パンドラと恋慕

鳴海ゆり乃

『その女は死神です』


  ✽  ✽  ✽




「その女は、死神です」


 書物の詰まる本棚が、その部屋の大部分を占める。部屋の中央には、電灯の灯りで艶々と煌めく漆塗りのテーブルが本棚に囲まれるようにして置かれていた。テーブルの向かいの両側には、高級感のある革製のソファがある。座り心地は良いが落ち着かない。


 しかし俺は、ドカリとソファに深く腰掛け、ブレザーを着る女子の後ろ姿を見据える。


 女子の立つカウンター風の、横に長いテーブルは俺が初めてこの部屋に入った時からあった。___俺の座るソファと、漆塗りのテーブルはその時、まだ無かった。


 一隅にあるコンセントにポットのプラグを挿し、ポットをテーブルの上に置いている。また、汚れのない純白のタオルには、ふたつのティカップとティポットが逆さにされている。彼女の几帳面なところがうかがえる。


頭上にある戸棚には、紅茶のティパックの在庫が整頓されているはずだ。


 こんな風に蔵書などの物置と化した、空き教室を勝手に、台所のように改造したのは紛れもなくそこに立つ女子生徒である。


「死神と言っても一刀両断に«死をいざなう»とは言い切れません」


 こちらに背を向け、タオルの上のティカップをひっくり返し、ポットの湯を注ぎ、せかせかと紅茶を淹れていながらも、理路整然と語っている。


「そもそも先輩はご存知です?」


 そこで、ようやくふたつのカップをお盆に載せてクルリと身体の向きを変えた。盆をテーブルに置くと、向かいにある、俺の座るものと全く同じソファに腰を下ろす。気品漂う華麗な身のこなしは、いいところのお嬢さんに見える。


 私立 清條院(ショウジョウイン)学園に通う、高校1年生の明石 ひな乃(アカシ ヒナノ)。怜悧な程に整った顔立ちの彼女は、生徒、特に男子からの注目を集め、傾国の美女ならぬ傾園(ケイエン)の美女などと呼ばれている。


 長くて艷やかな黒髪はふたつにまとめられていて、高い位置に結われている。愛らしい顔立ちに、アイドルのようなツインテール。


 俺も初めてひな乃を見た時、彼女の周りに鮮やかな色の薔薇が咲いているかのような錯覚がし、衝撃的だったのを覚えている。


 まるで、現代に生ける、お姫様。



「“死”を司る神なんて言って崇めていますが。

先輩が思う死神は比喩です、擬人化です」



 後輩なのに、やけに頭の良さそうな喋り方が傲慢というか偉そうというか。


 口を挟むのは得策ではない。多分、言いくるめられるからだ。

 お喋りに関しては彼女の方が二倍も三倍も上手だろう。それに俺は家で、“男は無言で制する” ことを躾けられてきた。故に、寡黙でいることが習慣づいている。


 俺は話に耳を傾けながらティカップに口をつけた。


 __まろやかな味が口の中に広がる。鼻呼吸すると、爽やかな薫りがして、味も薫りも楽しめる銘茶だ。


 俺は父親の紅茶好きで、小さいからよく飲む機会があったので割と紅茶に対して詳しいと思っていた。


 しかし、ひな乃の淹れてくれる紅茶は今まで飲んだことのないような、珍しい風味だった。なんていう品種か尋ねたところ、庶民の価格で安物だと言われたのだが、俺には一番コレが合っていると思う。


