第51話「野中博三」
「約束が違う……」
ベットに横たわるエニシ。
彼女はそう言って息を飲んだ。そして、ひざを抱えるようにして背中を向けてしまう。
約束。
――キスはしない。
そんな言葉を交わしてはいない。
暗黙の了解のようなもの。
ふたりがこうした関係を繋げる中で、いつのまにかできた約束。
でも、決して。
決して破ってはいけない。
破った瞬間、いろんなものが崩れてしまう。
そんな約束。
それを私は破った。
衝動的に、ではない。
そうすることが正しいことだと思ったから。
そうしようと思っていた。
エニシは自宅に呼ばなかった。
いつもと違う。
待ち合わせをして、軽く食事をとり、それからそういうホテルに向かった。
派手ではない場所を一応選ぶ。
それでもなんとなくそんな設備があることをお互いに恥ずかしがりながら、体を重ねた。
そして、一番熱くなった時、私は彼女の唇をゆっくりと吸った。
「エニシ」
「……」
超えてはいけない線。
彼女が年上のパートナーとの関係を維持するため、我々が超えてはいけない線。
「私の……」
彼女の汗ばんだ背中に触れ、そして後ろから抱きしめるように彼女を引き寄せた。
彼女の頭が私の胸の部分に触れる。
「私のそばに、いてくれないか」
少し震えるエニシ。
それから彼女は私の胸に熱を持ったおでこをつけたまま沈黙した。
火照った体が冷めそうになった頃、彼女はゆっくりと頭を私の胸から離し、そのひんやりした手を私の胸に押し当てた。
「ダメ……」
絞り出すようなかすれた声だった。
「うん」
私が予想していた答え。
「あの人を裏切ることはできない……」
「うん」
私はただ頷く。
彼女は顔を伏せた。
「私を拾ってくれた……もう、どうしようもなくなっていた私を拾ってくれた、恋人として愛してくれた、娘みたいに可愛がってくれた」
顔を上げた彼女。
今まで見たことがない表情。
彼女は泣いていた。
「……卑怯」
振り絞る声。
「ああ、卑怯だ」
私は穏やかにそう答えた。
「馬鹿」
彼女はそう言いいながら、私の胸に当てた手に力を入れる。
「しょうがない、バカだから」
私はゆっくりとそう言った。
「馬鹿……馬鹿」
唇を合わせた時。
いつものように背中に指を触れた時以上に彼女は反応していた。そして、最後はいつもより深く震えているように見えた。
「ひとりだけ告白して……すっきりして……そんな顔して、本当に……卑怯」
私を見上げるエニシの表情はよく見えなかった。
「君も言ってくれれば、すっきりすると思うけど」
少し意地悪を言ってみる。
今日ぐらい。
結果はわかっている。
だから悪くないだろう。
「言えるはずがないでしょう」
「そりゃそうだ」
少しため息がまざる。
わかりきった答え。
わかりきった結末。
それでもよかった。
私はもう一度彼女を抱き寄せようとする。でも、やはり彼女は少し伸ばした手で、ゆっくりと私を押し返す。
私は諦めの気持ちもこめて黙って押し返された。
わかっていた。
いや、万が一があるかもしれないと期待はあった。
宝くじが当たるぐらいの期待。
違う。
そんなんじゃない。
そんなことはどうでもいい。
結果とかそういうわけでなく、とにかくこの気持ちを伝えたかった。
友情以上に想っている、と。
愛している、と。
彼女はまた膝を抱えるにして、逆方向を向く。
「いつ……モスクワに出発?」
「今月中……かもしれない」
繋がりたかった。
いっしょにこれからの人生を送りたかった。
君の事をもっと知りたかった。
もっともっといっしょにいたかった。
でも……。
「失恋したぐらいで……いい年して……」
そんなことを言う彼女も泣いていた。
「泣いてなんか……君だって」
堪えた。
声が震えるのを、堪えたはずだった。
「変なの」
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
はじめて見たエニシの姿。
「お互い様」
私はきっと汚い顔をしていると思う。
涙も、鼻水もたらして。
ぐしゃぐしゃにしてるはずだ。
お互いに、変な顔で。
そして涙声でからかい合う。
「さようなら」
「さようなら」
最後は手を振って。
ホテルから少し離れた大きな路地に出て。
まわりの目を気にすることなく、ちゃんとさようならと言った。
涙目で、笑顔で。
こうして、私の。
三十九歳の恋愛は終わった。
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