第31話「伊原真の突撃」

「せっかく……なあ」

 私は伊原に申し訳なくなった。

 ため息をつきながら困った顔を彼女に顔を向ける。

 まったく、あの野郎。

 私の精一杯の気遣いを……人の親切心がわからんやつめ。

 ぐびぐび。

 やけ酒みたいに飲んでしまう。

 というのは言い訳。

 ふたりきりになって気まずい空気が流れていたから。

 なぜか頭山はなかなか帰ってこない。

 無言の二人はどうしようもなく、ただ飲むペースが速まった。

 私が紙パック焼酎をもう一度自慢のシェラカップ――チタン製!――に注ぐと伊原が唐突に声を出した。

「あ、あの」

「お、おう」

 伊原も飲み過ぎだ。

 顔が真っ赤だった。

「あの……」

 言葉に詰まった彼女を正面から何気なく見る……そして、つい、凝視してしまった。

 ああ、いや……まあ。

 ついそういう目で……意識してしまった。

 彼女のカーキ色のTシャツが少し汗ばみ、そしてうっすらと下着の線が浮き出していることに気付いたから。

 私はそんな自分に気づき慌てて目をふせる。

 すると次は緑色の短パンに目が行き……筋肉質だがスラッと伸びる足に目が行ってしまった。そしてまた同じように「いかんいかん」と自分の中で葛藤したうえで目を横にそらす。

 奇襲だ。

 あの伊原がそういう雰囲気になっているのは奇襲だ。

 さすがの私も気付いてしまった。

 もちろん私は慌てることことなく、心乱すことなく対応できる大人である、うんあである、であるか?

 ……できなかった。

 情けない。

 相当慌てた。

 これじゃセクハラで訴えられてもしょうがないと思うぐらいチラ見する。

 ああ、そうだ。

 ごめん。

 性欲だ。

 節操のない性欲だ。

 私は娘がアパートに来て以来……もう三ヶ月以上エニシとしていなかった。

 正直、あれだ。

 もう、どうしようもない言い方をすると、たまっている。

 そういうことだ。

 いい歳なんだから……と思う。

 かわいがっている部下に、しかも上手くくっつけようと思っている片方に……少しでも欲情してしまっている自分が情けない。

 いや、少しどころではない。

 あの日の胸の感触なんかも思い出していた。

 ……ここは話をそらそう。

「最近どうなんだ」

 いや、何言ってるんだ。

 どんだけベタなんだ……おい。

「……え、いや、仕事ですか?」

「あ、仕事もプライベートも、あと頭山もだな」

 さりげなく頭山。

 ほら、おっさんやればできるじゃないか。

「プライベート……」

「そうだ、好きな人がいるんだろう」

「います」

 即答だった。

「お、うん、どうなんだ? 私の知り合いなら、協力するからな……これでもキューピット野中と言われるぐらい、あいだを取り持つのは上手いからな、任せろ」

 ウソである。

 自分で言ってて嫌になるキューピット野中とか。

 どこの男優だ。

 できる限り伊原と頭山はくっつけたいが、男女のあいだを取り持ったことなんて一度もない。

「笠原先生」

「え?」

「笠原先生と付き合っているんですか?」

 奇襲。

 驚かず、冷静に、対応するべし。

 奇襲が成功するのは、その最初の効果を持続させるからだ。

 冷静に対応すれば、ただ先手を取られたにすぎない。

「か、笠原、先生? あれだな、美人だし、いいと思うけど、あれだ、私はおっさんだろう? 今更、お付き合いというのは恥ずかしいし、あれだ、彼女が嫌がるだろう」

 私は冷静だ。

 同じ接続詞を連続して使うはずがない。

「笠原先生はきっと副長のことが好きだと思います」

「いや、それはないだろう? あれだよ、仲良くしているのは、あくまでカウンセリングの間であって……あれだから、そこの点で信用しているだけでな……いや、端から見るとそう見えるのか、あれだもんな……気をつけないと、先生に迷惑かかるよな、あれだから……う、うん」

 冷静だよね。

「私も副長が好きです」

 そうか。

 好きか。

 ……じっと目を見る伊原。

「好きです、副長」

 ……私は彼女のふっくらした唇をぼんやりと見た。

 すきですふくちょう。

 伊原が私に対して好きですと言っている。

 ほんとうに言っている。

 あれ?

