四
第1話
「気が済んだ?」
泣きはらした顔をリンコが上げた時、ディヴァナシーが声をかけた。
「泣いても仕方ないこと。変えようがないのよ」
最初にあった時の慇懃な態度が穏やかになっている。ディヴァナシーがリンコの本心を見たせいだろう。意地になっているとはいえ、好きな雄の花嫁になる雌に会うのだから、気を尖らせて当たり前だった。
リンコは涙を拭い、ディヴァナシーを見た。相変わらず美しい彼女は、きらきらときらめいて見える。こんなにも美しい許嫁を放っておくなんて気がしれないと、リンコは思った。いくらプライドを傷つけられたとしても、こんなにもすれ違ってしまうものなのだろうか。リンコには複雑すぎて理解できなかった。恋は駆け引きという言葉を聞いたことはあるが、こんなふうな意地の張り合いだとは知らなかった。リョダリがひと目でもディヴァナシーを見たなら、きっとこちらを花嫁だと決めるはずだろう。それなのに、ひと目も見に来ないなんて。それとも、ディヴァナシーはリョダリが来るのを待っているのだろうか。だったら会いに行けばいいのに……と、リンコは不思議に思った。
「なんで、ディヴァナシーはリョダリに会いに行かないの」
「会いに行っても、リョダリはわたくしに会おうとはしないわ。そういう雄なのよ」
「でも、その姿を見たら、きっと花嫁はディヴァナシーだと分かるよ」
「リンコ、わたくしがなぜ姿を布で隠しているか分かる?」
「分からない」
「これは昔、先祖返りを見た雄が決めたことなのよ。長だった雄はあまりにも美しい先祖返りを独り占めにしたかったの。それで、表では先祖返りは醜いものだと信じさせて、雌だけの秘密にしたのよ」
「なにそれ」
リンコは驚いた。
「だから、先祖返りの雌が代々の長の花嫁になることは生まれた時から決まっているのよ。わたくしの意志でリョダリを番いの相手と決めたわけではないの。けれど、わたくしは年下の幼いリョダリに恋をした。でも、それを素直に認めたくなかった。その結果がこれなのよ。リョダリが悪いわけではないの。最初にリョダリのプライドを傷つけてしまったわたくしのせいなの」
「でも、謝ればいいよ。謝れば、リョダリも許してくれるかもしれない」
「今更、謝るなんて……。リョダリは決して受け入れてくれないわ」
頑なにディヴァナシーは言いはった。何度もそのやり取りを繰り返して、リンコがため息を吐いた。
その時、繻子の向こうが騒がしくなった。柔らかな音を立てて足音が近づいてくる。微かに繻子が揺れた。
「何事だ?」
ディヴァナシーがそちらに顔を向け、問いかけた。
雌が震える声で答える。
「雄からの通達でございます。リョダリ様が今夜、花嫁を迎えたいと……」
その言葉を聞いて、りんこの肌が粟立った。
「今夜……!?」
叫んだ声が裏返ってしまった。
「今夜……」
ディヴァナシーは真剣な顔つきで繻子の向こうを眺めてから、ゆっくりとリンコに視線を移した。
リンコはゴクリとつばを飲み込んで、慎重に尋ねる。
「分かった……。じゃあ、わたしが花嫁にならなかったらどうするの?」
「花嫁にならない……? それも選択肢の一つね。けれど、雄の力は強いし、発情しあうと、心が変わってしまうのよ。相手を否が応でも愛してしまうの。こればかりは雄も雌もどうしようもないのよ。そして、何日もかけて愛を確かめ合うの。子種が植え付けられるまで、何度でも愛し合って、発情が終わる。それが終わっても、雌雄は愛しあったまま過ごすのよ。それが番いになるということ」
「そんな……。どうやったら逃げられるの」
「リンコは本当に嫌なの? 本当なの?」
ディヴァナシーが念を推した。
「嫌なら、逃げる方法があることを教えておくわ。雄は交尾の時に最も無防備になるのよ。麒麟の体は筋肉に覆われて丈夫だけれど、ここだけは弱い部分があるの。唯一筋肉に覆われてない部分は急所よ。交接する直前に急所を一撃すれば、たいていの雄は身動きが取れなくなってしまうもの。それで逃げるしかないわ」
「交接……」
リンコは顔を赤くした。それっていわゆるエッチのことだよね? という目で、ディヴァナシーを見つめる。
