第43話「母親からの電話」
七月も終わりごろ。
学校で事件が起こった。
水泳訓練のため部外で宿泊していた一年生の学生達。
その中のひとり、ロシア帝国からの留学生のサーシャ=ゲイデンという少女――前に授業で私につっかかってきた金髪娘――が暴漢に襲われた。
コミンテルン陣営の工作員らしいが、極東共和国ではなくソヴィエト直属のものだったらしい。
帝国陸軍もロシア帝国貴族のお嬢様を預かっているところなので、護衛のSPをわざわざ国が雇って配備したり、ロシア帝国自体も似たようなもの雇ってたようだが、敵は巧妙に隙をついてきたようだ。
不幸中の幸いではあるが、いっしょにいた学生や近くにいた教官連中ががんばったお陰で命は別状もなく、軽症だけですんだという。
だが、ゲイデンが怪我してしまったことは確かだ。
わが国に過失があるかないか。
そんなことで上層部は揉めているようだ。
それにわが国の人間が襲ったといううわさもあるらしい。
だが、こういう案件は大炎上するものと思われたが、そうはならなかった。
炎上をくいとめるため怪我をしたゲイデンや日本に滞在しているその兄が立ち回った成果が出たとも聞く。
実際はロシア帝国がそれどころじゃなかったということもあるのかもしれない。
なにせ目と鼻の先に一触即発の国内問題を抱えたロシア帝国である。
そういう情勢も手伝ったんじゃないだろうか。
だが国内は違う。
厭戦気運が高まりつつある。
今、出征すれば隣の極東共和国を刺激しないか。
今後もっとひどいテロが起こるんじゃないだろうか。
二十年前の記憶が蘇りつつある世論。
それでもロシア帝国と我が国の関係は変化することはなく、遠征旅団の派遣準備は着々と進めれられていった。
ゲイデンには悪いが彼女の命ひとつでは、今のロシア帝国の問題になるレベルではなかったようだ。
ちょうどそのころ、我が家でも異変が少しだけあった。
三和の足や腕に頭目でもわかる、あざを隠していたという事件。
いつもは短パンキャミソールの娘がまだ残暑厳しいこの季節にもかかわらず、急に長袖のものを着ていたのを見た私。
直感というのだろうか。
お父さんパワーというやつだろうか。
何か嫌な予感がしたので、娘の袖を無理やりめくりあざを発見したという事件。
代償として私の顔面にも数箇所あざができたことは割愛するが、何があったのか聞いて、娘はまったく答えてくれない。
殴られたせいもあるかもしれないが、私はひとつとんでもない考えを脳内でめぐらせてしまった。
立ち眩みの症状がでて壁に手をつく。
婦女暴行。
まさか、そんな……。
いくら凶暴とはいえ、娘は女子なのだ。
力の強い男に組み敷かれたとしたら。
怒りの感情が腹の底から湧き上がる。
だれだ!
だれがっ!