 私はもう一度目を落とすと彼女の短パンから伸びる太ももからサンダルの間に見える足の先まで真っ赤になっていた。

「わかった、まて」

「……何がわかったんですか?」

「わかった、あれだ! 私も伊原も頭山も好きだ……部下として最高の人間だと思う!」

 無駄に力強く言ってみた。

 そうもしないと雑念――主に性欲――が振り払えない。

「……ボクは人間として、副長が好きなんです」

「ああ、そうだな……うん人間として君たちは素晴らしい、うんこのましい、うん」

「すぐに、母親にもなれるようにがんばります、上手くできるかわからないけど……きっとミワちゃんにもお母さんが必要だと思います」

 彼女が立ち上がりその長身を折り曲げる。

 真っ赤な顔のまま、座っている私顔を覗き込んだ。

 私は彼女のTシャツの首元が広がり、その奥の下着をつい見てしまった。

 慌てて目をそらす。

 ……そんな私に気付いたのか彼女は緊張した顔を一瞬だけほぐしたように見えた。

「副長は、背の高い女はだめですか?」

「いや、そんなことはない、中身が重要だ、この歳になると」

「スポーツブラばっかりもっている女は嫌いですか?」

「そんなことはない、健康美健康美」

 顔が近づいてくる。

 私は必死にこらえる。

 これ、どうやっても……私に言い寄っているとしか思えない。

 それを打ち消す否定情報を一生懸命探しているがまったくない。

 だめだ。

 いかん。

 でも……しょうがないよ。

 最近エニシとしてないから。

 たまってるし。

 してくれないエニシも悪いし。

 エニシも最近相手してくれないし。

 それに相手もそういっている。

 据え膳なんとかっていうじゃないか。

 おい。

 そんな言い訳してどうする。

 いかん。いかん。いかん。

 いっその事、抱き寄せて本気かどうか試してみようか。

 押し倒して……。

 その唇を奪い。

 そのスポーツブラの間に指先を差し込んで……。

 ……。

 ……っ!

 ムキャーーーー!

「よし! 星が見たい! 見るぞ!」

 彼女はキョトンとしたまま固まった。

 私は立ち上がり、スルスルと天幕の外に向かう。

 いわゆる逃亡。

 逃亡者野中。

 外にでる。

 七月というのに思ったよりも肌寒い。

 そうして天幕からずかずかと離れていった。

 興奮した心を冷やす……少しは気分転換になっただろうか?

 空を見上げると、曇り空で星ひとつ見えなかった。

「副長、卑怯者ですね」

「お前なあ、どうしてそういう大切なことを先に言わない」

「え? 何が」

「伊原のことだ、お前が仕組んだんだろう」

「バレました?」

「バレましたじゃない」

「いいと思うんですが」

「なにがいいんだ、伊原はな……父親のことで冷静になれなくなっているだけなんだ。あのショックで父親的な『私』を求めているだけだろう」

「それは考え過ぎですよ、あいつは前から副長を」

「あー、まて……いいか? ああいう未来のある子をだな、私みたいなのが……ダメだろう」

「そんなの関係ないでしょう……人が人を好きになるというのは」

「関係あるんだよ、高校生じゃないんだから」

 私は頭をぽりぽりかいた。

 虫がまとわりついてくるのを払いつつ。

「俺は」

 言葉の間が開く。

 彼の表情はあまり見えない。

「あいつに恋をしてもらいたいんです」

 いつもよりも少し感情的なくせに静かな声で話す。

「俺が信用している、大切な二人が付き合うんだったら、そういう経験をあいつができるなら」

「経験をさせる?」

「まともな恋をして、まともな男と付き合う……」

 いろいろな虫の鳴き声が、反響している。

「あいつが、俺と付き合ったときに辛い思いをさせてしまったから」

 付き合っていた?

「士官学校で、あれを治そうとして、付き合ってみたことがあるんです」

 彼は俯く。

「もちろん、やっぱりうまく続けれなくて、俺が正直ゲイだって言って、それで……今みたいに友達を続けているんですが、でもあいつはあれから、そういうことは一切無くて」

 そうか。

 私はため息をついた。

 彼と彼女の間にあったことを私なりに想像する。

「すみません、よくよく考えたら、自己満足ですよね」

 そうだ自己満足だ。

「人の心の中はよくわからん……でも、伊原はきっとお前の事が好きなんじゃないか? たぶん、私にああいう態度をとったのも、お前へのあてつけだと思う」

「それは……ちが……」

 困ったことにこいつは鈍感。私は彼の言葉をつい遮る。

「だから、伊原もお前も冷静になる必要がある」

 もちろん俺も。

「あんまり抱え込むな」

 私は天幕に戻ろうと回れ右をし背中越しに言った。

「自然体で行けよ、自然に好きなものは好きだと思えばいいんだ……無理やり自分を殺す必要もないし、無理やり大切な人を幸せにしようとがんばらなくてもいいじゃないか?」

 私たちは天幕に戻り、酔っ払ってベットで眠っている彼女を見下ろす。

 おなかを出して寝ていたので、そっと寝袋を上からかぶせてやった。

 そのとき少しだけ彼女の胸に触れてしまったので……まあ。あの感情がでてきてしまった。

 いかん。いかん。いかん。

 そんな葛藤を見せることなくベットに横たわり目を閉じる。

「電気消しますよ」

 頭山がそう言って「今日はすみませんでした」とひとこと言った。

 私は彼女の寝息を聴きながら、あの胸の感触を忘れることに専念した。

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