「恥ずかしがっている場合じゃないわよ。それにそなた自身が発情してはいけない。だからそのネックレスはつけたままにしておくの」
「でも、逃げた後、どうすればいいの」
すると、ディヴァナシーが笑った。
「そなたにはガーディアンがいるではないの。彼に頼めばいいのよ。それしか方法はない。それに、付け加えておくけれど、花嫁が逃げ出せば、事態がこじれることを忘れないことね」
「逃げたらどこへいけばいいの……?」
「ここへくればいいわ。ただし、怒り狂った雄が大挙してやってくるでしょうけど……」
リンコは息を呑んだ。念を推したディヴァナシーの視線は鋭くリンコを射抜いていた。怖い人なんだとリンコは思った。綺麗だけでなく怖くて威厳がある女性。リンコはそんな女性の代わりになってしまったのだ。それも、ディヴァナシーはリョダリを愛しているとはっきりとリンコに告げた。その上で、リンコが花嫁になることへのアドバイスと、反対に逃げることまで教えた。真意がまるで読めない女性だった。リンコが花嫁になることに対して、嫉妬すら見せない。何を考えているかわからないが、冷静に、リンコが花嫁になることを拒絶するリスクまで告げた。
「それでも逃げるつもり?」
リンコは自分がどういう立場にあるのかさえつかめていない。ただ逃げたい、それだけだ。だから正直に答えた。
「ここに逃げ込む」
「それでは雌達に通達しておくわ。雌は力がないだけで、雄より優位なの。雄は精神的に雌には逆らえないのよ。リョダリが考えを改めなければ、わたくしにも考えがあるの……。リョダリとわたくしとの争いになるわ。リョダリがどう感じるかわからないけれど……」
ディヴァナシーが憂鬱そうにため息を吐いた。
「ドゥルラナ、そこで聞いていたわね? そういうわけだから、そなたはガーディアンとしての役目を果たさねばならない。覚悟しておくことね」
ディヴァナシーは繻子の向こう側に声をかけた。返事はなかったが、サラリと繻子が揺らめいた。
「さぁ、リンコ。花嫁衣装の支度をするわよ。雌を呼ぶから、その雌についていくように」
ディヴァナシーは手を叩いて雌を呼んだ。ドゥルラナがいる方向とは違う繻子がひらき、ディヴァナシーよりも簡素な薄絹を身に着けた女性が入ってくると、リンコに目配せした。リンコは素直にその女性の後をついていった。
それをディヴァナシーが目でおって確認し、ドゥルラナに話しかけた。
「ガーディアンになった理由は、聞かずとも分かる。彼女の発情の芳香は雌のわたくしにもわかるから。彼女は発情していても、おいそれと雄に心を開かないかもしれない。リョダリは違うだろうけど。リョダリはリンコを気に入るだろう。あれほどのかぐわしい香りがするのだもの。彼女は逃げることを選んだ。ガーディアンのそなたは、それに従わねばならない。わたくしはここに立てこもって以来、リョダリと争う覚悟をしていた。だから避けることができない展開になる。それだけは知っておいてほしい。リンコをお護り。リョダリの好きにさせないために」
繻子の向こう側から落ち着いた低い声が返ってきた。
「分かりました。ガーディアンになった時に死も覚悟しています。わたしも彼女の芳香に抗えなかった雄の一頭ですから」
ふふふと、ディヴァナシーが笑う。
「何も気づかないリンコは初々しい。リョダリを選ばなかったことも喜ばしい。もし、リョダリを選んでいたら、わたくしはリンコを見放したことだろう。その時はそなた一頭で、リンコをリョダリの手から守らねばならなかった。リンコは運がいい……」
ディヴァナシーはリンコには露とも見せなかった嫉妬を口にした。すべての雌を束ねる長よりも権威ある雌は、リンコの運命をすでに握っていた。リンコは知らずに、ディヴァナシーを怒らせなかっただけだった。たったそれだけのことだが、何よりの救いでもあった。雌を味方につければ、何百頭もの雄を相手にしても負けることはなかった。
リンコのガーディアンになったドゥルラナは、そのことに思いを馳せて、はぁっと息を吐いた。
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