千羽鶴、承ります②

 ドアベルの乾いた音が、高い湿度に吸収されるように溶けて消えた。

 喫茶店だという建物に一歩入った途端、冷気が優しく体を包んでくれる。

 「いらっしゃいませー」と声をかけてくれたのは、カウンターの向こうの男の人だ。

 ぱっと見た感じでは、40歳くらい。いかにも「カフェやってます」な雰囲気がある。悔しいが、背が高くてハンサムだ。

「店長、おはようございます」

 彼女は、カウンターの向こうに深々と頭を下げた。

 それから、俺に「店長の堀越ほりこし千博ちひろさん」と教えてくれた。俺のことは「同じ高校だった田沢洋也ひろなりくん」と紹介してくれた。彼女は俺の名前をちゃんと覚えてくれていたのだ。

「みづきちゃん、富田さん来てるよ」

「すみません。ありがとうございます」

 店内には、お客さんがひとりしか来ていなかった。一番奥のテーブル席にいる女の人が“富田さん”だろう。

 彼女は一番奥のテーブルまで行き、“富田さん”に挨拶をして席に着いた。



「田沢くん……? お好きな席にどうぞ。何か淹れますよ」

 店長にすすめられ、俺はカウンター席のフォトフレームの近くに座った。そのフォトフレームにメニューが書かれていると思ったからだ。

 その思い込みから、フォトフレームを手に取り、メニューでない文章をしげしげと眺めてしまった。



 ――千羽鶴、承ります。お気軽にご相談下さい。



 千羽鶴……そのフレーズで思い出したのは、高校3年生のある日の放課後。

 千羽鶴を完成させた彼女の姿だ。



「あのぉ、どうぞ楽になさって下さい」

 カウンターの向こうから、ミネラルウォーターのグラスが差し出された。

「こんな暑い中、市役所まで願書を出しに行くなんて、大変だったでしょう。もう市の職員は誰も見ていませんから、楽になさって下さい」

 えへっ、とでも言いそうに、店長は破顔した。ハンサムなのに、喋り方も表情もひょうきんである。

 俺は「千羽鶴」のフォトフレームを手から落としてしまった。床に落ちることはなく、ぱたりとテーブルに伏せられる。

「この時期になるとですね、スーツを着た若い子が市役所まで公務員試験の願書を出しに行くんですよね。今どき、郵送不可なんて嫌になっちゃいますよね。その流れで、富岡製糸場の見学に行く子もいるんですけど、それはやめた方が良いと思いますよ? そういう人、意外と目立ちますから」

 俺の行動と思考は店長に読まれていた。

 焦りを悟られまいと、フォトフレームを立てようと試みるも、今度は手がすべって床に落としてしまう。

 フォトフレームを拾おうとするが、“富田さん”がすぐ横を通って行ったため拾うことができず、次に隣を通った彼女に拾われてしまった。

「富田さん、これを見てくれたんだって」

「千羽鶴……って?」

「うん。私ね、ボランティアで千羽鶴をつくっているの」

 彼女もカウンター席に座った。

「みづきちゃん、何か飲む?」

 店長に訊かれ、彼女はアイスコーヒーを注文した。俺も同じものを注文する。



 ただ今、10時35分。ランチには早過ぎる。

「花村さん、大学とか行ってるの?」

「ううん。進学しないで農協に就職したの。今年の春に辞めちゃったけど。今は違うところで働いているんだよ」

 彼女の服装は、ダークカーキのブラウスに、オリーブ色のワイドパンツ。足元は、スニーカーみたいなパンプス。ナチュラル系のデザインである。もしかしたら、制服貸与の職場に勤めているのかもしれない。

 そういえば、彼女は高卒での就職を希望していた、と耳にしたことがあった。大学進学を希望する人が大半を占めていた中で、彼女は「皆が頑張っているのに士気を下げるやつ」と嫌われていたのだ。

 会話は続かない。

 ジャケットとネクタイを脱いで汗の引いた体は、寒くなるほど冷え切ってしまった。

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