第42話「笠原梅子のお説教」

「転属、ですか?」

 今年の暑さは厳しいせか、冷房が入っているにもかかわらずカウンセリング室は生ぬるくベトっとした感じがする。

 異例とも言える速さでトントン拍子に進んだ遠征旅団のモスクワ派遣の話は、帝国議会の承認まで得てほぼ決まった状態だった。

 三和にもそういう話をしたが、興味なさそうにいつものように「ふーん」と言うばかりだった。

 そしてひとつだけ、反応したというかぼそっと私に言ったのは「ロシア帝国との同盟が解消されたらいかないんだよね」と質問のようで独り言のようなこと言っていた。

 そんな娘の反応を見て、この子は相変わらずよくわからないところに興味を持っていると思った。

 まあ、そういうこともあって、恒例の笠原先生のカウンセリングを受けに来ていた。

 あと数回しか受けれない、このカウンセリング。

 生ぬるい空間、でも涼しい顔を崩さない先生が部屋の中にいた。

「はい、遠征旅団の第三混成大隊に」

「そうですか、やっぱり」

「やっぱり……ですか?」

 先生は寂しそうな笑顔で私に言う。

「最近、なんだか軽くなった感じが」

「そんなにチャライ感じがしますか?」

 少し笑った。

「誤解しないでください、前お話させて頂いた『責任』の重みがなくなったように見えたから」

 少し声がかすれて聞こえた。

「そうですね、最近少し気分がいいんです……もちろん『躁』状態ではなく、安定した気分の良さです」

「やっぱり」

 やはり先生は寂しそうだ。

 私はその表情を見てしまってから、声を出せず沈黙してしまった。

「私は野中さんとお付き合いしたかったんです」

 少し小さめの声で話しを始める。

「でも、だめみたい」

 だめみたい。

 私も笠原先生に。

「先生」

 私は姿勢を正した。

「今まで先生にとても感謝しています……そして、子供のような告白で申し訳ないんですが、好きでした、いや、今でも好きです」

 先生は一瞬目を開き、少し口元が緩んだように見えたが、きゅっとそれは結ばれた。

「この前、あの時、冷静に考えて、正直に思うんです」

 この前――笠原先生といい雰囲気になっていたところを頭山に邪魔されたあの日のことだ。

「嘘つき」

「……あ」

 まただ。

 伊原のアニメ声、ややかすれてしまった『嘘です』が重なった。

「でも、モスクワに行くからお付き合いできないって言うんですよね」

「……」

 図星。

「そこで、違うと言ってくれないんですね」

 先生はため息をついた。そして――そう言ってしまう私も未練がましいというか――と苦笑している。

「ちょっとカウンセリングしましょうか」

 先生は少しだけ意地悪い声で私に言ってきた。

 涙目のまま。

「野中さんに今のまま行って頂く訳にはいけませんので、私の職に懸けて」

 腕まくりでもしそうなぐらいに先生は力強く言った。

 今のままで行って頂く訳には――死にたがっている――伊原の声が重なる。

「カウンセリングというよりもお説教かもしれません」

 先生は笑った。

「いや、だから私の気持ちは本当で」

「だから、そこは違うんです」

「笠原先生を」

「エニシさん」

 ……。

「ずっと不思議でした」

 彼女は続ける。

「水泳で会った時は、すごく親密そうに自然体な感じだって、そう感じたのに、一切カウンセリングをしているときにはでてこないんですよ」

 私は彼女が何を言っているのかよくわからず首を傾げる。

「どうしてだと思います?」

 と彼女は一息置いて質問してきた。

「プライベートの話ですから」

「三和ちゃんのお母さんの話とか、三和ちゃんの話はプライベートじゃないんですか?」

 私は、自分でもよくわからないまま黙ってしまった。

 エニシ。

 エニシは私にとって、なんなんだ。

 友達。

 ――そう、少年漫画とかに出てくるような友達。

 彼女はそう言った。

 私はどうだ?

 本当にそう思っているのか?

