第14話「女の人の匂い」

 三和が小さい。

 あの頃の姿。

 そんな幼い日の娘とお風呂に入り、そのぷにぷにした体を洗っている。

「三和のおしりはすべすべしてるなー」

 と触った瞬間、今の三和がキッと私を睨みつけグーで殴られる。

「ヘンタイ」

 私が「違う、違うんだ」と叫んだところで目が覚めた。

 目を開けるとカーテンの無い倉庫の窓から青空が見える。

 夢で感じた殴られた痛み。

 唇につくそれは生暖かい。

 舐めると鉄分の味がした。

 私はゆっくりと右手でぬぐう。

 血だ。

 そして手でぬぐうとき、強く握られた立派な拳を私の顔からどかしたことに気づく。

 私の左手ではない。

 左手は夢の中で三和のお尻を触っていた。

 そうだ、ほら、今もフニフニしたものを触っている。

 ぱっと左を見ると、よく知っている人間が寝息をたてていた。

 体が大きい割りに可愛い寝息。

 私は反射的に左手を引き抜こうとする。

 だが、振動を与えると、とても危険なことになると思ったのからやめた。

 状況がさらに悪化する危険性を感じていた。

 伊原の胸の上になぜか私の左手が置かれていたからだ。

 ふにふに。

 夢の中の動きをつい際限してしまう。

 しまった。

 ああやっちゃった。

 どうしよう。

 変な汗がぶわっと全身からでた。

 もう、セクハラどころではない、下手すれば準強姦罪だ。

 そこまで思いつめながら私はゆっくりと首だけを起こし自分の衣類を見た。

 大丈夫、制服のままだ。

 脱いだ形跡もない。

 次に、寝ている伊原の格好を見る。

 大丈夫、うん、大丈夫、制服のままで、まったく脱がせた形跡もない。

 では……。

 ゆっくりと、今年一番の集中力を使って、貼りついている左手をゆっくりを剥ぎ取った。

 ……それにしても。

 この子は……横に寝ている人間に裏拳をかますとか、いったいどんな寝相なんだ。

 私はそろりそろりと寝袋を引っ張りながら寝ている彼女との距離を稼いでいく。

 少しでも誤解を与えるような状況を作ってはいけない。

 昨日はあれから飲みなおし、いつの間にか眠っていただけだ。

 記憶は飲んでいる途中でなくなっている。

 焼酎のビン。

 そんなに飲んでいない。

 大丈夫、酔って記憶がない間に、いかがわしいことをする量ではない。

 だいたい、ああいう行為をやって、記憶にないとかありえないだろうと常々思っていた。

 あれだけ運動すれば、さすがに酔いも醒めると思う。

 いや、今はそんなことはどうでもいい。

 昨日は朝早起きだったから、いつの間にか睡魔に負けてしまったのだろう。

 そうだ、そうに違いない。

 うん、大丈夫。

 私はやっと安堵のため息をつく。そして、そそくさと逃げるようにして倉庫を出ていった。

 まあ、家に帰らないといけない。



 早朝というのに家に着くと、三和はすでに普段着て起きていた。

「野中さんおはよう」

 珍しく娘から声をかけられた。

 いつもは私が挨拶を先にする。

 まあ、そうしないと無視されたままになるから。

「三和早いな」

 テーブルの上にはヨーグルト。

 朝食中だったようだ。

「お酒臭い」

「ごめん」

 素直に謝り、そして私は少し離れてソファーに腰掛けた。

 近づくと嫌われることは目に見えていた。

「昨日はお母さんと会って楽しかったか?」

「普通」

 彼女は関心なさそうにテレビを見ていたが、ヨーグルトを食べ終わったらしく、皿を台所の流しに置く。

「夕方の宴会で隣に座っていた」

 唐突に娘が口を開く。

 何を言い出したのか、私は理解できなかった。

「茶髪で黒縁眼鏡の女の人は誰?」

 ……え、笠原先生のことか? ええ?

