第0章「戦場の野中博三」

第24話「20年前の臆病者①」

~1991年(正化三年) 五月二十五日 矢板市丘陵部~

『帝国陸軍 歩兵一〇二連隊 第三中隊 野中学生(伍長待遇)の記憶』



 俺は臆病者だ。

 草むらの中でじっとい息を潜めながらそう思った。

 仲間を見捨てた。

 パニックになった周りの奴らと敵前逃亡。

 だが、逃げようとしない統合士官学校の同期を説得に時間をかけてしまい、本隊とはぐれ、敵中でひとりぼっちになっていた。

 いつもそうだ。

 中途半端にやるから、どんどん悪い方に行く。

 ――逃げるな臆病者。

 あいつは俺にそう言った。

 この矢板の丘陵を抜ければ宇都宮から平地が続き、その先には帝都がある。

 極東共和国の奴らがここを抜けたら、帝都での市街地戦になるらしい。

 つまり、住民を巻き込んだ戦闘。

 家族を守るためにふんばれ。

 大切な人を守りたいならここを死守しろ。

 ――だから、ここで死のう。

 そう中隊長が言ったのは覚えている。

 ――頼む。

 そう言われた。

 同期のあいつは中隊長が言ったことを守り、あのタコツボの中で死ぬことを選んだ。

 まわりのみんなは逃げだした。

 小隊長が「予備陣地まで下がれ!」と叫んだ瞬間、穴から飛び出して、敵に背を向けて走り出した。

 予備陣地のある穴を飛び越して、もっと後ろを目指して。

 でも、俺はできなかった。

 中途半端に死ぬこともできず逃げ出すこともできていない。

 トカゲのようにじっと地面に張り付いている。

 顔は鼻水とよだれでべとべと。

 必死にかけずりまわったせいで……地面を舐めるように這いつくばったせいで、口の中は泥の味が広がっている。

 ――逃げるな臆病者。

 あいつは俺を軽蔑した。

 ちくしょう。

 そう唸りそうになったが、慌てて口を押さえた。

 そんなことを言っている場合じゃない。

 雑談が聞こえるぐらいの距離に敵がいた。

 さっき突撃して来た奴らはこの林の中に集結していた。

 今は弾薬補給や再編成をしているんだと思う。何にせよ、敵は少し気の抜けた空気が蔓延している。

「楽勝だ」

「屁みたいな敵だ」

 そういう会話が聞こえる。

「敵陣地の掃討で殺った敵を調べたら、大体が新兵、それから士官学校の学生もいたようだ……な、わかるだろ、帝国はじり貧、こりゃ、早く終わる……俺たちの勝ってすぐに帰れる」

「東京? あそこをちまえば、帰れるよな」

「ああ、とりあえず帝国のびち糞共をぶっ殺せば、全部終わる」

 俺達は目黒の統合士官学校の学生だった。

 将校の卵。

 ドンパチが始まった日、たまたま五月の連休で同期たち六人で水戸旅行に行っていた。

 帰ることもできず、水戸の駐屯地から学校に輸送してもらおうと思ってそこへ行った。そして、数箇所たらい回しにされた挙句、この歩兵一〇二連隊とかいう予備役連隊に組み込まれたのだ。

 あの時六人いた同期とも離れ、あいつと俺だけがこの連隊に編入された。

 他の同期は別の連隊とか言っていたが、連隊の番号はよく覚えていない。

 気がついたら「この方向から来る敵を撃ち殺せ」と命令され、タコツボの中に入っていた。

 ああ、そんなことはどうでもいい。

 眠い。

 ここ四日間は一睡もしていない。

 慣れないタコツボ掘りは疲れた。

 敵が来るまで、ひたすら掘らされた。

 ――砲弾の破片に当たって死にたくなかったら掘れ。

 そう言われて穴を掘った。

 休んでいると、小隊長に殴られた。

 疲れた。

 本当に疲れた。

 もう二日も飯を食べていない。

 もう半日近くこの格好から動いていない。

 小便を垂れ流した時は、臭いで敵が気づかれるかもしれないと思ったが、敵の方もドンパチが始まったあの日から着替えも何もしていないんだろう。

 だいぶ麻痺してきたが、獣の様な臭いを放っているのはわかる。

 あの異様な臭いは、ほんとうにひどい。

 ……寒い。

 ……眠い。

 もう、どうでもよくなってきた。

 眠い。

 もう、どうでもいい。

 もう……。

 どうせ、捕まって殺される。

 それだったら。

 今は。

 眠り……た……い。



 ――!。

 ――!。

 凄まじい破裂音が脳ミソをかき回したため、俺は顔を上げた。

 真っ暗な世界の中で激しい稲光が見える。

 いや、そんなんじゃない。

 ただ、砲迫の弾が炸裂しているだけだ。

 キーンと奥の方が鳴り響いて、耳が馬鹿になった。そして、上げた顔の先にあった戦車が爆発炎上する。

 炎に照らされて、人影が戦車から転げ落ちた。

 被服に引火して転げまわっている。

 俺は立ち上がって、手元の小銃を構えて訓練でやっていたみたいに引き金を引いた。

 初めて人を撃ち。たぶん、殺した。

 もう死んでいたのかもしれない。

 ……そんなことはどうでもいい。

 とにかく俺は走った。

 脇目も振らず走る。

 眠って元気になった気がする。

 だから走れた。

 俺たちがいたあの陣地の方向。

 同期がいる方向へ。

 わからない。

 何が起こったのかわからない。

 砲弾が落ちているのはわかった。きっとそれが味方のたまだということも。

 俺たちがいた陣地の上に。

 だからその方向へ走った。

 味方が陣地を奪回しようとしている。

 そう俺の勘が言っていた。

 もしかしたら、あいつが穴の中で生きているかもしれない。

 今ならまだ、逃げたことを許してくれるかもしれない。

 俺は走る。

 照明弾。

 林の中で木々の陰が動くようにして淡く地面を照らす。

 耳が馬鹿になっていたから、銃声はよく聞こえなかった。でも、よく見ると穴から体を半分だけ出して機関銃を撃っている後ろ姿が見えた。

 敵。

 繋がっている穴に機関銃を撃っている奴と眼鏡ガンキョウを覗いているのがふたり。

 ああ、そうか。

 俺は敵陣地の背面に回りこんだらしい。

 何も考えず、手榴弾を手に機関銃を撃っている奴の後ろに近づく。そしてその穴にゆっくりと転がした。

 穴の中でぼこっという破裂音。

 想像していたものよりも小さな破裂音だなっと思った。そして、同時に引き金を引いて眼鏡を構えた男の後頭部を撃った。

 なんだ。

 簡単じゃないか。

 俺はそう思って。

 突撃の叫び声が聞こえる方に向かい走っていった。



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