第49話「伊原真」

 伊原……。

 あの日の夜……。

 ――少しでも副長の思い出に残るようなことをすれば、少しでももっと近い存在になれば、未練を残して、戻って来てくれますか。

 泣き声のようでもあった。

 いつもの生意気を言って私に頼みごとをするような感じでもあった。

 そして、少し彼女にはまったく似合わない淫猥な囁きのような息遣いだった。

 ただ、その声がこそばゆかった。

 背筋がブルッと震えるように感じさせた。そして私を硬直させた。

「もう少しだけ、いっしょにいてもいいですか?」

 それが意味することは十分承知している。

 断るべきだというのもわかる。

 だが私はその場では「わかった」と返事をしてしまい、彼女はその震える手が私に触れた。

 私は少し躊躇したが、互いに触れているその手を離し、彼女の背中に触れていた。

 指先でゆっくりと背筋をなぞるように触れる……そう、いつもエニシにしていたように。

 触れた時のエニシは息が漏れるような声を出して、そして少しだけ顎を上げるようにして、全身をちょっとだけ震わせる。

 ――弱いと知っているくせに。

 と耳元で囁くように抗議をする。

 そう、エニシの場合。

 ……ああ、わかっている。

 彼女は彼女ではない。

 ただ、熱を帯びた体で俯く目の前の女性は、伊原だ。

 ……。

 私は背中に触れていたその手を離し、肩に手を動かす。そして、抱きついている彼女を離そうとした。

 離そうと、離そうと……離せない? あれ? あれれ?

「だめです」

 あ、そういやこの子レスリング経験者だった。

 がっつり組まれていた。

「いや、まて、理性があるうちにだな」

 ギリギリギリギリ。

 もがけばもがくほど締まってくる。

はな、しま、せん」

 いや、死ぬから。

 内臓破裂で死ぬから。

 理性も戻りましたから、いろんな意味で逆流してるから。

「ちょ、ちょ……」

 声がでない。

「その折れそうで折れない態度にイライラしてきました」

 アヒル口が尖っている。

「は、は……な……し……」

「い、や、で、す」

「……っ」

「これでチャラにしますから」

 彼女の締める力が抜けた瞬間だった。

 それとは対照的にふんわりしたものが私の唇に触れ、離れたあとは少ししっとりした余韻が残る。

 ぱっと飛びのくように離れた彼女は、いつもの将校室と同じように少し生意気な表情で私を睨んだ。

 よくころころと表情が変わる子だと思う。

「やっぱり、チャラにはしません……足りません」

 足りない。

 もう少し、何かあるのかと私の中の男の子が性懲りも無く期待してる。

 もう、そんな自分が情けなくなってきた。

 でもさ、伊原は私にとっては魅力的な女の子なのだ。

 これが部下じゃなければ、こんなに親しくなければ、押し倒して性欲を満足させていると思う。

 親しくなければ……。

 そう、私たちは別のベクトルで近づきすぎた。

 彼女は一歩踏み出す。

「ぼやきます、聞いてください」

 と言ってきた。

「頭山にも昔抱きついたことがあります……ご存知ですよね、統合士官学校時代にボクたちが付き合っていたこと」

「ああ」

 頭山はゲイである自分を受け入れられずに、異性愛者になろうとして伊原と付き合ったことがあると言っていた。

 たぶん、互いに傷つけるような結果になっただろう……それでも、ふたりの関係が崩れなかったことを考えると不思議でしかない。

「あいつだけじゃないんです……ボクも彼を利用しようとしていたんです」

 ボクも彼を利用しようとしていた。

 あの日、学校祭の夜にひざを抱えて泣いた伊原。

 あの時『父のことはもういいです』と言った彼女。

 そう簡単に消せるはずがない過去。

 あれを話した時と同じ声色。

「それに気づいていないから、ずっと一方的に、ボクを一方的に傷つけたと思っているんです」

 彼女は少し躊躇したのか、少し沈黙した。

「……試したかったんです、父親以外に抱かれても、ちゃんと感じることができるか……変じゃないかって」

 私はゆっくりうなずくことしかできない。

「結局、どうしてもあいつはできなくて『ごめん』って言われて」

 自虐的な笑顔。

「頭山だけが私を傷つけたって思い込んでるんですよね」

 彼女はフフっと小さく鼻で笑った。

「私もまったく反応してなくて」

 どういう表情をしていいのかわからないので私は微妙な表情をしていたと思う。

 ただ、何か言おうとしたが、何も言えずに私は黙ったままだった。

 そんな私に対し、ただ聞いてくれればいいんですと彼女の目は言っていた。

「ただ、学校祭の日……副長は知らないかもしれませんが、眠ったまま私のおっぱい触っていたって……知ってました?」

 ぶっ。

「いや、すまん、記憶に……」

 覚えてます。

 起きた瞬間に飛びのきました。

「酔ってましたもんね」

 いつものようにセクハラ上司を蔑む表情はしていない。

 でも、お酒のせいにはできないご時世だから、もう、ほんとごめんなさい。

「すまん、それは悪かった」

 謝る私に対して微妙な顔のまま「反応しちゃったんです」と言った。

 私はさすがに耳まで赤くなるのを感じた。

 年甲斐もなく照れてしまった。

 むしろ中学生みたいな恥ずかしがりかたをしてしまった。

 部下で毎日顔を合わしている年頃の女の子に「反応した」と言われてしまったのだ、そりゃたまらん。

「今だって、抱きついただけで熱くなるし、キスしただけで膝が……」

 ぐっと顔を近づける。

「副長に抱きついた時に言ったことは、言い訳です……ただ、熱くなったから、抱いて欲しかったから、もっと感じたかったから……ただのボクのわがままです」

 私の中の男の子が、私の中の紳士をバックドロップ。

 そして耳元で「ボクの中のお父さんを忘れさせてください」と彼女は言った。

 人間耐えれるのも三回まで。

 いや、まだこの波は二回目。

 うひゃ、ちょっとまて、もういいじゃないか。

 こんなことになっているんだし。

 私の中の紳士は頭打って泡吹いてる。

 もう、伊原に恥をかかせちゃいかんだろう。

 そうだ、私のためじゃない。

 い、伊原のため。

 ……。

 ……。

 ムヒャー!

「よし! もう大丈夫だ!」

 近づく彼女を引き離す。

 私は満面の笑みで彼女の両肩を叩いた。

「うん、感じたんだろう、な、うん、よかった、心配することはない」

 彼女は口を半開きにしたまま私を見ている。

「もう大丈夫だってことだ、さっき伊原が言ったことは解消されているってころだよ、だって反応したんだから」

 父親の呪縛から。

「あ」

 少し納得した顔の伊原。

「よし、うん! 今日は帰ろう、もう帰る! 決めた」

 私は彼女の手を引っ張り、タクシー乗り場へと向かおうとした。

 よく聞こえなかったが、彼女は私に何かを言ってその手をスッと離した。

「やっぱりダメでした?」

 私はため息をついた。

「ダメなんかじゃない」

 私は自分の股間に手を置いた。

「さっきから、私の腰が引けていたことに気づかなかったか」

 伊原は私の手を見ていた目をとっさに逸らし赤くなった顔を横に背ける。

 私はなんだか、そのアヒル口を尖らして照れる顔が妙におかしく声を出して笑った。

「……最低です、人として」

 そういった顔は仕事でよくみせる怒った顔ではなかった。

 その表情は、涙目になっているのに泣いているのか笑っているのか怒っているのかわからないものだった。

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