「三和、まさか……」
と言った瞬間、思いっきり綺麗な上段回し蹴りが私の後頭部を襲った。
あのな、下手すりゃ脳しんとう起こして死ぬからね、これ。
辛うじて足と頭の間に左手を差し込み、クッション代わりにしたが衝撃はすごい。
「キモイ想像」
お父さんは感激している。
心が通じ合ったんだ。
おお、やるな……私がスーパーお父さんになる日も近い。
「最低、最悪、娘をそんな目で見るなんて」
まあ、そんなことを言うぐらい元気があるなら大丈夫か、と私は心を落ち着かせる。
だが私はあの痣を見るたびに気が気でなかった。
結局、理由を聞くこともできず、娘の態度に悶々とするばかりだった。
そんなある日、テーブルの上の携帯から無機質な呼び出し音がなった。
まわりから馬鹿にされるが、面倒くさいので着信音はデフォルトのままである。
見慣れない電話番号が携帯に表示されたのを見て、不審な思いのまま通話ボタンを押す。
おっさんだから、変な電話があっても切ればいいだけだから、何もビビることはない。
「もしもし」
『もしもし』
女性の声
『
「……そうです」
私を下の名前で呼ぶ人間はそういない。
エニシぐらいだろうか。
だが、彼女とは明らかに違う声。
『お久しぶり』
「あの、どちらさまで」
電話の向こうの人は少し笑った気がする。
『絵里』
私は数秒間固まってしまった。
十年前から一度も聞いていたない声。
「えり? ……えり……絵里!」
はじめは違ったが、だんだんと夫婦だった頃のイントネーションで『絵里』と発音していた。
『そんなに驚かないで、三和だってそっちに居座っているんだから、母親が挨拶するのは当たり前でしょ』
それにしてはだいぶ遅くないか。
「いや、君から電話がかかってくるなんて思わなかったから」
『迷惑?』
「正直、君の声が聞けてうれしい」
素直にそういう言葉が出た。
横浜へ……そしてモスクワへ行く前に聞いておきたい声だった。
『何それ』
そう言って電話の向こうで少し考えるようなそぶりが伺えた。そしてため息が聞こえる。
『ねえ、博三くん、もしかして、三和と離れるようなところに行くの?』
「ああ、三和から聞いていると思うけど」
少し間が空く。
『なるほどね、少し状況が掴めた』
まるで、初めて私の異動のことを聞いたような口ぶり。
「え? 何が?」
『鈍感』
「いや、何がだよ」
『ねえ、どうして十年も離れていたのに、いまさら父親なんでしょうね』
唐突な問いに、私は彼女がなぜそういうことを聞くのかと考えてみる。
でも、よくわからなかった。
『たぶん、博三にはわからないと思うけど』
「どういうことなんだ」
『教えない、なんだか無性に腹が立つから』
意地悪そうな笑いがスピーカー越しに聞こえた。
私をとりまく女性は昔からこういうのが多い。
『で、どこに? ん、答えはわかってるけど、モスクワね、遠征旅団の』
「三和に聞いたんだよな?」
念押しで聞いて見た。
『相変わらずね、野暮なところは』
とだけ彼女は答える。
『あなたに教えられることは少しだけだから、ヒントをあげる』
と、また意地悪な感情を含ませた声で彼女は言葉を続けた。
『三和はね、あなたと離れたくないんじゃないかな……そのために人の命だって犠牲にしようとしていたんだから……母親の仕事も邪魔をして、下手すれば私が失業者になりそうな邪魔を』
聞いてる? と、彼女は私を
私は「あ、うん」と答える。
言葉の意味がうまくつかめないのだ。
なんなんだ、仕事って……命を犠牲にするって。
『ごめん、ちょっと愚痴も入ったんだけど、細かいことは考えないで』
彼女はそう言うとため息をついた。
『それだけ三和はあなたといっしょに居たいということなのよ』
「……」
私は混乱していた。
三和の怪我、絵里からの電話、そして命を犠牲にするとか、仕事を邪魔するとか……。
『あの子の心の発達は思ったよりも遅いみたい……もしかしたら小学生ほどなのかもしれない、見た目はお姉さんになったけど、考え方がどこか幼いし、短絡的なところがある……私の責任も大きいかもしれないけど』
彼女は一気に焚きつけるように話を続ける。
『今ね……今、面倒見ているのは博三だから』
また、今か。
『ねえ、異動はどうしようもないかもしれないけど、ちゃんと三和と話をしてから出て行ってね』
――父親なんだから。
と最後は弱く、寂しそうに言った。
通話が終わったことを伝える電子音。
しばらくそのまま、私はその音を聞いている。
今。
今か。
まただ。
私の今。
電子音が耳から入って脳に突き刺さるような痛みを与える。
それでも耳から離すことができず、私はそのまま固まった。
……。
空虚で、いろんなものを置いてきた空っぽの今じゃないか。
……。
何か大切にできるものがあるんだろうか?
……こんな私の今に。
こんな私の中に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます