第21話「娘のローキック」
ランチでコーヒーを飲みすぎたせいかトイレが近い。
お昼の後というのもあって、どこのトイレも込んでいた。
一番プールから遠い、ちょっと細長い通路を行ったところに向かった。
さすがに人は少なかった。
間に合わなかったらプールにジャボンしてもなあ、と下劣極まりないことを考えながら歩く。
すると、お手洗いから出てくるとさっきと同じビキニに薄いカーディガンのようなものを肩からかけた長崎がいた。
「あ、指導官」
何やら聞いたことのある台詞。
じっと私を見据える目。
なんとなく心の中を読まれていないか心配になったので、少し慌てた。
プールでちっこしてもまあいいかもなんて冗談でも考えたことがバレたら、もう生きていけない。
長崎という子はそんな超能力でもあるんじゃないか? と思うぐらい学生にしては冷静で落ち着いた雰囲気をもつ学生なのだ。
……たまに、いきなりキレるが。
「さっきは失礼しました」
失礼と思うなら、最初から言わなければいいのに。
と思う。
「謝りたかったんです、ちょうど会えてよかった」
いや、だから最初から言わなければ謝る必要もないだろう。
彼女は通路にあるベンチの隣にある自販機をじっと見た。
「奢ってもらってもいいんですよ、日ごろのお礼を受けてあげます」
とても学生が指導官に言うべきでない言葉を口にする。
大人の意地として受け入れられない。
だが、その見据える目が怖くてベンチで腰掛けてジュースを飲んでいた。
ただおごるだけじゃ脅しに屈した気がしたので、自分の分も買った。
ついでに買ってやったんだぜ……というシチュエーションにした。
「なんで、学生の私に言いなりになってしまうんですか? どうしてそんなにダメ人間なんですか?」
唐突なところはうちの娘やエニシに似ている。
「いきなりなんなんだ」
「さっきから、私をチラチラ見てますので」
彼女は胸の谷間の部分を指差す。
「あのな、学生は学生らしい水着を着ろっと言いたいだけだ」
……何気に認める様な発言をするなよ自分。
いや、子供の胸にしては大きいな、大変だなと思っただけだ。
だいたいこいつ、三和とひとつしか歳が変わらんのだぞ。
ペタンとした三和の胸を思い出し私はため息をついた。
……ああ、いずれあの子もこんな風に……母親と同じような体型に……変な虫がついてきたら、お父さん鬼になるから、悪魔に魂売るから。
なんて考えて意識が跳びそうになるところを、長崎の声で呼び戻される。
「どこらへんが、学生らしくないんですか」
「お、おう」
なんの話だっけ。
上目遣いで私を見る長崎。
ああ、学生らしい水着を着ろっていったんだ。
長崎がいやらしい目で私が見ていたと思い込んでいたから。
……わかったそういうことか。
こいつ……私を冷やかしているんだな。
きっと別の学生がどっかで盗撮なんかして……私を貶めようとしているに違いない。
ならば! もっと毅然と対応しなければ!
「まず、水着が小さい、もっと隠れるものを着なさい」
落ち着き払った大人の声。
完璧だ。
「どうしてですか?」
「よからぬ考えもった若い男がよってくるぞ、君にそういう気はなくても、そういう気があると思われてもしかたがない」
「そういう気?」
「端的に言うとエッチだ」
「それは、レイプをする人間の言い訳といっしょですね」
「はあ?」
「ミニスカートを履いているから誘っていると思ってレイプした、女性がひとりで歩いているからその気があると思ってレイプした」
「なんの話だ?」
「女性に対する偏見を言っているです、男性視点の凝り固まった世界の一例ですね」
「お、おう」
私は黒ぶち眼鏡のレンズ越しに鋭い目つきをした長崎から目を離した。
情けない。
情けない大人。
「指導官はないんですか?」
「なにが?」
「こういう私を見て、よからぬことをしようとすることは」
なんだかグイッと距離を詰められた気がした。
目が怖い。
「ない」
私はかぶせて「断じてない」と二回言った。
つまらなそうに長崎はペットボトルのジュースを飲む。
「あ」
こぼれた。
と呟くので見てみると、口の端からジュースが垂れ、胸の谷間にそれが流れた。
言うまでもなく心配したから、視線を追わせただけである。
「おい、ガキじゃないんだから」
「何か拭くものもってません?」
「あとでシャワーで洗ってくればいいだろう」
「女性が困っているのに、助けることもできないなんて、ダメな人」
「あーもう、はいはい」
私は、そっぽを向いて、自分の首にかけてあるタオルを彼女に渡した。
ごそごそごそと拭いている音が聞こえる。
「あのなあ」
水着の内側をタオルで拭いている。
私はそっぽを向いたままだ。
どうせ、隙間から見たとか、そんなクレームをつけてくるに違いない。
私は大人。
百戦錬磨である。
子供が仕掛ける罠なんかにかかるわけがない。
「ありがとうございます」
タオルを差し出してきたので、自然と受け取ろうと手を伸ばした。
だが、すぐにそれが意味することを考え、体ごと跳び退けるようにして拒否をした。
「いらん、捨てといてくれ」
あぶない。
めっちゃ罠にかかるところだった。
長崎の目は悪戯心でキラキラしている。
こ、こいつ……。
「ほんとうにダメですね、指導官」
私はジュースを飲み干したので早くこの場から立ち去ろうとベンチから腰を浮かす。
彼女はさっきのタオルを小さくたたんだ。
廊下にゆらりと立つ姿が一つ。
「不潔」
長崎よりもさらに感情の無い声。
「なにやってんの、野中さん」
陰がさして、目がすわっている。
三和、悪いことは言わん。そんな顔をしているとブスになるぞ、ブスに。
ギロっと目が動き、次の標的――長崎――を見た。
「あ、学校祭で野中さんにまとわりついていた、胸がおっきくて髪の長い二年生の人」
「ま、まとわりついてなんか……」
長崎の言う言葉を無視して娘が近寄ってくる。
おい娘、暴力はいかん。
私は娘が長崎に暴力をふるったら庇おうと身構えた。
無言のままローキック。
痛い。
あ、こっちかあ。
「ストーカーに捕まっちゃだめ」
「ストーカー!?」
げし。
引き続き私を蹴る三和。
「学校祭の時にじーっと見つめていたり、付いていったりしていた」
「長崎が?」
げし。
「うん」
返事と同時に蹴りやがった。
長崎がベンチから勢いよく立ち上がる。
その挙動で胸が揺れる。
やはり大きい……。
一学年しか違わないのに三和とは大違いだと今更思う。
食べ物か。
遺伝か。
もちろん男としての興味ではなく、大人として変な男に声をかけられないか心配してのことである。
うん。
「そんな訳がないだろう、なんでこんなおっさんにストーカーする必要がある……意味がわからん」
娘は何も答えることなく、ジーっと静かに敵対心を燃やす目で長崎を睨んでいる。
「あなたは誰なの? いきなり来て私をストーカー呼ばわりするなんて、失礼……だいたい、こんな加齢臭プンプンのダメオヤジを追い回すような物好きがどこに……」
「娘」
三和はボソッとそう言った。
「娘?」
娘は何か意を決したようにして、私の腕を掴んで「パパ」と言いながら抱きついた。
その平たい上半身の骨があたる。
「パパ」
「そう、パパ」
初めてパパと言われてみてわかることがある。
とてつもなく恥ずかしい、そして痒い。
ああ痒い。
「まあ、一応本物の娘だ」
――こんな大きな娘がいるなんて……既婚者だったなんて、ぼっちなダメ人間じゃなかったの。
と長崎は呟いている。
娘は私の腕にますます絡まり。
「ラブラブだから、邪魔しない」
と言う。
「違う、違う……指導官はそんなんじゃない、例え娘さんがいたとしても、きっと臭い汚い汚物と言われているはず……そんなにべったりなんかできる人じゃない」
微妙に合っているんだが。
「いっしょにお風呂」
気持ち悪いぐらいに甘えるように娘が言った。
「ありえない、ありえないわ」
そんな、指導官見たくもない……と呟きながら、彼女はその場から逃げるように立ち去っていった。
……いったいなんなんだ。
私は頭を掻いて、今の若い子はみんなそうなんだろうか……なんてオヤジ臭いことを考えてしまった。
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