「神話や、タロットカード…あぁ、最近では漫画や小説にもよく出てきますよね」


 愛らしい声が小さな教室に満ちる。


 うつむき加減のひな乃。

長く生い茂るまつ毛が瞬きするたびに揺れる。


「でも死神は、もっとずっと狡猾ですから、あんな風に視覚的にいかにも『死神』なんて思われるような身なりをしていません。自ら名乗ることもありません」


 もちろん、それは“死神”の存在を肯定した上でのことですが、と続け、彼女も一口、ティカップに口をつける。


 その際、ひな乃の口元に視線が自然と向かう。薄紅色の、柔らかそうな唇は、カップに触れてセクシーな印象を俺に与えた。



「あ……」


 そして、その唇は小さく開かれ、僅かに嬌声を発した。


 俺の視線に気付いたからか?と、表情を伺うと恍惚としていて、その目は俺ではなくティカップの中身を見ていた。


 トロンと垂れた瞳は紅茶を飲んだことが嬉しくて堪らない、そんな風に感じられる。

 そうやって、いつも砂糖菓子みたいに甘く笑っていればいいのに。



「先輩、お味いかがです?」



 またたく間に表情が元に戻り、無表情で冷徹さえ感じる。

 …そういうことって、俺が紅茶を飲んだすぐ後に聞くものじゃないのか?


「いつも通り、うん、ファンタスティックな味で」


「では、ミルクやお砂糖はいりますか?」


「それならもっと早く聞くべきだし__いつも通り要らないよ」


 この後輩は、俺をからかっているのだろうか。毎度毎度のやり取りなので、もう気には留めないが。

(下から更新)





