第33話「同類のカン」

博三ひろみがひとりで来るのは久しぶりね」

 エニシはカウンター越しにそう言った。

 いつものように赤い縁がついている眼鏡をかけ、しっとりした形のいい唇を少しだけ歪ませる。

 確かに久しぶりだ。

 娘が来て以来、なるべくまっすぐ家に帰っていた。

 ひとりでいる頃は週二回だったのが、最近は二週間に一回ほどに減った。

 家で晩酌をするのと同じような感覚で来ていた。だが、今は先日の伊原達との付き合い――といっても彼女とサシだったが――でくる程度だ。

 そういう意味も含めて久しぶりだった。

 今日はめずらしく店内には私と彼女だけ。

「たまには来ないとね」

「いいの? 三和ちゃん」

 意地悪な顔をするエニシ。

 娘のことを聞くとき、彼女はこんな表情をする。

「そりゃ、高校生だから」

「父親がいないからって、男の子連れ込んでいたらどうするの?」

 げほげほ。

 咽た。

 慌てたわけじゃない。

 取り乱したわけじゃない。

 エニシの軽いジャブぐらい、ちゃんとかわせる。

 家族の絆を戻しかけている父親としての気の利いた返しを……。

「い、嫌な事言うなよ」

 まあ、なんだ。

 もっとうまいこと言ってやろうと思ったが、そんなことしか言えなかった。

 ふっと彼女は笑って、踵を返すと私の注文したスコッチを棚から取り出した。

「めずらしい、こんなに甘ったるいのを注文するなんて」

 瓶のラベルを私に見せる。

「たまには、こういうのを飲みたくもなる」

「ふーん」

 そう軽く流した彼女は器用にアイスピックで氷を砕いた後、琥珀色の液体をメジャーカップから二回注いだ。

「で、さっきの話の続き、ネット小説がどうしたの?」

 音もたてずにコースターの上にグラスを置いた。

「……私とか頭山に似ているキャラクターがいて」

「それが、男同士で愛し合うっていうお話し?」

「そう」

 私は頷く。

 あの娘や長崎ユキが私に教えた、BL小説なるものについてエニシに話をしていた。

 ネット小説が流行ってるが、少し困ったことが起こっている、と。

「濃厚なお話しだそうだ」

「何が? ストーリー、それとも」

「どっちもらしい……」

 エニシが両肘をカウンターに置き、私に顔を近づけた。

「読んだ?」

「読んでない……怖くて読めないよ」

「いくじなし」

「……あのな、でも同性とはいえ、セックスの描写がそう生々しく書いてあると聞くと、なんというか、高校生がそんなの読むのって、なあ」

「博三がエッチな本を読んだのはいつ?」

「……こ、高校生」

「うそ」

「中学生」

「博三は嘘つくとき、あるクセがあるからわかりやすい」

「……小五……つうか、今後の参考のためにぜひ、そのクセをご教授」

「いや」

「そこをなんとか」

「だめ」

 そう言うと彼女は少し下がり、数種類のチーズがのった皿を冷蔵庫から取り出すと私の前に置いた。

「男の子はよくて、女の子はだめなんだ」

「そーゆーわけじゃなくて」

「別にいいじゃない、高校生なら、現実との分別ぐらいはつくし……あ、男の子は猿だからついてないと思うけど」

「……反論はしない」

 勝ち誇ったような笑顔のエニシ。

「大丈夫、行為のところはそんなに生々しくなかった、どちらかというとソフトタイプのお話ね……それよりも三角関係の中で揺れ動く「四十歳」の感情の描写がすごくよくて」

「……エニシ、お前もか」

 私は天井を仰いだ。

 そんなに人気なのか、あのネット小説は。

「そっちの方面ではランキングトップになっているからね」

「なんだ、ランキングって」

「ネット小説を取りまとめているサイトのBixivってあるんだけど……面白かったらユーザーが評価して、それを元にランキングをつける」

「そんなに有名?」

「そっちの住民たちには」

 私はチーズをつまみ、ぱくっと口の中に入れる。そして甘ったるいスコッチでそれを流し込んだ。

「作者はプロフィールに小説家志望ってあった……文体とかから見ると女性っぽいけど」

「女性……」

「性別は記入してなかったけど、なんとなく文体でわかるから……なんとも言えないけど、何? 男性だったら身に覚えがある?」

 身に覚え?

 ……頭山のことか?