 なんでこの子が宴会のことを知っているのか……もしかしたら、体育館のダンスパーティの方に参加していたのかもしれない。

 金澤中央女子高校の学生も招待されていると聞いていた。

「で、誰?」

 三和はあさっての方向を見てしゃべっている。

 こっちを向いてくれないからその表情は読み取れない。

「私のカウンセリングをしてくれている先生だよ」

「ふーん」

 冷蔵庫から野菜ジュースのパックを取り出しながら娘は続けて聞いてくる。

「ベリーショートの背の高い女の人は?」

「えっと……」

「ふたりの高校生に絡まれたときにいたひと」

「同僚で後輩」

「知ってる」

 自己紹介してましたよね、じゃあなんで聞くんだ。

「どういうひと?」

「だから同僚」

「ふーん」

 どんな意図で聞いているのかさっぱりわからない。

「あと、野中さんを見つめていた眼鏡をかけて胸がおっきくて髪の長い二年生の人は?」

「誰だよそれ」

「ふーん」

 そんな学生は知りません。

 眼鏡で胸が大きい学生なら数人いるが、私を見つめるという行為がありえない。

 それにしても、三和はよくも私の周りの女性をチェックしている。

 伊原以外はどこで見られていたのかも検討がつかない。

 改めて私の娘はあの瓜生絵里の娘でもあることを思い出した。

 忍者の郷だっけか、実家は……。

 やれやれ、結婚したときはもう引退しているなんていったが、娘も巻き込んであの稼業を続けているのか。

 私はため息をついた。

 女手ひとつで娘を育てようというのだ。

 しかも慰謝料も貰わず。

 危険なことをするななんて言えた義理ではない。

 まったく、私は相変わらず自己中心的な人間だ。

 なんだかため息をついてしまった。

 私は立ち上がり、食器棚からグラスを取り出す。

 冷蔵庫の中の野菜ジュースに手をかけた。

「それ、私の」

「知ってる、ありがとう」

 一応お礼をいってグラスに注ごうとした。

「だから飲まない」

 私は娘を見つめて笑い、無視してグラスにそれを注ぐ。

「あ」

「ケチ」

 私は子供のような言葉とともにグラスの中身を一気に飲み干した。

「ちゃんとまた買ってくるから、な、私の娘はジュースの一本や二本でケチケチしない子のはずだ」

 ちらっと見てみる。

 拗ねた顔で私を睨んできた。

「そんな顔ばかりしてたらブスになるぞ」

 そうだ、この子が年長さんだったころによく言ってた台詞。

 改めて大きくなったなぁと娘をぼーっと見てしまった。

「う、気持ち悪い」

「まって」

 親に気持ち悪いとは何事か。

 ここは父親の威厳をだな。

「三和のことがかわいくてかわいくてたまらんから、じーっと見ているんだ、それを気持ち悪いとは、お父さんは悲しいよ」

「それが気持ち悪い、こっちを見ない」

「……」

 私は肩を落とし、それから冷蔵庫の中にあるほうじ茶の茶色い茶葉を急須に入た。つづいて沸騰したてのお湯を注ぎ、しょげ返ったままソファーにもう一度座った。

「ところでうちの学校祭りは、ほかに何か楽しいことあったのか?」

 私は目逸らしながら、話をはじめる。

 一瞬ゴミ虫を見る様な目つきに見えたから、まともに受けるのを回避した。

 きっとそれを受けたら私のガラスのハートが割れてしまう。

 心を修復できる自信がなかったので、目を伏せたままにしていた。

「ちゅーをした」

 ……。

「ちゅー?」

「ちゅー」

「誰と?」

「男の子」

「どこの?」

「野中さんの学校の」

 ……。

「ちゅちゅちゅうを、ちょ、ちょっと、あ、その三和は、高校生、そう高校生なんだぞ、ま、まったく早い、早すぎる……もしかして、あの二人組か! やっぱりキュっとしとけばよかった……ちくせううう……え? 違う……いや、ちょっとまて、なんでちゅうなんかを、その男と、うん、付き合っているのか? いや、その前にデートはしたことあるのか? ちゃ、ちゃんと健全なお付き合いなんだろうな、ん、その前にお父さんにその男子を合わせないといけないだろう……それでもちゅーはだめだ、ちゅーって、口付けだろう……いや、ほっぺにちゅーぐらいならゆ、許せるけど、もー、いや、なあ」

