花は微笑む⑧

 電線で羽を休めていたすずめが2羽、曇天に向かって飛び立った。

 本日は降水確率0%だが、一日中曇りの予報である。

 昼前の灰色の空に、彩度の低い街並み。その中を、上州富岡駅に向かって歩を進める俺達・リクルートスーツの集団。



 面接は、やれるだけのことはやった。

 富岡製糸場のことは深く訊かれなかったが、マニアックな話をしなくてはならなかった。

「『人形の家』読んだの? 若いのに好学だねー。僕は学生の頃演劇部に入っていてね、その頃に読んだんだよ。おとといからどうしても思い出せないんだけど、シェイクスピアの作品でデンマークが舞台のって、何だっけ?」

 なんだこの面接官は。市長が紛れ込んだか、と思ったが、広報で見た市長の写真とは似ても似つかない。

「『ハムレット』ですか?」

「そうそう、そうだった! ありがとう!」

 世界遺産検定の勉強をしていたときに、デンマークの「クロンボー城」を覚えた。

 『ハムレット』のエルシノア城のモデルとなった城で、写真を見たときに五稜郭っぽい雰囲気だったのが印象深い。

 ちなみに、俺は『ハムレット』の舞台を見たことも、本を読んだこともない。

 それなのに、俺が演劇オタクみたいな空気になっていた。

 一緒に面接を受けていた人達の視線が痛かった。



 今は、革靴やパンプスがアスファルトにぶつかる音が、耳に痛い。

 後ろから責められているように聞こえてしまう。

 そのうち、ワントーン高いヒールの音が交ざった。

 早足で、不安定で、今にも転びそうなほど危なっかしい。

 やはり、人が転んだ音がした。

 反射的に足を止めて振り返ってしまう。無視しないで良かった。

 リクルートスーツの人達は、俺を抜いて先へ行く。

 転んだ本人は、立ち上がってパンプスを履き直し、スカートをぽんぽんと叩いた。

 それから、顔を上げて綻ぶように微笑む。

 視界が、一瞬で鮮やかになった、気がした。

 手を差し伸べる間もなく自力で立ち上がったのは、彼女だったのだ。



 上信電鉄は、だいたい30分に1本の間隔で電車が動いている。

 貴重な電車をひとつ見送るが、残念な気はしない。

 次の電車を待つ30分間、彼女と一緒にいられるからだ。

 彼女は、大学の駐車場に置いたままの車を取りに行くという。

「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 彼女は律儀に頭を下げてくれる。俺もつられて頭を下げてしまった。

「この通り、無事に退院できました。ありがとうございます」

 黒目がちの大きな瞳に見つめられると、心臓が筋肉痛になる思いがした。でも、この痛みは嫌じゃない。

 本人は自覚していないようだが、たまに上目遣いになっている。でも、こうやって彼女に見つめられるのが好きだ。まるで俺が変態みたいだけど。

 綻ぶような微笑は、こちらもつられて頬が緩んでしまう。

 ボルドー色のワンピースにピンクベージュの薄手のコートを羽織った彼女は、長い黒髪を編み込みのハーフアップにして、布製のバレッタをつけている。妖精かお姫様みたいだ。



 彼女は入院中、SNS騒動を全く知らなかったらしい。

 起き上がれる頃には、スマートフォンの充電がゼロになっていて、充電器も持っていなかったから、なにも見られなかったそうだ。

 退院後に事の顛末を知ったらしいが、実感が湧かなかったのだとか。

「なんだか、浦島太郎みたい」

 彼女はそのように比喩する。

 でも俺は「いばら姫」だと思う。別名「眠り姫」。寝顔が綺麗だったから。



「間違っていたら、ごめんなさい」

 彼女は前置きし、たっぷりためらってから口を開く。

「お見舞いに来てくれたの?」

 俺は答えに詰まってしまった。

「ごめんねって言われた気がしたの。でも、気のせいだったかもしれない。ごめんなさい、憶測でものを……」

「違う違う」

 ホームで電車を待つ人が増えてきた。

 高校生もいれば、観光客らしき人もいる。

 俺は声を小さくして、話を続ける。

「富田さんからの手紙を持って行ってほしいって、頼まれたんだ。1時間以内に大学に行かなくちゃいけなかったから、長居はできなかった。起こすのも悪い気がしたから、起こさなかったけど」

 彼女は、ゆるゆると首を横に振る。「来てくれて、ありがとう」と微笑まれると、俺は何も言えなかった。

 会話が途切れてしまった。

 そろそろ、電車が来る時間だ。



 がたごとと音も揺れも大きい電車の中で、俺は「ごめんね」の内容を話した。病室で呟いたのを聞かれたからには、話さなくてはならないと思ったから。

 高校生のときに感じた「ごめんね」と、病院で呟いた「ごめんね」を、下手なりに伝え、頭を下げる。吊り革は手離せなかったので、変な恰好だ。

 彼女は「違うよ」と、大きな瞳をさらに大きくする。

 彼女は「私が悪いの」と目を伏せてしまった。

 予想していた反応だが、目の当たりにすると、つらいものがある。

「根岸さん達のことも、多胡さんのことも、理解しようとしたの。でも、そこまで至れなかった。私が傲慢だったから」

「違う!」

 思わず荒げた声に、彼女だけでなく近くの人もびくついてしまった。

「きみは、もっと傲慢になっていいんだよ。自分は悪くないって、これだけ頑張ったって、潰されてたまるものかって、主張したって何も悪くないんだよ。俺はけっこうそういう主張をするよね? そうにしても全然構わないんだよ」

 いけません。彼女の前でわがままな面をさらしてしまった。

 彼女は驚いたように目を丸くする。

「私も、いいの?」

 俺は頷いて、「いいんだよ」と明瞭に発音した。

 彼女はしばらく俯いて、やがて顔を上げる。

「傲慢なことを言っていい?」



 車内が、ぱっと明るくなった。

 雲の切れ間から光が差し込み、名も知らぬ山を照らす。

「病室の窓が西向きで、毎日夕焼けを見ていたの。紅色に染まった空に紫色の細い雲が薄く横たわっていて、その……高校生のときのことを思い出したの。久留米さんに千羽鶴を受け取ってもらえなかったけど、あなたがもらってくれたのが嬉しかった。それに、千羽鶴をつくるのが楽しかった。今回、色々言われたけど……」

 でも、と言葉を続ける彼女の瞳は、日の光を受けてきらりと輝く。

「千羽鶴、絶対にやめない」



 電車が大きく揺れる。

 俺は彼女の肩を抱いて、よろけないように支えた。

 明らかに低い肩の位置は、彼女が小柄であることを改めて思い知らされる。

 コートの上からでも、痩せた肩の感触があった。

 誰がなんと言おうと、彼女を守って大切にしたい。



 面接の結果は、合格だった。

 俺は最終面接に進めることになる。

 11月半ば、市のホームページに最終合格者の受験番号が掲載される。

 そこに俺の受験番号はなかった。



 【第5章「花は微笑む」終】

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