最終章「お父さん、願う」

第46話「エニシ」

 私はエニシの本名を知らない。

 歳はいくつなのか。

 どこで生まれたのか。

 親はいるのか。

 大学は行ったのか。

 バーテンダー以外の仕事はしているのか。

 私は知らない。

 むしろ、知ろうとすることがとても野暮な気がしていた。

 知っていることは、触れ合うときは背中が弱くて、カフェイン中毒かというくらいにコーヒーが好きで、お香は白檀が好み、そしてお酒にはめっぽう強いということ。

 私と彼女の関係は『少年漫画とかにでてくるような友達』ということで、ふたりの認識は一致している。

 彼女には年上のパートナーがいて、愛し合っているそうだ。

 そのパートナーとの生活については何度か聞いたことがある。

 そのことを話す時、彼女はとても幸せそうな顔をしていた。

 足の不自由な六十歳前後の女性。

 彼女達は同居し、出勤前と寝る前には必ずキスをする。

 朝食はパンばかりで、エニシがサラダとか、ちょっとしたおかずを作って食後にはコーヒーを入れる。

 パートナーの女性はそのコーヒーにウイスキーを垂らすのが日課らしく、これにはエニシも「困っている」ということだった。

 また、足が不自由といっても、別に介護をしているようなことはないようだ。

 それ以外は精力的な女性であるらしく、ライターとして――いろいろな依頼を受けているらしい――現役で、経済的に困ることはないという。

 エニシは「家族と恋人を足したもの」という。

 私が「なぜ、二で割らないんだ?」と聞いたところ「倍なの、倍」と、うれしそうに答える。

 二十歳以上は年齢差のある、家族であり恋人であるふたり。

 そう。

 エニシの大切な居場所。

 エニシのいるべき場所。

 そんな彼女と私の関係。

 世間一般から言えば、ただのセックスフレンドとしか見えないだろう。

 ただ、私達が「友情」といっている。

 格好つけていっているわけではない。

 別なのだ。

 私と彼女の場合、別なのだ。

 彼女にとって別なのだ。

 彼女の家族であり恋人であるパートナーは、私達の関係を承知しているらしい。

「あの人は性欲がないのよ」

 性欲がない――心で繋がっている――最初はよく恥ずかしくないことを涼しい顔で言えるものだと、少しだけバカにしたようなこともあった。

 少しの嫉妬と、そんなことあるはずがないという羨望。

 でも今は違う。

 彼女と体を重ねるたびに、パートナーの話を聞くたびに認識する。

 本当にそのふたりは心が繋がっていると。

 そうとしか思えないような関係だと感じるようになった。

 理由はわからない。

 本当に肌で感じる。

 そういうふたりを。

 そうなると我々は性欲だけの関係なのだろうか。

 ――ただ、誤解しないで欲しい、あなたは私の性欲処理の相手じゃないから。

 私達は恋人ではない。

 でも、ただのセックスフレンドでもない。

 ただの友達。

 自分にはそう言っているが、正直、そうではない気もする。

 そうだという気もするが。

 なんだろう。

 よくわからない関係。

 ――少年漫画とかにでてくるような友達。

 やはりこれが一番わかりやすい表現なのかもしれない。

 自然体でいれる関係。

 気を張らない関係。

 端的に言えば不倫なのかもしれない。

 相手に許可をもらっているとしても。

 その事について、彼女はもちろん罪悪感もあり、何度かやめようとしたこともあったようだ。

 でも、やめることができない。

 自然と罪の意識は薄まり。

 しだいに求めるものに渇きを覚える。

 なぜか離れられない。

 不思議な関係。

 決して世間に胸を張ってはいえない関係。

 体を重ねても、キスだけはしない関係。

 彼女は求めていた関係。

 私は求めていたと思っていた関係。

 この絶妙なバランスで成り立っていたふたりの関係。

 そのバランスを崩してしまった。

 モスクワに行こうとする前に。

 自分のため。

 自分のわがままのために。

 少しだけ……少しだけ期待をして。

 私は終わらせてしまった。

 いや、違う。

 終わりにしようと決めて。そして実行した。

 そう。

 私が一歩前に出るために。

 私のひとりよがりだったかもしれない気持ちのために。

 崩れることを覚悟した上で踏み出した一歩。

 後悔だらけの人生だった。

 でも。

 エニシに対しては。

 それが例え自己満足だったとしても。

 関係が崩れてしまった今でも。

 この一歩に後悔はない。


□■■□


『野中! もういい! 退がれ!』

 怒鳴るような声――無線を拾うスピーカーの音が割れるぐらいの音――がスピーカーから聞こえる。

 大隊長である横尾の戦闘指導だ。

「まだ帰って来ていない二小隊にしょうたい掌握しょうあくして下がります」

 私はそれだけ答えると「無理をするな」とだけ横尾は言った。

 軍隊の通信というやつは形式ばった通話方つうわほうがあることはあるが、横尾という男はそういう常識をぶっとばして話をする。

 まあ、私もそっちのほうが好みなのだが。

 横浜とモスクワでの猛特訓といえる訓練の中で横尾の考え方は兵士達に徹底して叩き込まれていた。

 通信ひとつとってもそういうものがあるのかもしれない。

 大隊の兵士たちは最初は戸惑っていたが、形式にとらわれず無駄なく話すことに慣れていた。

 実際効率がいい。

 狭い指揮装甲車の中であっちこっちに伸びたコードをたぐるようにして、私は無線機のマイクを置いた。

 無線機内蔵型の装甲車帽もあるが、私はあまりそれが好きではなかった。

 だからマイク式の無線機で通話し頭には普通の鉄帽を被っている。

「中隊長! 一小隊の怪我したやつらと、やられたのを回収できましたっ!」

 半開きにしている扉の外で中隊の先任上級曹長センニンが叫ぶ。

「よくやった! 負傷者は早く下げろ、遺体は放置するなっ!」

「了解!」

 叫んですぐに、車両の上部から重機関銃の重たい射撃音が聞こえる。

 『距離一〇〇〇セン、敵徒歩兵数名、たぶん斥候! ビビッて隠れましたっ!』

 重機関銃を撃っている古谷こたに伍長が車内電話を通じて報告してきた。

 おいおい、もう敵の先端さきっちょがすぐそこに来たってことか。

 思ったよりも追いつかれるのが早い。

 こりゃ、本格的にやばい空気だ。

「予備陣地に移動しろ! すぐに敵の砲弾クソダマが飛んでくるぞ!」

 私は指示しつつ、ふと左手で左ポケットの中にある物を掴んだ。

 敵に見られた。

 居場所がバレた。

 つまり、すぐに砲弾を落ちてくということである。

 数回接触してわかったことだが、やつらはとにかくそれが早い。

 だが、これ以上は下がれない。

 音信不通の二小隊が孤立中。

 軽歩兵補助服を装備している軽装甲歩兵化部隊である番号ナンバー小隊のうち、一小隊と三小隊それから、火器小隊――大きめの対戦車ミサイル装備している――は手元にあるが……。

 大隊長は「退がれ」と言ってくれたが、我が中隊が下がれば、あとひとつしか抵抗線はない。

 まだだ……まだだ。 

 だが、敵の勢いも凄まじい。

 そろそろ覚悟の時かもしれない。

 覚悟……。

 はは覚悟か。

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