 刻々と、優雅に時は流れる。

 ひな乃はいつだって気まぐれで、会話が途中でぶつ切りの時もある。

 __死神。ひな乃の語ったソレがどうしても気になった。

 しかし、再び尋ねる必要はなかった。ひな乃が、独り言のように、ポツリと切り出したからだ。

「死神の彼女は、きっと、気が付いたら__細くて嘗めかましい蛇のように、絡みつくでしょう。その毒牙に犯されることでしょう」

「__毒牙…。えっと、ひな乃、比喩は分かりづらい」

 死神を比喩と評したが、ひな乃も大概だ。

 ひな乃は顔を上げて、俺の目を鋭い眼差しで見つめた。視線と視線が交じり合う、この瞬間。

 ひな乃がこのような目付きで俺を見るのは、間々あることで。

「果たして、ほんとうに比喩でしょうか?」

「俺が聞いたのは“相模 千里”のことで」

「駿河先輩、私から言えることはこれ以上ありません。

それに、“相模 千里”さんは、先輩と同級生でしょう。私に聞くよりも同級生を当たってみた方が、有力な情報を得られるかと」

 穏やかな声色とは裏腹に、依然として鋭く冷ややかな眼差しを向け、畳み掛けてくる彼女。

 駿河先輩、とひな乃が俺を呼ぶ時は本気で牽制しようとしている証拠だ。

 __ゾクリ。俺の何もかもを射抜いた視線に、どうしようもなく粟立つ。 

 胸に生じるのは、恐怖心。

 そう、俺はひな乃のことを後輩として気に入っているが、怖いとも思うのだ。

 時折、軽侮されたような視線を浴びせられる。情けない話だが、それに畏怖するのだ。

 理由は見当もつかない。

ひな乃はこうやって俺をこの教室に歓迎してくれて、紅茶まで淹れてくれるが、嫌っているのではないか。

 しきりに、渦巻いた形容しがたい感情。

 ひな乃が、怖い。

 しかし、俺は先程のような、ひな乃の砂糖菓子の甘い笑みを求めている。

 今日はもう、ひな乃の笑顔を見られない。

 ひな乃の地雷を踏んで、機嫌を損ねてしまったら、翌日にならないと、会話すらままならなくなるのだ。

 そう観念した俺は、残りの紅茶を一気に飲み込む。

 口の中に広がる風味は鼻孔を突き抜けた。

熱い液体が身体に染み渡る感覚は、なんともいえない。もっとゆっくり味わいたかった。

 機嫌の良いひな乃なら、ゆっくり飲むべきだとかチクチク言われるが、無言で冷淡な眼差しを浴びせられたままで。


「今日は帰る」

 俺はソファから、鞄を手に立ち上がった。

 彼女に背を向け、扉の鍵を開ける。そして、ドアノブを回した。

「施錠はこちらでしますので」

 冷ややかな声を背で受け止め、その場を後にした。


 __『その女は、死神です』


 帰りのバスにの座席に腰掛け、穏やかな運転に揺られながら、ひな乃の言葉を頭の中で反芻する。

 車内に差し込む夕陽に、目を細めながら。

 死神。しにがみ。シニガミ。

 俺はただ、“相模 千里”について尋ねただけなのに。

 __相模 千里(サガミ センリ)。相模 千里が、死神。なんだそれは、甚だしい。

 しかしひな乃の、あの剣幕。あんな平然と死神と言うということは、それほど過度な比喩ではないのだろうか。

 それともひな乃は、俺を唆して弄ぼうとして、死神と、相模 千里を喩えたのだろうか。

 俺は相模 千里を見たことが一度しかなく、相模について知らない。

 一体あの女子がどんな人物なのか。

 何を想い、何故俺にあんな風に囁いたのか__…。

 『__可哀想に。私と同じです』

 俺を、憐れむような、慈悲深さが伺える表情で、俺のことなど知らないはずなのに。何故、なぜ。


 相模 千里は同じく清條院学園の、2年生で俺と同級生で、でも全く関わりのない女子。

 ある日、相模と廊下ですれ違った際に、馴染み深い薫りがふわりと漂ったため、思わず振り返った。

 そして、何を思ったのか相模も振り返り、俺を見据えていて、可哀想に、私と同じ、と清らかな声で言い放ったのだ。

 そんな、謎めいた言葉を掛けられても思い当たる節はない。なにせ、俺は初めて相模を見たのだから。

 容姿の特徴から、友人に聞いたところ、俺にそう囁いたのは相模 千里だと割とすぐ分かった。

 腰までの黒いストレートロングが印象的で、恐らく学年で一番髪が長いと思う。 後ろ髪同様、前髪も長く目はあまり見えなかったが、鼻と口の形が綺麗だった。

 すれ違いざまの、あの薫りが引っ掛かる、知っている気がする__しかし、いつも嗅いでいるような薫りなのに、何だったか思い出せなくて。

 気味の悪い言葉と、その薫りが気になって堪らなかったから、ひな乃に尋ねたのだ。相模 千里がどんな人物か。

 ひな乃は、先程同級生に当たってみたほうが良いと言ったが、それは謙遜だ。 ひな乃の洞察力は卓越していて、俺はその安定性を信頼している。

 しかし、今回ばかりは、死神に蛇、毒牙。悪印象を与えられただけだった。

 こうなったら自ら行動するのみ。人伝だと信憑性が薄く、人間性は実際にその人と触れ合ってこそ分かるものだ。

 噂に一々 扇動するより、コンタクトを取って確かめるんだ。

  あの、言葉の真意を聞こう。


 土日を挟み、新たな週が始まった。週始め特有の陰鬱な朝を迎え、学園へと足を運ぶ。

