千羽鶴、承ります⑥
富岡製糸場は、世界文化遺産に登録された年は、来場者が100万人近くいたという。
今はだいぶ減ってしまったそうだが、夏休みということもあって入場者は多そうだった。
見学券売り場には列ができている。
「ピンク、可愛い」
後ろから呟きが聞こえた。
振り返ると、彼女と目が合う。黒目がちの大きな双眸が上目遣いで俺をとらえてくれる。
「ピンクのシャツ、可愛いね」
そして目を伏せる彼女。俯いてはいない。
俺、ピンク着てきて良かった!
ではなく。
隣に並んでいたとばかり思っていた彼女が、知らぬ間に背後にいたことに驚いた。
隣でいいのに。
見学券の料金は、彼女が俺の分も払うつもりでいたらしいが、俺が強引に彼女の分も支払った。
ごめんね、がまたひとつ増えた。
富岡製糸場は、日本史の教科書にも出てくる有名な工場だ。
官営模範工場として明治5年に操業を開始した。
メインゲートともいえる東置繭所の要石には「明治五年」と彫られている。
彼女は東置繭所の中に入ろうとせず、少し離れた場所から屋根瓦を見上げる。
俺は彼女と同じ目線から屋根瓦を見上げてみた。
「あっ!」
彼女の耳元で大声を出してしまった。
彼女は「ね?」と小首を傾げる。
屋根瓦の上には、ハート形の針金が立っているのだ。俺は何度もここに来ているのに、全く気づかなかった。
ふたりして、スマートフォンを出して、ハート形の針金を撮る。
俺は2枚ほど撮ってスマートフォンをしまったが、彼女は真剣に撮影していた。
パフスリーブのような袖からあらわになる腕は細く、白くてしなやかだ。袖口から手のひらが入ってしまいそうな余裕がある。
ブラウスの胸元はタックのようなひだがあり、つい目がいってしまう。バストサイズは大きくなく小さくもなく、といったところか。
彼女はスマートフォンのケースを閉じ、バッグにしまった。
「ごめんなさい……つい、夢中になってしまって」
「いいんじゃないかな。花村さん、すごいの見つけたね」
恐縮です、と彼女は口ごもる。
隣にいていいんだよ。
はしゃいでいいんだよ。
ここはもう3組の教室じゃないんだから。
そう言いたいけれど、言えない俺がいる。
彼女は、展示や解説をひとつひとつじっくり見つめる。
黒目がちの大きな双眸は、きらきらと輝いているようだった。
「すごいね。こんなに大きな倉庫に、繭をたくさん入れていたんだね」
言葉は冷静だけど、彼女ははしゃいでいる。
俺は調子に乗って、マニアックな情報を一気にひけらかしてしまった。
富岡製糸場の煉瓦は、地元の瓦職人が試行錯誤の末に製造したものである。煉瓦の中心まで熱が通るように、石を練り込んで煉瓦を焼いた。職人は、自分が焼いたものである証しに、煉瓦に印を入れた。
意外にも家柄の良い女性が工女として働いていた。
労働環境は充実していた。勤務は1日8時間程度。当時としては珍しい七曜制を導入し、日曜日を休みとした。年末年始と夏に休暇があり、福利厚生もしっかりしていた。
県令・
富岡製糸場は民間企業に払い下げられた後も、昭和62年まで操業していた。第二次世界大戦の空襲の被害に遭うこともなく、良好な状態で保存されてきた。
平成26年6月にプラハのドーハで開催された第38回世界遺産委員会で、富岡製糸場を含む「富岡製糸場と絹産業遺産群」は世界文化遺産に登録された。
また、同年12月には東置繭所、西置繭所、操糸場が国宝に指定された。
彼女が「うんうん」と聞いてくれるから、俺は酒が入ったように語ってしまう。
「田沢くん、すごい」
黒目がちの大きな双眸が俺を見てくれる。むずがゆいけど嫌ではない。
でも、すごいのは彼女の方だ。
些細なことに気づくことがある。
例えば、
東置繭所と西置繭所の中間に、他の建物に隠れるようにひっそりと佇んでいる。
実は、俺は以前に一度見ただけで素通りしてしまった。
しかし、彼女はじっと見ていたらしい。西置繭所の前で小走りで来られるまで、俺は彼女と離れていたことさえ気づかなかった。
「ごめんなさい」
「いえいえ、俺の方こそごめんなさい」
「でも、鉄水溜ってすごいね。日本最古級なんだね」
俺はその言葉を聞いて、鉄水溜の前まで戻った。
鉄水溜の解説には、「日本で現存する鉄製構造物としては最古級」と書かれている。直径15.2m、深さは最深部で2.4m。すごいよ、これ。
倉庫が木骨煉瓦造りでフランス積みだとか、操糸場の梁がトラス構造だとかは見て知っていたが、鉄水溜までは気にしていなかった。
彼女は他にも、寄宿舎の「購買」の看板や、病室の電灯をじっと見つめていた。
「見て見て」
売店で彼女が指差したのは、壁にひっそりと貼られた「晴雨表」だった。おそらく、操業当時のものである。
「すごいね。今も残っているんだね」
すごいのは、彼女の方だ。
彼女に同行をお願いして良かった。
鉄水溜とか、新たに気づけたことは大きな収穫である。
それに。感情表現も行動も控えめな彼女が、「すごい」を連発し、小首を傾げ、物に向かって指差したり。意外な一面を見ることができた。
見学終わりに職員に聞いたところ、東置繭所の屋根のハート形の針金は、避雷針であるそうだ。
「愛の力で雷を避けるってか?」なんて冗談めかして彼女に言ってみようかと思ったが、やめた。
彼女のつまらなそうな顔は見たくないから。
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