花は微笑む⑤
そうだ、世界遺産へ行こう。
思い立った90分後、俺はピアノで「禁じられた遊び」を高速演奏している。
模擬面接は、上手くゆかなかった。
担当してくれた就職課の職員に、「見ための印象は良い」と褒められたが、世界遺産についての考え方が悪い、と指摘された。
そのときは納得したつもりだった。
しかし、就職課の建物を出た途端に、もやもやした気持ちが漏れ出した。
――世界遺産は観光地でしょ? それ以外の何だっていうの?
――富岡製糸場を使って人を集めようとか、言った方が面接官に伝わるんじゃないかな。
――きみの考えを押すんじゃなくて、市の考えに従わなくちゃ。
鼻で笑う職員が忘れられない。
俺が間違っているのか、確かめたくなった。
そうだ、世界遺産へ行こう。
スーツのままだが、車で富岡製糸場へ向かう。
目的地直前で道を間違えて、市役所へ行ってしまった。市役所の駐車場に車をとめ、富岡製糸場まで歩く。
見学料を支払って敷地内を見学するが、今度は彼女のことを思い出してしまう。
屋根瓦の上に飛雷針を見つけた彼女。
鉄水溜の説明を読む彼女。
購買の看板や病室の電灯、晴雨表に気づく彼女。
思い出して切なくなってしまう、変態な俺。
入場から10分で出てしまい、逃げるように堀越店長の喫茶店にお邪魔した。
調律したてのピアノに向かっても、気持ちは落ち着かない。
「はい、おつかれー」
カウンター席に腰を下ろすと、店長が麦茶をサービスしてくれた。
他のお客さんは、まばらに拍手をくれる。「アンコール」と言われたが「休憩させて下さい」と言ってしまった。
「いいですねー。若い子が頑張っている姿、おじさんは好きですよー」
まるで他人事のような口ぶりだ。店長にとっては他人事なのだが。
「店長は、富岡市役所で働いていたんですよね?」
「うん、そうです」
「なぜ市役所を辞めて、喫茶店を始めたのですか?」
時計の秒針が、こちこちと時を刻む。
それに交ざるのは、ペンが紙の上をすべる音。
「……すみません。忘れて下さい」
「いやいやいや、違うよ、田沢くん。話せないことじゃないです」
店長は、大きな体に空気を入れ換えるように、深く息をする。
「もともとこの店は、叔父の食堂だったんです」
俺は皆が思っているような面白い人間じゃないんですよ、と店長は笑顔で語る。
店長は、県内の
南牧村は、人口2000人以下と言われ、高齢化率は日本一。
深い山に守られた村で、災害でたびたび孤立している。
こんなところから早く出たい、と思った店長は、高校進学を機に叔父のところに転がり込み、人の笑い声でにぎわう食堂を目の当たりにした。
目ん玉とび出しそうなくらい吃驚したんですよー、と店長。
村の知り合いは、誰もが眉根を寄せて生活していたのだ。
いつしか、人が集まって笑える場所をつくりたい、と思うようになった。
高校卒業後は、富岡市の職員になった。
南牧村に帰っても悪くないとは思ったが、村役場の給料と安定を比べて富岡市を選んでしまった。
お金を貯めるために、ひたすら働いた。
気がつくと、入職から15年。眉根を寄せて仕事をしていた。
後に奥さんとなる女性と出会ったのは、この頃だ。
「店長、結婚してたんですか!?」
「はい、田沢くん、静かにねー」
にこやかに俺を静めようとする手に、指輪はついていない。
「広報をつくっていた頃ですね。外回りをしていたら、路肩に停まっていた車を見つけまして、近くで女の人が困っていたから声をかけたんです。車はね、タイヤがパンクしていただけでしたよ」
奥さんとは、指輪は買ったが挙式はしていない。それでも良いよ、と理解してくれる、優しい奥さんらしい。
高齢を言い訳に食堂を畳んで売ろうとしていた叔父を説得し、店長は喫茶店としてリニューアルオープンしたのだそうだ。
「実はね、この辺がこんなに
近くの椅子が、がたんと動いた。
「店長さん、お手紙お願いね」と、60歳くらいの女の人が店長に封筒を渡す。
どこかで見たような人だ。
女の人と入れ違いに、明らかに知った顔がカウンター席に来た。
秋瑛だった。
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