五
第1話
「衣装は綺麗だけど……」
着ていたパジャマを脱がされて、リンコは与えられた衣服を着付けられながら言った。その前に湯船に浸かり、全身に花を擦り付けられた。潰れた花びらから、強い芳香がする。
「でも、わたしは花嫁にはなるつもりはないんだよね。それはディヴァナシーにも言ったんだ。ディヴァナシーも知ってることなんだよ。だからこんな支度することないんだよ」
リンコが呟く言葉を、世話をする雌達は気いてないふりをした。実際は聞いていたが、リンコを花嫁とは認めていなかったからだ。リョダリの花嫁はディヴァナシーだけだ。彼女だけが長の花嫁足りえる。そのように育てられた。生まれた時に先祖返りだと雌達が知った時から。その時に、ディヴァナシーの運命は決まっていた。それを一番悩んだのが彼女自身だということも、一緒に育った雌達はよく理解していた。だからこそ、ディヴァナシーに従っている。目の前の得体のしれない異種族の雌に、ディヴァナシーの役割を奪われてはいけないと本音では思っているのだ。
リンコは雌達の思惑など知らず、ぶつぶつと文句を言い続けた。
「長って一番偉くても、ディヴァナシーより偉くないんでしょ。なんでディヴァナシーは命令しないのかな。一言、あんたはわたしの夫になるんだって言えば済むことじゃない」
聞かないふりができなかった雌が反論した。
「ディヴァナシー様は隠された雌なのです。雄の前には一切でてはいけないのです。たとえ、それが将来の夫であっても自分から会いに行けないのです。そういう決まりなのです。もしも、ディヴァナシー様が後宮から出て、雄に姿を見せてしまえば、争いのもとになるからです。ディヴァナシー様だって、リョダリ様を説き伏せに行きたいはずです。でも、それはできないことなのです」
「しっ、余計なことを言うのはやめて」
雌達が言い合っている。リンコは口をとがらせた。
「争いになるってなんで」
「ディヴァナシー様は美しすぎるのです。発情の芳香もそれは芳しいのです。雄達は発情を促されて、ディヴァナシー様を自分のものにしようと思うでしょう。リョダリ様のものであることももはや忘れてしまうのです。番いの儀式を行おうと、角競り合いだけでなく殺し合いをする可能性もあります。昔そういうことがあって、先祖返りは隠されたのです。長だけのものになるという取り決めになったのです」
「殺し合いになるの」
雌達はため息を吐いて、リンコの顔に化粧を施していった。
「そうです。雄は本能に従い、理性を失います。それは、リンコも同じことです。あなたも素晴らしい匂いがする。雄は放っておかないでしょう。だから、忠告します。決して、その首からかけたネックレスを取らないことです。雌の発情の匂いに誘発されて発情してしまった雄は、確実に目の前の雌を愛します。雌も発情した雄の香りに抗えません。逃げるつもりなら、理性を保つためにネックレスを外さないことです」
「わ、わかった……」
リンコは薄衣の上にかけられた赤い宝石のネックレスを握りしめた。
すると、雌の一頭がクスクスと笑った。
「繻子の向こうにいる、ドゥルラナ様も発情しています。あなたと最初にあったのはドゥルラナ様でしょう? あの人はあなたの匂いに抗えなかったから、精一杯の誠意を見せてガーディアンになったのです。素晴らしい理性ですよ。本当なら、あなたと遭遇した時点で、本能に従ったかもしれないのに」
「そうなの!?」
リンコは驚いた。
「余計なことは言わないでください」
繻子の向こう側からドゥルラナが咳払いをした。
雌達はドゥルラナの言葉を聞いて笑いさざめいた。
リンコだけが合点がいかなかった。ドゥルラナは意地悪だ。近づくなと言って、突っぱねてばかりいる。ガーディアンになるといったくせに、少しも優しくないからだった。発情するというのもよくわからない。発情の匂いというのは更にわからなかった。リンコはこの世界のことが全く理解できなかった。
恋や愛というのは気持ちの問題じゃないのだろうか。発情したら自分の気持とは関係なく愛してしまうという。そんなものは愛じゃないと思った。では愛とは何か、と問われたらリンコも答えに窮してしまう。愛という概念はリンコの中ではふわふわとしたもので、はっきりと形になっていない。片思いはしたけれど、それは自分勝手なものだった。リンコはいまだに愛を知らない。ましてや恋さえも知らないのかもしれなかった。リンコの心のなかの愛や恋は、この屋敷の繻子の奥に眠る宝石のようなものだ。一枚一枚繻子をめくっていかなければいけない。リンコはいまだに繻子のめくり方を知らない。めくり方を知った時に、リンコはどういうふうに変わっていくのか、リンコですらわからない。怖いと思う。繻子をめくることなどないように願ってしまう。そのくらい、リンコにとって、愛は得体のしれないものだった。
