第44話「スーパーお父さん」

 なんにしても、娘としっかり話をしなくてはならない。

 絵里からの警告を私は素直に受け取ることにした。

 私が帰宅すると、ソファーに座っている娘を目が合う。

「三和、お父さん……話すことが」

 すばやく立ち上がる娘。

 そのまま一瞥もすることなく部屋の方へ向かう。

「三和!」

 つい大きな声を出してしまった。

 それでも娘は止まらない。

 部屋のドアノブに手をかけたときだった。

 私ははっきり、しっかりと言葉を口にした。

「絵里と……お母さんと電話をした」

 ドアノブの手がそのまま固まった。

 娘はそれから手を離し、ゆっくりと私の方を向いた。

 鋭い視線が私に刺さる。

 なんだろう。

 怒りを含んだ視線

 でも冷たさが強いため、強い感情は入っていない。

 私を睨んだまま娘はソファーに戻る。

「どこまで……」

 娘の少し震えた声。

「詳しいことはわからない……三和が危ないことをしたことは聞いた」

 私は彼女に対面するように座ってそう言った。

 更に鋭い目つきで睨まれる。

「また勝手に……」

「なあ、どうしたんだ一体、お父さんは心配で……」

「……いつも、いつも、いつも」

 三和はヒステリックにツインテールにしているゴムを左、右と順に引きちぎった。

 私が見たこともない娘の感情の爆発に呆気にとられ、ただ見ることしかできない。

 バサッと両方で束ねられていた髪が顔にかかった。

「勝手に!」

 娘は立ち上がる。

「三和、お母さんと何があった?」

 完全に目が据わっていた。そして少しあごを上げて私を見下ろしている。

「お母さんとまた、勝手に決めた」

「何を決めたって……」

「あの時も勝手に決めた」

「あの時って」

「お父さんが私を捨てた日」

 お父さんが私を捨てた日。

 ……あ。

 ……ああ。

 ……やっぱり、そう思っていた、そう感じていたのか。

「また、捨てる……勝手に」

 すまない。

 本当に……。

「捨てるとかそういうことじゃない」

「わかってる」

 いつもの無機質な感じでなく感情が入り込んだ声。

「わかってる……わかってるわかってる」

 と娘は機械的に繰り返す。

「あの時は私が小さすぎて何もできなかった……今は大人以上に力も持っている、自分で解決できる、自分で解決する、そうすることにした」

 娘は少し笑った。

 口の端だけがもち上がる笑み。

「なんとかしようとした、でもお母さんが邪魔をした」

 いつも冷静な娘はそこにいない。

 むき出しの感情を込めた視線。

 はじめて感じるその空気。

「なあ、よくわからないんだ……そこで人の命を犠牲にしようとしたとか、しないとか……お父さんに教えて欲しい」

 何がおかしいのかわからないが、娘は急に声を出して笑い始めた。

「あのロシア娘が死ねば、お父さんはモスクワに行く必要がなくなる、なくなるはず、なくならなくてもいい、なくならなかったら別の方法をみつければいい、とりあえずやったことだから、だから次は……」