「口付け」

「だよなあ、口付けだよなあ、ちょっと、お母さんはいたのか、なあ、お母さん止めなきゃだめだろう……絵里いい頼むよおい……おおい、私のかわいい三和が他の男にちゅうだななんて、いや、最近は私にもしてくれてないし、いや、そもそもお父さんにはほっぺにちゅうしかしてなかったし……いやそれよりも、その男と付き合うとか、彼氏がいるとか聞いてないし、いやお父さんは認めないからな、そんな高校生の男子なんて猿だからな、モンキーだからな、性欲の塊だからな、うちの三和をそんな野獣に渡してたまるものか、くそう、名前を教えて、大丈夫、悪いようにはしない……ちょっとお灸をすえるだけだから」

 あわわわわわ。

「付き合ってない」

「付き合ってないのにちゅーはしません!」

「しました」

「ど、どうして?!」

「仲直り」

 へ。

「お母さんが喧嘩した男の子と仲直りするにはちゅーをしたほうがいいというから」

 お母さん。

 瓜生絵里。

 そういうことを平気で娘に吹き込んで、その姿を見て笑うような性質だ。

 元夫だったからよくわかる。

「あのな、三和」

「何?」

「ちゅーはだめだ」

「どうして」

「ちゃんと好きな人じゃないと、ちゅーはしちゃいかん」

「あの男の子の事は好きだけど」

「ただ好きとかじゃなくて、結婚していいとか、それぐらい思うならなあ」

 娘は首をかしげる。

「結婚したら本当に愛してるってこと?」

「そうだ、結婚を前提にお付き合いするんだったら、お父さんはちゅーもそれ以上のことがあっても、許すかもしれない……いや、許すかどうかはわからないけど、ま、許してもいいかもしれないし、ケースバイケースだけど、いや、もうお父さん何を言っているかわかんないよ」

 娘はじっと私を見た。

「でも、お母さんと野中さんは別れた」

 これがハンマーで頭を殴られた衝撃……というのだろうか。

「……」

 声を出そうとしたが、枯れた空気しかでなかった。

 三和は真剣な表情だった。

「本当に愛していた?」

「それは……」

「それは?」

「ごめん、わからない」

 わからない。

 愛していた。

 過去形になってしまうそれが本当の『愛』だったかどうかなんてわからない。

 愛は不変なもの。

 なら、偽者の愛だったのかもしれない。

 でも、私は偽者の愛の結果が三和だったとは絶対に思いたくはない。

 だから、わからないとしか答えられなかった。

 三和の恋愛の価値観は、私たち親の行いが大きく関わってしまっている。それは暮らし始めたこの短い時間で十分理解した。

 世間一般様の普通とは違っている。

 私のせいだ。

 私の……。

 ため息をつこうとしたがそれを呑み込む。

 責任は私にある。

 嘆息してなんになる。

 ……伊原真の父親はそういった責任をどう取ろうとしたのだろうか。

 そもそも責任を感じることもなかったから、実の娘にあんなことをしてしまっていたのだろうか。

 耐え切れずに、職場でセクハラとかくだらないことをやってしまっていたのだろうか。

 それとも、ただのクソ野郎だったのか。

 娘はグラスを片付け、リビングから出て行くと思った。

 だが、違った。

 ぐいっとソファーに座っている私の前で腰をかがめて顔を近づけてきた。

 急な動きだったので、私は少し身構えてしまった。

「お酒臭い」

 それだけ言った。

「だから、ごめんなさいって」

 私の正面に立って。

 クンクンとワザとらしく嗅ぐまねをする。少し考え、間を置き、訝しげな表情で私に言った。

「背の高い女の人の匂いがする」

 私はあわてて制服の匂いを嗅ぐ。

 もちろんわからない。

 だが、あんな感じの朝を迎えてしまったという事実があるため、私は焦りを隠せなかった。

「ちょっとまて、お父さんはお仕事の延長で同僚で後輩の伊原少尉と飲んだだけなんだ……女性だから、香水とかも付けるだろうし、匂いってのはうつるものなんだ……だからな、いかがわしい事はぜったいにしていないからな、うん、お父さんは健全が制服着ているような、お堅い人で通っているんだ」

 もうさっきから自分で何を言っているのかわからない。

 娘は意地悪そうに笑って「嘘」といった。

「匂いなんてわかるわけがない」

 私は口をパクパクするが言葉がでない。

「ふーん、ああいう女の人が好みなんだ」

「ち、ちがう」

「女のカンは甘くないからね、お父さん」

 決して世間一般で娘が父親を脅す言葉ではない。

 だが私には十分効果があった。

 待ちに待ったお父さんという言葉が、脅し言葉に含まれていたのだから。

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