 私が不思議そうな顔をして彼女を見ると、また意地悪そうな表情で私を見て笑う。

「身に覚えはない、か」

「なんだよそれ」

「ふーん」

 彼女は目を細めてその赤縁眼鏡の位置を変える。

「もしかして、彼のことだとか思ってる?」

「……」

「大丈夫、あれは間違いなく女性が書いたもの、それにこっちの人間じゃない」

 さらりそう言ったが、私は気付いて冷汗がでた。

「……なあ、いつから……頭山がそうだって」

 そう、エニシも知っているのだ。

 頭山のことを。

「同類のカン」

 同類ね……。

 こう話していると忘れてしまっていることに気付く。

 彼女のパートナーは女性だということを。そして私とは彼女は『友人』という定義で付き合っていることも。

 少しだけ体を寄せ合うことのある深い友人。

 きっと、そんな表現をしたら、世間一般からは白い目で見られることになると思うが。

 しょうがない、それしか言いようがないのだから。

「けっこう学校でも騒ぎになりつつある」

「変なの」

「変?」

「だって『野中』って登場人物が出ているわけでもないし『頭山』って子もでていないんでしょう」

「ああ、似ているだけだ」

「ねえ、似ているものをあーだこーだ言ってなんになると思う? フィクションにケチをつけてどうするの?」

「確かにそうだけど」

「軍人さんは固すぎ」

 確かにそうだ。

 どうして騒ぐ必要があるのか、私もよくわからない。

 しかし、上級部隊が騒ぎだしていた。しかも頭山のことを知っている上層部も。

 どうも内部の人間が書いているんじゃないかと。

 風紀を乱す、一大事と。

 いったいあれを誰が書いたか。

 学校職員の間で、まるで魔女探しのようなことが起こっていた。

「確かに変だ」

 私は手元のグラスを煽ってそう言った。

 騒ぐことじゃない。

 そもそも風紀とはなんだ。

 学生の便所でエロ本が落ちてたぐらいで騒いだことはないのに、どうして同性の小説が流行っただけで、こんなに騒ぐのか。

 とても馬鹿らしいと思える。

 そう思うと、何かストンと気持ちが落ち着いてきた。

「ところで」

 じっと私はエニシの顔を見る。

 今日は別のことも言うつもりだった。

「何?」

「週末……お昼空いてる?」

「三和ちゃんはどうするの?」

 私はその問いはスルーする。

「外で」

「食事してホテル?」

 間髪を入れずに彼女はそう言った。

「露骨な」

 少し口を尖らせる。

「したいってことじゃないの?」

「そうだけど」

 私は正直に言った。

「そろそろしないと……変になりそなんだ」

「ふーん」

 彼女はグラスを洗い出す。

「溜まってるってことだ」

 ため息をつかれた。

「ねえ、私を性欲処理かなんかだと思っていない?」

 ……あ、そうか、そう言っているようなものか。

 とても失礼なことを言ったことに気づく。

 発情盛りの若い者でもないのに……私は急に恥ずかしくなり顔を伏せてしまった。

「ごめん」

「そろそろちゃんとしたパートナーを作った方が博三のためだって思うんだけど」

 ちゃんとしたパートナーを作った方があなたのため。

 私はハッとして目の前の彼女をじっと見てしまった。

 そう、ここで目を伏せたら、それを肯定しまうことのような気がして。

 でも一瞬にして私の中の何かをぽっかり空けてしまった。

 喉の奥から空洞ができていく……そういう感覚だ。

「……パートナーか」

 私は辛うじて声をだす。

「笠原先生とか、伊原ちゃんとか」

 私は笑うしかなかった。

「うまくいく筈がないだろう」

「そうは思えないけど」

「だから、ないって」

「ほんと、意気地なし」

 彼女は少し意地悪な笑顔をする。そして言葉を続けた。

「言い過ぎた」

 彼女のボソっとした声。

「言い過ぎ?」

「自分だけいい子ちゃんぶったってこと」

「自分だけいい子?」

「そう」

 私の問いに彼女はコクリと頷いた。

「……」

「三和ちゃんがいるからそういう気分になれないし、わざわざそれだけのためにホテル行くのも嫌だし、私たちはそういうものじゃないと思う」

「うん」

 すうっと彼女の顔がカウンター越し伸び、私の耳元に近づいた。そして、その息が耳にかかる。

「でも、あなただけじゃないから、したいのは」

 いたずら小僧がやってしまったことを告白するような感じで彼女はそう囁いた。

 不覚にも、私は一瞬だけ硬直してしまった。

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