第55話「痛み」

 からからに渇いていた。

 喉の奥が貼りついているような。

 口を動かそうとすると、パリパリになった唇が崩れるような。

 そんな気持ち悪さ。

 指先の感覚はない。

 いや、全身の表面の感覚はないくせに、内側だけはひどい二日酔いをしたときの感覚に似ている。

 今、どこにいるのか。

 どんな格好をしているのか。

 生きているのか死んでいるのか。

 吐き気を覚えながら目を薄く開く。

 その瞬間、聴覚が戻ってきたような気がした。

 正確に言うと、聞こえていた雑音を、何かの音と認識できるようになったというか。

 体を揺さぶるエンジン音。

 金属で空気を切り裂く衝撃。

 ヘリ。

 ああ。

 そうだ。

 これはヘリの音だ。

 私はぼやけている視界の中、頭を動かして状況を把握しようとこころみる。

 だが、視界はピクリとも動かない。

 声を出そうとしたがなかなか力が入らず、唇さえも動かなかった。

 すうっと視界に影がさす。

 ひとが顔を近づけたのだろうか。

 かすれた声が私からもれた。

 口元にひとの体温を感じる。

 耳を当てているのだろうか。

「中隊長……中隊長……聞こえますか」

 私は「きこえている」と言った。

 焦点を合わせようとしても合わない視線の先にいる人間はわからない。

古谷こたにです、古谷です、中隊長」

 ――中隊長がしゃべった!

 そう叫ぶ古谷。

 スイッチが入った。

 今は、時間は。

 ここはどこだ。

 このヘリの所属は。

 私は何をしている。

 なぜ、ここにいるのか。

 どういうことになっているのか。

 だが声がでない。

 体も動かない。

 脳だけが勝手に活性化して、やるべきことのリストをどんどん作っていく。

 私は「ちゅうたいはだいじょうぶか」とだけなんとか口にした。

「……はい、大丈夫です、無事捜索班は戻りました」

 うなずくかわりに目を一度閉じる。

「下北も無事です……あいつ、おかしくなってますが、いきなり下げると悪化するんで、今は旅団の医官のところに……俺が言っている事、わかりますか? 聞こえてますか?」

 私はもう一度目を閉じた。

「今は副中隊長が指揮をとって、集結地でまったりしています」

 よかった。

 そうか、よかった。

 みんな無事か。

 安心感とともに、脳がふやけていく感じに襲われる。

 思考が痺れてきた。

 よかった。

 なんとか、逃げれたのか、下北も。

 これで、全員下げることができた。

 よかった。

 よかった……。

「がんばってください、もう少しで野戦病院です」

 ああ、そうか。

 私も。

 もてばいいが。

 気休めかもしれないと思う。

 私はトリアージタグが気になったがやめた。

 やはり体はぴくりとも動かない。 

 ヘリで搬送されているということは。

 ブラックじゃない。

 ああ。

 そうか。

 助かるかもしれないのか。

 はは。

 ……。

 ――死んでたまるか。

 そう言おうとした。

 でももう声は出たか出なかったかもわからない。

 私は目を開けたままにしようと必死になるが、視界はどんどんせばまっていた。

 ――死んでたまるか。

 灰色に変わるモザイク模様。

 ――また……。

 そして。

 真っ暗に……。



□■■□



 目が覚めると同時に、ひどい痛みに襲われた。

 左足全体……股関節あたりまで響く痛み。

 心臓が鼓動するたびに刺さるような苦しみを味わった。

 私が頭を動かしてまわりを見渡すと、右にも左にも横たわっている人間が見えた。

 自分の体を見る。

 右手から伸びる点滴のくだ

 吐き気がする。

 ぞわぞわと胸と胃を同時に締め付ける様な、そんな感覚。

 今はいつなんだろうか。

 ここは、旅団の野戦病院か……設備がいいから、もっと上級部隊のものか。

 手を伸ばせば届くほどの隙間しかないベット。

 消毒液と薬品の匂い。

 それから、尿や排せつ物の臭いが混ざっている。

 聴覚がはっきりしてくる。

 右隣の男は寝言か何かをしゃべっている。

 日本語じゃない。

 逆に左隣りの男は苦しそうに唸っていた。

 これも日本人じゃない。

 私は体を動かそうと力を入れた。

 その瞬間、激痛が走った。

 情けないが、少し声を上げてしまった。

 ひどい痛み。

 生きている証拠だと思ったが、そんなものじゃ誤魔化しきれない辛さ。

 ふと、右手に感じる皮膚の感触。

 視線を向けると白い手が握られていた。

 手から白衣の袖。

 金色の髪の毛がふわっと近づいてきた。

 その看護師は何と言ったかわからない。

 ロシア語だということはわかる。

 彼女は慣れた手つきで点滴の管の先を摘まむ。

 台から取り出した黄色い液体が入った透明の袋を金具に吊るし、それに繋げた。

 少しだけ、なんだかヒンヤリしたものが体内に流れていくのを感じた。

 心地よいものが全身に行き渡る、そんな気分。

 そして、看護士の冷たい手も、なぜか私を落ち着かせてくれた。

 ――……。

 何か言おうとした。

 お礼を言いたかった。

 でも口が動かなかい。

 そうして。

 私の意識は深い場所へ沈んでいった。

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