ほどくひと③ ~彼より~
一週間前にも見た景色なのに、心にくるものがあった。
煉瓦造りの深谷駅。
目の前のビルがなくなって寂しい本庄駅。
埼玉県と群馬県を隔てる利根川。
ラスクの工場。
悠々と広がる赤城山の裾野。
終点の高崎駅まで乗っているのがもどかしく、倉賀野駅で下車してタクシーを拾う。
目的地は、上信電鉄の
駅の近くに、あの神社がある。
安産・子育ての神社だというが、全年代が参拝に来ているのではないかというほど、参拝客の年齢層が広く、人も多い。
とりあえず本殿の参拝し、順路に沿って進む。
お守りなどを売っている場所も、黒山の人だかりだった。知っている人の姿はない。
吐き出されるように神社の入り口に戻ってしまった。
参拝前には気づかなかったが、「社務所」の看板の先には開けた場所があった。
祭りのように屋台がずらりと並び、テーブルや椅子も出ている。
昼食を摂らないで来てしまったので、ここで「焼きまんじゅう」とクロワッサンたい焼きを買った。
社務所のロビーにも持ち込めます、と案内が出ていたので、遠慮なくロビーのベンチに腰を下ろして食べた。
「焼きまんじゅう」は群馬県のソウルフードらしい。
蒸したまんじゅうを串に刺し、甘いたれを塗って
埼玉でも祭りの屋台で出ることがあり、何回か食べたことがある。
黙々と「焼きまんじゅう」を食べていると、事務所から出てくる巫女が見えた。
白い着物に赤い袴の巫女は、黒目がちの大きな双眸で俺を直視してくれる。
「焼きまんじゅう」が喉に詰まりそうだった。
巫女はまっすぐ俺の近くまで来て、深々と頭を下げた。
「明けましておめでとうございます」
俺もつられて頭を下げる。
和服姿でも、小柄で
相変わらず、バストサイズは大きくなく小さくなくといったところだ。
長い黒髪はひとつに結い、顔の丸い輪郭があらわになる。
綻ぶような微笑みを目の当たりにすると、また心臓が筋肉痛になりそうだ。
巫女装束に身を包んだ彼女の、奥ゆかしさときたら。
なんかもう、たまらなく愛おしい。
社務所の2階はカフェになっているが、お正月は休業だという。
カフェの前のベンチに腰を下ろすと、彼女に「瑞樹くんだったんでしょ?」と訊かれた。
「口外したの、瑞樹くんだったんでしょう?」
そんなところだ。須藤瑞樹が、彼女を隠し撮りした写真を送りつけ、俺はそれが気になって、ストーカーよろしく彼女に会いに来てしまったのだ。
瑞樹は布施にも写真のデータを送ったらしく、元・クラスメイトも昨日来たらしい。
「こんな姿を見られたら恥ずかしいから、内緒にしていたのに」
彼女は袴のひだを気にするように
伏せられた目元はボルドー系のアイシャドウで彩られて、恥じらうように言の葉を紡ぐ唇は紅をさしている。
いつもはブラウンかオレンジのアイシャドウを薄くひいて、リップグロスをつけるだけなのに。
ファンデーションは同じようなのに、アクセントの色が違うだけで印象がだいぶ異なる。
花の妖精かお姫様みたいな彼女が、急に着物美人になってしまった。
言いようのない衝動を悟られないように、当たり障りのない話を振る。
「今、休憩時間なの?」
「うん。あと……」
彼女は周囲を見回して時計を探しているようだ。
俺がスマートフォンで時間を見せると、「15分」と答えてくれた。
「クロワッサンたい焼き買ったんだ。食べる?」
「食べたい……けど、お弁当残しちゃったから。でも……」
思った通り、彼女は迷っている。
彼女は少食だが、おいしいものには興味があり、なるべく食べようと努力する習性がある。
「……屋台のたい焼き、気になっていたの」
「どうぞ」
俺は卑怯だ。
彼女の可愛いところが見たくて、つい意地悪をしてしまう。
クロワッサンたい焼きを包みから半分出すが、彼女には持たせない。
ほら、どうぞ。「あーん」てやるんだよ。
彼女はとても
静かな空気の中、さくさくと軽い音が響く。
「……ん、おいしい」
チークをさした彼女の頬が、ほのかに赤みを帯びている。
「時間、大丈夫かな」
スマートフォンで時間を見せると、「もう少し。ひとくちだけ」と求められる。
そんなに小さなひとくちでは、
小柄だが決して子どもっぽくはない彼女の、可愛らしい一面が、愛おしい。
「あっ、ヒロじゃん」
女の声が、空気を読まずに割り込んだ。
「あんた、何やってんの? 巫女さんをナンパするなんて」
「してねえよ。彼女だよ」
「あ、そう。ほどほどにね」
最悪だ。このタイミングでこの女に会うなんて。
この階にもトイレがあるから、全く人が来ないわけではないらしい。
女は、一緒に来た男の人に「あれ誰?」と訊かれ、「元彼」と答える。
……うん、まさにそうなのだが。
彼女はすっと立ち上がり、ふたりにお辞儀をした。
彼女に話していなかった。
交際は初めてではないこと。
2年ほど前になるが、合コンで知り合ってつき合っていた女と、3か月で別れたこと。
別れた理由は、俺が精神的に幼かったことと、世界遺産オタクだったから。
新卒で旅行代理店で働いていた女には、マニアックな世界遺産観が理解できなかったらしい。
別れた女とばったり会うとは、思ってもいなかった。
しかも、彼女の目の前で。
「……そろそろ行くね。たい焼き、おいしかったよ」
彼女は階段を下りようとする。
「はなちゃん、ごめん!」
「何が?」
彼女は振り返ってくれた。毛先のパーマは、夏の頃より解けていた。
「はなちゃん、怒らないの?」
「なぜ怒るの?」
「嫉妬とか、しないのか?」
「嫉妬?」
白く細い手が伸ばされ、冷たい指先が俺の口の端に触れる。
「妬いてほしい?」
黒目がちの大きな双眸が、しっかり俺をとらえ、綻ぶように微笑む。
健気で優しい彼女のことだから、本当に嫉妬していないのかもしれない。
でも、計算のない無意識の艶めかしさも、たまらなく愛おしい。
「ソースついてたよ。洋也くん、可愛いね」
「焼きまんじゅう」のたれが口についたままだったらしい。
恥ずかしいのは俺の方だった。
その日の夜。
あの女から、ショートメールが送られてきた。
無料通信アプリのアカウントは削除してしまったが、電話番号だけは消さなかった。
『彼女さん、良い子そうじゃん。ちゃんと守ってあげないと、承知しないからね。』
おい、あんた初対面だろうが。
しかし、彼女を見ている人は、ちゃんと見てくれている。
その事実は、俺でも嬉しかった。
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