 娘は一歩、また一歩、私に近づいてくる。

「たったそれだけで、また元の生活に戻れる」

 また一歩。私はじっと娘を見据え立った。

「お母さんが邪魔さえしなければ」

「三和」

「お父さんが捨てた時は何もできなかった……でも、今はできる」

「三和」

「もういい! 勝手にあんたたちが決めて、私を一人にする、そんなのはもういい!」

「わかった……わかったから」

「また捨てる! 私を捨てる! モスクワに行くから!」

「いいんだ、もう」

 私は娘の肩に手を置く。

「私が悪かった、三和に……こんなに……こんなに寂しい思いをさせているなんて思わなかったんだ」

「ふざけるな!」

「そうだ」

「何もかもあんたたちが!」

「ああ、お父さんが悪……」

 激痛が走ると同時に私は仰向けに倒れ、そして天井を見上げていた。

 そこにぬうっと現れる、ぼさぼさになった髪。

 そう、娘は肩に置かれた私の手首関節を一瞬で極めていた。私はその痛みから逃れるために、自ら無意識に受身を取っていた。

 マウントポジションをとるようにして娘が私の体の上に乗る。

「このまま、お父さんが動けなくなったら、モスクワにも行かないし、私といっしょに暮らせるよね」

 見下ろす娘の目が見開く。

 笑顔。

 みたこともない笑顔。

 そのかわいらしい表情がおどろおどろしさを倍増させている。

「ふふふ」

 笑いながら私の首元にすうっと拳を握り絞めてた右手をあてがった。そして親指を半分だけ立てるようにして、喉仏の下に押し当てた。

 私はたまらず咳き込み、もがいた。

「お父さん、動いたらついちゃうからね」

「足を折ったら動けなくなるよね、腕がなかったら料理もできないよね」

「……」

「私がいないとだめになるよね」

 私はじっと娘を見上げる。

「ねえ、お父さん」

 娘は私の首筋におでこをぺったりつける。

「もう置いていかないよね」

 もう置いていかないよね。

 もう捨てないよね。

 いつもの三和に似つかわしくも無い妖艶ともいえる笑顔。

 私はその奥にある幼い娘の泣きじゃくる姿を重ねてしまった。

 重なるイメージが脳内に突き刺さる。

 ……。

 ああ、私は君の父親だ。

 だから。

 だからこそ、正直に言わないといけない。

 お互いに縛ったらだめなんだ。

 だから、ちゃんと言うことに決めた。

「私は三和がなんと言おうと行くことに決めた……申し訳ないが、お父さんを放してくれないか?」

 笑顔が固まり、そして醜く崩れていく。

 あの可愛い顔がここまで醜悪になるかという顔。

 私は、自分たち、親の行った……娘を気づかないままどれだけ傷つけていたことに今更気付く。

 業の深さ。

 自分の愚かさに吐き気がする。

 だが……。

「いつも」

 娘の両手が首にかかる。

「いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも……」

 あまりに感情的になっているのだろう。

 急所をつくことも忘れ、頚動脈を絞めることも忘れ、ただ、力任せに私の首を絞めてきた。

 力任せ。

 そう、技術がなければただの女子高生の力だ。

 私は娘の腰に手をやりそのまま持ち上げた。

 上半身を起こす。そして私も力任せに娘を抱き寄せた。

 昔遊んでいたあの日。

 ひざの上に乗せて高い高いをしていた。

 そういう状態にして、大きくなった娘を抱きしめたの。

「すまん、三和を傷つけたことを許してくれとは言わない」

 言葉を続ける。

「ただ、三和の事を愛してる……これだけは間違いない」

 そう、それは間違いない。

 ただいっしょにいることが愛ではないと思う。

 それじゃただの相互依存じゃないか。

 一方的な言い訳だとわかっていても。

 それじゃ、私も娘も救えない。

「だって」

 涙声。

「だって、お父さん死んじゃったら」

 声にならず、死んじゃったらもう、会えないと泣き崩れた。

 私はその背中をさすり「勝手に死ぬって決めるな」と言った。

 私はそのか細い肩を掴んで、涙と鼻水でベトベトの顔と向き合う。

 ああ、なにも十年前を変わってないじゃないか、と実感する。

「俺はスーパーお父さんだ」

 ぐっと右手の拳を固める。

 昔からある、ダサいガッツポーズ。

「戦争のひとつやふたつで死ぬような父親じゃない……三和の彼氏は追い払うし、孫にはやめろと言われても小遣いを与え続けてやる」

 そんなこっ恥ずかしいことを。

 私は胸を張って言ってしまった。

 ぽかんと口を開けた娘に対して。

 カッコ悪いガッツポーズを見せつけながら。

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