「エニシさんとは付き合えない理由がある」

 私は観念した。

「……彼女のパートナーは女性です、夫婦と言っていい」

 先生は驚くことなく頷いた。

「物事は単純なんです」

「単純?」

「学生の頃ありませんでした?」

 少し楽しそうに先生は言葉を続ける。

「好きな子がもう別の人と付き合っててやきもきする」

「ああ、ありますね」

「それと同じです」

「いや、それと同じとは……」

「ええ、そうです……あの頃はそういう風に思うんです、でしょ」

 でしょって。

「それでその場合はどうすればいいと思います? 答えは少女漫画も少年漫画にいっぱいありましたけど」

「もう、私は三十九歳なんですよ、エニシだって私と年は近いはずです」

「だから、単純なんですよ」

「……」

「わかっていますよね、単に『好き』ってだけじゃないですか……わざわざそれ以外の話をいっぱい持ってきて、言い訳にして素直になれない」

 私は顔を伏せる。

「私も……偉そうに言ってますけど、そういうことが分かったのはつい最近なんです……だから、今日はこうして野中さんに言っているんです」

 ――お付き合いしたかったって。

 からっとした笑顔の先生。

 ほんとうにいろいろと表情がある人だ。

 私は顔を上げて彼女の顔をまじまじと見て思った。

「まずは、危険なところに行くんでしたら、後悔しないようにして下さい」

 ――それが回復に繋がります。

 と先生は言った。

 後悔か。

 どれだけ後悔しただろうか。

 戦争の事。

 妻だった絵里の事。

 三和の事。

 未練なのだろうか、後悔なのだろうか。

 そうか、最後ぐらいは後悔しないようにしたい。

 エニシか……。

「笠原先生ありがとうございます」

 私はペコリと頭を下げた。「覚悟ができました」と続けて言った。

 先生はそれに答えず咳払いをする。

「それから、死のうなんて思わないで下さい」

 先生は強い口調で言った。

「責任を果たすことは死ぬことじゃないんですよ」

 だんだん感情が溢れてくる先生。

 そのせいか先生は私の手を握ってきた。

 私はその少し落ち着く暖かさを感じる。

「頭山少尉から聞いているんです、もしロシアで戦争が起こったら間違いなく戦場で前線に立たれるって」

「頭山が」

「すごく心配してました、副長は笑ったって」

「そりゃ、笑うときもありますよ」

「違うんですって、何もない空間のような笑い顔だったって」

 ……そういう顔をしているのか、私は。

「彼は敏感だし、繊細なんですよ……だから周りへの気遣いがすごいじゃないですか」

 彼女はそう言うと目を伏せる。そして、一息置いた後、もう一度その思いを込めた力強い目でをじっと私を見た。

 少しだけ息を吸って先生は話を続ける。

「カウンセラーとして絶対に言うってはいけないことかもしれませんが」

「『死ぬことは逃げることだ』ですよね」

 少し笑ってしまう。

 ――いいじゃないか、やっと逃げれるんだから、臆病者らしい考えじゃないか。

 と自嘲してしまった。

「……カウンセラー失格だと思います」

 よく見ると彼女は泣いていた。

 少しだけの沈黙。

「戦場の事はわかりません、どんなに辛いことがあったこともわかりません……でも、今……」

 顔を伏せたまま言葉をなんとかつなげようとする先生。

 数秒の沈黙後、言葉をつないだ。

「今、現実にエニシさんがいて……三和ちゃんがいて、頭山少尉も……伊原少尉も、中隊のみなさん、学生の子達が……そして、私もいるじゃないですか……過去のために今を捨てないで下さい……絶対に戻ってきてください……」

 しっかり伝えようと、ひとつひとつの言葉に力を込め、詰まりながら、長い時間をかけて先生はそう言った。

 私はどんな顔をしているのか、自分でも予想できなかった。

 涙を流す先生に触れてはいけない。

 それだけはわかっていた。

 だから、先生が顔を上げるまで私はじっと待つことしかできなかった。

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