第52話「野中少佐」
三和の声が聞きたい。
あの日。
横浜へ向け出発した日に「さようなら」と言って以来、三和とは連絡が取れていない。
まともに話したとは言えない出発の日。
恥ずかしいことだが、まともに話したのは三和が私をぶん投げて首を絞めた、あの日だけだった。
あれがまともだったかどうかというのはおいといて。
もうあれから数ヵ月が経っている。
なんとなく電話をすることは億劫だった。
横浜でも会えるかな、と期待していたが、忙しくて自分のことをする暇もなかった。
そのまま出発の日も会えず、モスクワに飛んだ。
日本から出たあと、手紙を何回か出したが返事はない。
一方通行。
それでも娘の同居人である伊原から『三和ちゃんは元気に学校に行っています』というような
彼女にはすごい借りができたと思っている。
声を聞かなくても。
返事がなくても。
娘が元気にしている。
それだけ、わかればよかった。
そして五月五日の開戦以来、手紙は書いていない。
はじまったことは知っていると思う。
だから書けなくなったということも。
でも、ひとことだけ言いたかった。
心配するな。
そう娘に言っておきたかった。
「事前に準備していた集合点が、あの一.五キロメートル先の森林内です……三箇所目です……そろそろ二小隊長が、いてもおかしくないと思うんですが」
我々六人は彼を先頭に全周を警戒しながら前進している。
人間の体よりひとまわり大きい軽歩兵補助服を身にまとい、通常の歩兵よりに比べ数倍の速さで前進している。
「これ以上先の集合点に行くと、敵の集結地と当たるかもしれません」
少し遠慮がちに古谷は言った。
私はビシビシとやばい空気を感じているが、足を止めるわけにはいかない。
「ああ、だが、あいつらが待っているかもしれない、行こう」
そう言って私はモニターの右上にある時刻を見る。
そろそろ時間だと思った。
あらかじめ決めている連絡手段。
無線の電波をむやみに飛ばすと、敵もそれを探知して位置を評定される可能性がある。
だから、時刻を決めて一日二回――
もうすぐ二十三時。
信号は
我々は少しだけ小高い位置に向かっていた。
少しでもアンテナを高く、少しでも電波を取りやすくするために、敵に見つかる危険を冒して小高い場所で姿勢を高くする。
――ピッピッピッピッ。
キャッチした。
間違いない。
これは、あいつからの信号だ。
生きてる。
二小隊長の安井中尉は助けを待っている……。
「聞こえました、待ってるんですよ俺たちを」
速やかに台上から降りて影に隠れつつ、古谷が興奮気味に言った。
それは軽歩兵補助服の至近距離無線通話機越しでも伝わってきた。
「ああ、生きている、絶対生きている」
気持ちが静かに沸いてくる。
疲労はたまっていたが、速度を上げて次の集合点に向かって走った。
だだっ広い荒野。
それから我々は真っ暗な森林に入っていった。
何もないところでは十分見えた地形だったが、森に入ると軽歩の微光暗視装置でも薄暗い。
仕方なく速度を落とし、電子マップに示される集合点に向け近づいていく。
古谷が急に止まる。そして小銃をスッと構えた。
「止まれ!」
小声で叱責するような声。
それは日本語だった。
聞いたことのある声。
そうだ。
あいつの声。
私は古谷の小銃を下げさせ、一歩前にでる。
「中隊長だ、
下北一等兵はへなへなと膝から崩れ落ちた。
「よかった……よかった、やっと……やっと」
と同じ言葉を連呼する。
古谷がすぐに前にでて「声がでかい! やかましいわ」と叱った。
他の四人はすぐに分散して、四方を警戒。
「二小隊長は?」
私は軽歩から顔を出すと、できるだけ優しい声で下北に言った。
「あちらです」
よほど安心したのだろう。
ふらふらと下北は歩いていった。
いつの間にか月が上って、木々の合間から月光が漏れている。
大きな針葉樹の木が一本。
その根元に横たわる二小隊長が木々から漏れた月光に照らされていた。
少しはしゃいだ感じに下北がしゃべりだす。
「ずっと眠っているんです、小隊長は……中隊長が来てくれましたよ、小隊長、起きて下さい、もう十分眠ったじゃないですか、ほら、起きて、安井中尉、小隊長」
安井の肩を揺さぶる下北。
「怪我をされたんで、一生懸命背負ってここまで来たんです、ずっと起きてくれないから、俺ひとりで警戒しなきゃいけないし、交代してくれないから、もうヘトヘトで、寝れないので……あと、敵も何度か通って俺はビビリましたが、小隊長はさすが、全然動じてなくて、敵も気付かず、でも、まじ怖かったっす、しょんべんちびりそうになりながら、でも、小隊長がこうだから、お陰で俺、ほとんど寝てな……」
