第29話「奇襲とトラウマ」


 子供の生意気な態度に対し、毅然とした態度で挑まなければならない。

 特に流暢な日本語を使うロシアからの留学生ならなおさらだ。

 帝国陸軍軍人としての誇り。

 日本人としての矜持。

 なめられちゃーだめだ。

 窓際なめんな。

 ……なんて闘志が湧く訳もなく、私はだらだらと説明を始めた。

「ごめんなあ、正直勉強不足なんだ……たぶん、それが言ってることは『表面的には情報を入手して敵の態勢を解明する反面、自己の意思はしっかりと秘匿ヒトク、それで敵さんは手の内が読めずにどっから攻撃してくるかもわからんから、戦力をあっちこっちに置くしかない……で、こっちはそれを知ってるもんだから、弱点に戦力を集中して、各個撃破するってこと』でいい? まあ言ってることは、当たり前だね、ふーんのお話なんだけど」

「もっと軍人らしい言葉で説明して下さい」

 留学生、しかも高校一年生に日本語の使い方で怒られた。

「それじゃ、どうやって今みたいな、このTの字になるようにもっていくかなんだけど」

 私はホワイトボードに情報、機動力、火力と書く。

「ゲイデンが言ってくれたように、情報の優越が第一で、次に機動力、動かないといけないから……もちろん、それを邪魔するために敵は火力、パンパン撃ってくる……それを邪魔して敵を動かさないようにするためこっちもパンパン撃って黙らせる、そういうことで火力も重要なんだ」

 すでにわかりません女子の中村は眠っている。

「でも、赤組が十で青組が八ではそもそも火力が弱いから、例えばT字になるように動くことは難しい」

 私はホワイトボードから青いマグネットを三つばらばらに置いて、赤を三つずつ動かす。

「青の五が残りの赤の一に攻撃すれば、楽勝で一を潰せる……まあこれを繰り返せば赤はどんどん減っていく、そこで重要なのがこれをするために、赤三を引き付ける青の一、これを三箇所」

 マグネットを動かし赤三つと青ひとつの組み合わせを三つ作る。

「もちろんガチで戦うと、やられちゃう……と、いうことで有利な地形や準備時間を戦力化してから戦う『防御』の概念が生まれるんだ」

 上田の首が折れた。

「だから、攻撃を有利にするために防御があるという見方もできる、防御は戦いの目的である勝利に直結するわけではなく、あくまで補助手段だから、攻撃に重きを置くような戦闘思想なのが、帝国陸軍の伝統」

 次にホワイトボードに奇襲と大きく書く。

「奇襲ってのは奇術とかペテンとかではなく、赤組が予期しない、時期、方向、手段で攻撃しちゃうことと思ってくれ」

 赤マグネットの上の部分に山、下の部分に断崖絶壁の海岸を描く。

「例えばこの高い山、冬は雪で閉ざされ、とても歩いてはいけないような所や、船をつけれないような断崖絶壁の海岸があれば、別の正面に戦力を準備するだろう」

 青いマグネットを赤組の上下に動かす。

「こんなところに敵がきたらびっくりするだろう、このびっくりが大切なんだ」

 留学生を見る。

「サーシャ・ゲイデン」

「はい」

「上田が好きか」

「な……」

 鳩に豆鉄砲の顔と言うのだろう。この少女のせっかく整った顔立ちがもったいないことになった。

 ちなみにカックン男子の上田に気があるということは噂で聞いている。

 噂は噂だから、ちょっと冷やかすぐらいはいいだろう。

「上田は好きだと言っていたぞ」

「えええっ」

 死んだマグロの目に光が灯り、なぜかガタッと机を揺らす中村。

 折れた首が元に戻り、なんか名前が呼ばれたなーぐらいで目を覚ます上田。

「な、驚いたら人間は一瞬止まるだろ」

 私は立ち上がったままの留学生を無視して「これが奇襲の醍醐味なんだ」と言った。

 赤のマグネットの周りを、自由に青のマグネットを動かす。

「そういう隙を一気に突いて、次から次に手を打って弱点を突き進んでいくんだ……これこそ言うは易しの世界なんだがね」

 私はホワイトボードのマグネットを片付け文字を消す。

 顔を赤くした留学生はじろっと私を睨んだままである。

 なんだかやってしまった感が。

 あれ? もしかして図星だった?

 人の青春に土足で踏み込んでしまったのかな。

 ま、いいか。

 青春無罪。

「じゃ質問なければ終わるけど」

 教室にある時計の針は終了時刻より二〇分ほど手前を指している。

 こんな授業、ダラダラやっても効果ないから、まあいいんじゃないだろうか。

 別にサボりたいわけではない。

「教官は二十年前の戦争を体験したと聞きました、大活躍だったとお聞きします、ぜひ奇襲の成功例を教えてください……こんなくだらない奇襲ではなく」

 留学生が今度は手を挙げることもなく質問。

 なんだか、おかっぱの金髪が少し逆立っているような気がする。

「んー、そうだなあ、大活躍も何も負けるは逃げるはの記憶しかないんで、奇襲を受けた戦例を」

 私は緒戦の関東で奇襲を受けた話をした。

 まだ帝国陸軍が完全防勢だったころの矢板。

 塹壕の連なる陣地線。

 敵がいつの間にか味方の防御陣地に浸透しんとう――部隊が小さい部隊に分かれて、陣地に隠密に潜入して、後方で合一する機動の要領――してから攻撃を受けてしまった話をした。

 あの時の恐怖は今思い出しても鳥肌が立つものだ。

 前を見て銃を構えているところに、突然後ろから敵が現れた時のショック。

 戦場で後ろにまわりこまれるという恐怖はそこにいた人間にしかわからないと思う。

 誰かが「下がれ」と叫んだ時にはパニックになり、自分の持ち場を捨て後ろの敵に向かって行った。

 結果は正面からも敵が押してきて、一気に陣地線が瓦解し、部隊全体が敗走することになってしまった。

 そういう話をして、授業は終わった。

 そして、ひとり。

 私はひとり教室の教官用の椅子に座って動けなくなっていた。

 震え、貧血。

 自分の手が土色になっているのが分かる。

 あの時、私は同期を見捨てた。

「持ち場を離れれば、味方は総崩れだ」

 と叫ぶ彼。

 逃げよう。

 もうだめだ。

 逃げよう。

 みんな行ってしまったと私は叫ぶ。

 彼は同じことを繰り返す。

「逃げるな、臆病者」

 最後に聞いた言葉。

 私が死に物狂いで走り、転び、地面を這って、ボロボロになりながらなんとか部隊の主力に合流できたとき、もちろん彼の姿は無かった。

 ただ、敵にあっという間にあの陣地を奪取されたという話を聞いただけだ。

 ……最近は聞こえなくなっていた彼の声。

 ――逃げるな、臆病者。

 やってしまったなあ。

 と私は途方にくれた。

 こんなことで囚われるとは。

 まったく、しばらくは眠るのが怖くなってしまうじゃないか……。

 生々しい彼の叫び声が私を罵り続ける中、私は震える左手を右手でギュッと握った。

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