

「うん、朝気付いたら、妖怪の世界に居てね、人喰い女ってのに襲われたの。人間を食べるのよ。私の腕を、二本あるから一本くれとか言い出してね」

「何それ!怖!」

「その所為で遅刻……あれ?」

 夏芽は時計の針を見た。八時十五分を指している。

「遅刻なんて、なーに言ってんの。寧ろ夏芽が、私より先に居たんだからびっくりしちゃったよ」

 たかねは笑う。毎日ブルーの髪飾りを付けていて、それを触りながら喋るのがたかねの癖だ。

「でも私、妖怪の世界に二時間くらいはいたと思うんだけど……」

「だーかーら、夢だったんだって。それより、今日の放課後、野球部の練習見に行くの、覚えてる?」

 夏芽はあの狂った針を思い出していた。ぐるぐるとまわり続ける、時計の針。まるで時間など存在しないように……。

「なーつーめ!」

 はっとして、

「も、勿論!」

と慌てて答えた。

「キャッチャーの土田先輩見るために、お化けの世界逃げてきたようなもんだもの」

「えー!絶対宮本先輩でしょ!ピッチャーでしょ!」

「私は土田先輩派なの」


 学校に着く。靴箱にはきちんといつものように、沢山落書きされたスリッパが並んでいる。元の世界に戻ってきた。“普通”の日常を取り戻した。夏芽はほっとした。あの恐ろしい世界も、綺堂壱紀という名前も、脳裏で少しずつ薄れていく。




 これは、とある普通の少女が体験した、ひと夏の奇妙な物語である。

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