 昇降口に入ると、時計はまだ7時半を指していた。グラウンドには、部活動の朝練をしている野球部がいたが、それ以外はまだ登校していなさそうだ。

 静かな朝は、精神が清らかになる。濁った塊が、清水に洗い流されていく感覚がする。

 外靴から上履きへ履き替え、教室まで歩く。


「先輩」

 2日振りの声に、立ち止まる。こんな粛々とした朝にふさわしい穏やかさで、だから俺は恐怖に駆られた。

 振り返り、対面する。

「おはようございます」

 明石 ひな乃の姿は、何故か霞んで見えて、幻想的である。

 あの教室で別れた時の冷淡な様子は欠片もなく、柔らかい雰囲気を醸していた。 しかし、口元も目元も笑ってはいない。

 ツインテールをレースのついた臙脂色のリボンで結んでるその容姿は、やはりお嬢様にしか見えない。 自らを庶民と言っているが、庶民感のない女だ。

「“今日は”お早いのですね」

「今日は…?」

 意味深長な言い回しに、他ならぬ狂気を感じた。

「ひな乃、寝不足なのか?」

 それよりも気になるのは、ひな乃の目元にある隈だった。 折角の美少女顔が、隈のせいでげっそりと痩けた印象を与えている。

「__明け方って、カラスの鳴き声が聞こえてくるので、夕暮れの中にいるのではないかと錯覚します」

 それは、俺の質問に肯定したということだろう。つまり、彼女は昨夜眠らなかった、あるいは眠れなかったのだ。

「先輩、金曜のことですが」

 出た、ひな乃の特技(でもないが)、会話のぶつ切り。もしかして謝られるのかと思ったが、言葉の続きに俺は意表をつかれた。


「その女は、死神です。誰がなんと言おうが」


 真っ直ぐな視線。俺には、ひな乃が死神に見える。俺を、視線という名の鎌で殺そうとしている。

「__これは、警告です。

先輩が聞き入れてくだされば、それで構いません」

 ひな乃は踵を返し、俺から離れていく。あんなに意思の通った眼差しを、俺はかつて見たことない。


 彼女は俺を待ち伏せていたのだろうか。俺に忠告するために。

 ひな乃が昨晩眠れなかった理由。それは、俺が相模のことを尋ねたから__…?

 ただの杞憂なら良いのだが、もしも相模とひな乃が知り合いで、さらにその仲が悪かったとしたら、機嫌を損ねる条件は揃っている。

 あんな風に、“死神”と呼ぶくらいだ。眠れなくなるほど、嫌っているのかもしれない。


 ひな乃を見送り、自らも教室へ行く。無人の教室へ。鞄を置いて、することもないので廊下に出る。

 壁には間隔的に絵画が飾られている。誰もが見たことのあるような著名なもののコピー画が多いが、入賞した生徒作品なども掛けられている。

 職員室の目の前には副校長の描いたものもある。

 廊下はずっと先まで閑静で、なんだか唐突に叫んで、声を響かせたくなる。こんな静かな廊下に叫喚したらどれだけ気持ち良いだろうか、と思ったが当然そんなことはしなかった。


「ここって…」

 2-Cと表記されたプレートが掛かる教室。それは俺のA組から見ると、2-Bを挟んで隣の隣のクラス。

 そして、相模 千里の所属する教室である。

 閉じられた引き戸から教室を除くと、朝練の生徒のものか、ショルダーバッグが机に無造作に置かれている。

 相模の姿は無かった。それどころか、誰一人として居ない。

 期待はしていなかった。帰宅部らしい彼女が朝早くから学校に来ている方がおかしいし、偶然居る可能性なんてほぼゼロである。

 偶然とか、そんなムシの良い話があったら、聞いてみたいものだ。


 俺は2-cから離れ、上の階への階段を登った。さっき別れたひな乃なら暇潰しに話でもしてくれるだろうと思い。

 しかし、ひな乃のクラス、1-Aには人は居なかった。トイレか何かかと思ったが、ひな乃の机には鞄が掛けられていない。

 教室に来ていない、または鞄を持ち歩いてどこかへ行ったということになる。

 本来、他学年の階層にいるのを教師に見られたら良い顔をされず、むしろ注意されるので、そそくさと1年生の4階を後にする。

 校舎は、2階が3年、3階が2年、4階が3年という構造になっている。俺は1階へと下りる。

 狐色のドアの目の前に立つと、まず、周囲に人がいないか伺う。そしておもむろにポケットから鍵を取り出して、ドアノブの鍵穴に挿し、回す。


「ひな乃」

 そう呼び掛けながらドアを引いたが、そこにもひな乃の姿はなかった。多数の古びた蔵書が囲うふたつの対面したソファと、その間にある漆塗りのテーブル。奥手にはカウンター風の台と戸棚が。

 そんな教室を、窓から入り込んでいる朝焼けが照らし、キラキラと埃を可視させる。

 その静寂に、虚しい気持ちが広がった。

 今度こそひな乃を諦めた俺は、大人しく教室へ戻り、読書して時間を潰すことにした。こんなに暇なら、次から早く学校には来ない。と、密かに誓った俺であった。


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パンドラと恋慕 鳴海ゆり乃 @yuririman92

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