いつの間にか化粧を終え、肩甲骨までの長い黒髪を後ろで一つのみつあみにされた。三つ編みには肌にこすりつけたのと同じ花が編み込まれた。化粧は赤い染料を額と目の下、顎に塗りつけただけのものだ。体には一枚の長くて薄い生地を巻き、肩に金の留め具を付けた。まるで、ギリシャの服装みたいなものだった。腰にも宝石が象嵌された美しい金飾りの帯が巻かれていく。布を巻きつけていたが、腰から下の布には切れ目が付けてあり、歩くと腰までひらりと
「これ、すごく恥ずかしいよ」
布をひらひらさせながら、リンコは正直に世話をする雌に言った。
「仕方ありません。花嫁衣装です。初夜に夫となる雄を迎えやすくするためです」
そう聞いて、リンコはぞっとした。何をするのか詳しくは知らない。本で読んだ薄っぺらな知識しかないのだ。一体何をするのか想像もできない。ましてや、相手は下半身が麒麟だ。動物の交尾すら見たことがないリンコにとって、それは未知の恐怖でしかなかった。
否が応もなく、支度を終えたリンコは、雌達に引き立てられて、繻子をめくって石造りの屋敷を出た。するとそこには雌が四頭、布を下げた金の棒を持ち、四方を囲み、リンコを見えなくした。リンコは隠されたまま、屋敷の近くに建てられた長の小屋まで連れて行かれた。長の小屋の前には、ドゥルラナ以外の雄が松明を持って二頭立っていた。雌達はそのまま小屋に入り、長のいる小屋の奥まで歩いて行った。
リンコは布で周囲を隠されているので何がなんだか分からない。時折、つまずきながら、案内されるままに従った。
「いつまでこうしてるの?」
「長の前に出るまでです。もうすぐですよ」
雌の一頭がそう言ったかと思った途端、リンコの視界が開けた。雌達がリンコを前にして、後ろで一列に並び、布を広げたのだ。リンコの前に、クッションに持たれて横になった雄がいた。ドゥルラナよりも一回り大きな体軀の雄だった。顔も彫りが深く、イケメンの度合いは目の前の雄のほうが上だった。しかし、目つきは今まで見たどんな人間よりも嫌な感じがした。値踏みするように上から下までリンコを眺めて、あざ笑うようにフンと鼻を鳴らした。
リンコはカッとなったが、目の前の雄の大きさに萎縮して、黙っていた。
「これがリンコか」
長であるリョダリが言った。
リンコの見えないところから、ドゥルラナの声がした。
「そうです。異界の雌です」
「小さいな」
「まだ幼いのです」
「しかし、もう発情しているようだぞ」
「まだ、仔をなすには若すぎると判断しましたが……」
リョダリがまた鼻を鳴らした。
「お前の判断することじゃない。俺が判断する」
「申しわけありません」
リンコは心のなかで、《私だって意見が言いたい……。けど、この人、怖い……》と感じていた。
リョダリがリンコを睨めつけた。
「お前は俺の花嫁になるんだ。そして、仔をなせばいい。小さいが、他の雌と同じだ。困ることなどないだろう。リンコ、俺の隣に座れ」
リンコは言われるがままに、リョダリの隣に座った。ますますその大きさに萎縮する。リョダリはまるで巨大な馬か何かだった。見事な豹紋の芦毛で、長いたてがみはくるくるとカールしている。人間の腰と麒麟の胴に、金の帯が巻きつけてあるのはドゥルラナと同じだった。巨人のようなリョダリに恐れをなして、リンコは小さくなり、正座していた。そうすると、腰の布が四方に広がり、花びらのように見えた。凛子は恥ずかしい思いで布をかき集めて、腰の周りを隠した。
顔を上げると、たくさんの雄がいた。右手にドゥルラナがいて、凛子はホッとした。気づくと、リョダリや他のオスの前には皿が広げられて、たくさんの食べ物が盛りつけられていた。
「さぁ、宴だ。皆、飲んで食い騒げ。この雌が俺の花嫁になる。小さいが立派な雌だ」
「おお!」
雄達が一斉に声を上げた。
目の前の大皿には、平たいパンのようなもの、丸い団子のようなものや、野菜を焼いたものからスープまで様々だった。肉だけが見当たらないだけで、とてもヘルシーな料理ばかりだった。果物もたくさんあった。大半が干した果物だった。誰も、リンコに給仕するものはいなかった。他の雄やリョダリですら、食事は自分で取り、手酌をしている。下半身が麒麟だと、簡単に立ったり座ったりができないのだろう。雌はさっさと小屋から出て行った。雌は給仕する役目じゃないのかもしれない。ディヴァナシーが言っていた。雌は雄よりも偉い。給仕する役目は雄なのだろう。
リンコが戸惑っていると、ドゥルラナが仕草で食べ方を教えてくれた。スープにパンや団子をひたして食べている。全部素手で食べるようだった。凛子はおずおずと、目の前の皿のスープに裂いたパンをひたした。口に運んで、初めて美味しいと思った。甘くて香辛料の効いたスープの味に、もっちりとしたパンが良くあった。
麒麟は誰を愛す〜召喚された花嫁〜 藍上央理 @aiueourioxo
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