「もういい」
私は軽歩兵補助服から飛び出た。そして下北を抱きしめた。
「もういいんだ……よくやった」
ぐしゃぐしゃっとその頭を撫でる。
「中隊長、小隊長を起こさないと」
ぐっと首根っこを肘で挟むようにして顔を近づける。
「いいんだ」
二十一歳の幼い顔が笑っていた。
私は彼を抱きしめながら「もう、いい、大丈夫だ」とずっと下北に言い続けた。
「古谷……」
「はい」
「回収してくれ」
「……はい」
安井の魂が抜けたあとのものを回収しろと私は命じた。
上半分になってしまったその姿。
古谷は無言のまま、大きな袋を取り出しその中に詰めていく。そして、警戒しているひとりを呼び寄せ、その軽歩の背中に縛り付けた。
私は散らばっている遺留品から
中に写真みたいなものが入っていたので、それを小さな袋に詰た。
遺体とは別に、小さな袋を古谷に渡し。
「そんなにきつく縛ったら小隊長が痛がりますよ、そんな物みたいに扱わないで下さい」
下北はオロオロした口調で古谷に言った。
私は下北に近づき、また抱きしめた。
「帰ろう、みんなで帰るんだ、大丈夫」
ブルブルと震え出す下北。
「だって……」
震える声とは対照的にニコニコした顔。
彼の笑った目から涙が一筋流れ落ちた。
「せめてクッションとか……あれじゃ痛いですよ、小隊長怒りますって」
「わかった、ああ、わかった」
私はそう言って彼の言葉を遮る。
すると下北はへなへなと地面に座り込んでしまった。
そんな彼を目の届く位置に置いたまま放置して、帰る経路について軽くミーティングをする。
すでに日付が変わる時間。
味方の反撃部隊が攻撃を開始するまで数時間しかない。
「まずは、味方の攻撃経路を避けて大きく回り込もう……それでも一〇〇キロはあるが、軽歩の足なら五時間もあれば戻れるだろう」
そういう結論を出し、前進隊形と順序、それから警戒方向を命令した。
私は軽歩の中に入ろうとする前に、下北の前に行く。
「酔うかもしれんが、死ぬよりはマシだ、古谷の背中に乗れ」
彼はふらふらと立ち上がる。そして軽歩の背中に縛りつけた応急的な椅子に座った。
その瞬間だった。
ゴンっという音とともに、私の軽歩が倒れたのは。
少し遅れて重めの銃声が聞こえた。
私はとっさに「行け! 散れ!」と叫ぶ。
軽歩から顔を出していた古谷とほんの一瞬目があった。
大丈夫。
あいつはわかっている。
そういう目だった。
彼は走り出していた。
他の四人も彼を追うようにしてこの危険な場所から離脱する。
そう、それでいい。
私は自分の軽歩に手榴弾を投げ込んだ。
一三ミリ級の弾により私の軽歩はささくれ立った金属片に変わりつつあるが、念には念をいれて鹵獲される前に破壊措置をした。
敵に再利用されるようなことがあっては困る。
くぐもった破裂音。
同時に、軽歩のある場所に向けて複数の銃声が鳴り響いた。
少し窪んだ地形に寝転ぶ。そして運動と緊張のせいであがってしまった息を整えた。
まだだ。
まだだ。
まだ、終わりじゃない。
私は
軽歩をやったのは一三ミリ級の対戦車ライフル弾だろう。
それに八ミリ級の機関銃がひとつ、そして小銃が四ぐらい……見えないのも合わせて一個分隊ぐらいの兵力はいるようだ。
敵の斥候狩り部隊かもしれない。
この闇夜。
森の中で静かに息を殺しておけばやりすごせるかもしれない。
でも、斥候狩部隊なら、やった軽歩を調べにくるし、このあたりに潜んでいないか狩りもするだろう。
だいたい一対八じゃ話にならん。
……。
さて、どうしたものか。
軽歩があれば、じゅうぶん振り切れただろう。
だが、今は自分の生身の足しかない。
森を抜けても、敵の警戒網が張られているかもしれない。
それでも。
それでもなんとかして……なんとか早く戻って、部下達の顔がみたい。
それに死んだ部下たちの家に行って、彼らの家族に……彼らがどう生きたかを伝えないといけない。
それだけじゃない。
金沢に帰って、少年学校に帰って、頭山と、笠原先生と話がしたい。そして伊原に礼を言いたい。
小生意気な学生たちの顔も、もう一度見たい。
そして、三和とも。
……。
「全然死ぬ気がしない」
私は自分に言い聞かせるように、小さな声でそう言った。
「死ぬ気がしない」
私は低い姿勢で走りだす。
「……しない」
動くときは最新の注意を払って、そして大胆に。
後方から銃声が聞こえる。
振り向かない。
また三和に会うために、私は走っていった。
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