千羽鶴、承ります⑦
富岡製糸場をたっぷり2時間は見学して、門を出た頃にはお昼の時間をまわっていた。
「お昼ご飯、どうしようか」
「ここから少し歩くけど、おすすめのオムライス屋さんがあるの」
彼女の案内で、その店に行ってみることにする。
堀越店長の喫茶店の前を通り過ぎたが、ガラス越しに見える店内は混んでいる印象である。
「花村さんは、店長のところの常連さんなの?」
「常連……かな? でも、そんなに通っていない気もする」
店長とは、喫茶店を始める前からの知り合いらしい。
彼女の実家の隣に、テーブルや椅子をつくる職人のおじいさんがいて、そのおじいさんと店長が昔からの知り合いなのだそうだ。
おじいさんの孫と彼女のお兄さんが友達で、彼女も職人のおじいさんのところへ遊びに行くことがあったらしい。
「お兄さん、いるんだ」
「うん、いる」
お兄さんについては話してくれなかった。
脱サラした店長は、喫茶店のテーブルや椅子を職人のおじいさんに注文した。
その一部始終を見ていた“孫”と“お兄さん”と彼女もまた、店長と顔見知りになる。
店長は農協に口座を持っていて、農協の金融担当だった彼女と、窓口で顔を合わせることも少なくなかったという。
彼女が喫茶店に行くようになったり千羽鶴のボランティアを始めたのは、この春からだった。
「ごめんなさい。店長は脱サラじゃなくて脱・公務員。富岡市役所のOBなんだって」
「辞めちゃったのか! もったいない」
「もったいないよね」
店長の謎が深まった。
彼女のことも少し明らかになったが、農協の金融担当だったこと以外は明らかになっていない。
少し前を歩く彼女の、パンプスのヒールがリズム良く聞こえるから、この雰囲気を壊したくなかった。
「瑠璃釉のようなバレッタが可愛いね」と言っても良かったかもしれない、と思ったときにはタイミングを逃していた。
彼女おすすめのオムライス屋は、創業何十年みたいな老舗の店だった。
ありきたりな表現だけど、デミグラスソースが美味い。
彼女もおいしそうに口に運んでいたけれど、半分くらいで匙が止まってしまった。
食べないからやせているのだろうか。
でも、高校で3年間同じクラスだった
「花村さんは普段何を食べているの?」
彼女は少し考えてから答えてくれる。
「朝はフルグラ、昼はサラダ、夜は食べたり食べなかったり。……それとも、桑の葉って答えた方が良かった?」
「富岡製糸場だけに?」
俺がぼけると、彼女は顔を綻ばせて「うん」と頷いた。ぼけが通じて安堵した。
でも、まずいな。
これでは、デートしているみたいじゃないか。
昼食後は、群馬県立自然史博物館に行くことにした。
貫前神社まで行くと自然史博物館がまわりきれなくなるかもしれない、とのこと。
「渡したいものがあるの」
彼女に言われ、のこのこついて行ったのは、アパートの駐車場。
彼女は、パステルピンクの軽自動車をスマートキーで解錠し、助手席の大きな封筒を渡してくれた。けっこう厚みがある。
「見てもいい?」
彼女は「うん」と大きく頷く。
封筒の中身は、富岡市の広報だった。おそらく、1年分以上ある。
「借りていいの?」
「あげる」
「まじすか!」
封筒に唾をとばしてしまった。
公務員試験の論文対策になるよ、これ。パソコンからPDF版をダウンロードできるが、実物の方が断然見やすい。
俺は、大学に行くときのリュックサックを持ってきていたので、封筒ごとリュックサックにしまった。
彼女は車のドアを閉めない。
「乗って」と促され、俺は素直に助手席に乗ってしまった。
まずいな。
これではまるでデートしているみたいじゃないか。
俺がヒモ男っぽいけど。
群馬県立自然史博物館では、彼女は大きな瞳を輝かせて鉱石の展示を見つめていた。
その様子を見ていたら、彼女の黒目がちの大きな双眸を「黒曜石のような」と表現したくなる。
彼女は午前中に比べて口数が増え、綻ぶ表情が多くなった。
彼女の表情を目で追ってしまう。
まずいな。
これではまるで変態ではないか。
彼女は図書館や病院の前も通ってくれて、市役所の駐車場で降ろしてくれた。
時間は17時半。
「ありがとうございました」
俺は深々と彼女に頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
彼女も車を降りてお辞儀をひとつ。
彼女は俺より頭ひとつ分以上小さくて、彼女の頭を撫でたくなってしまう。
急にそんなことをしたら、彼女は怒るだろうな。
「田沢くんのお話、面白かった。本当に世界遺産が好きなんだね」
「嫌じゃなかった?」
「全然」
彼女が続けて何か言おうとしたとき、「みづき」と呼ぶ声が割り込んだ。
男の人がひとり、こちらに近づいてくる。
彼女の瞳がわずかに揺らぐ。
「兄さん」と彼女は呟いた。
男は彼女の前で歩みを止め、にわかに手を上げる。
一瞬だけ、蝉の鳴き声が止まった気がした。
代わりに耳に入ったのは、効果音のような「ごっ」という音。
彼女の体が、ぐらりと傾いだ。
俺はとっさに彼女の肩を支える。
夕方であるのに蒸し暑い中、その男は涼しい顔をしている。
信じたくなかった。
彼女が殴られたことを。
彼女を殴ったのが彼女のお兄さんで、今日の朝に俺が市役所の廊下ですれ違った人だということを。
しかし、事実なのだ。
彼女は男を「兄さん」と呼び、その男は目の下のほくろが印象的な、白シャツとグレーのスラックスが爽やかなあの人なのだから。
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