第13話「父と娘」

 学校祭の昼の部も、なんだか過激派が入って来たかなんかでバタバタ警備はしていたが、とりあえず無事に終了したようだ。

 まあ、無事といっても、何人かけが人が出たようだ。だが、祭りを中止にすることはなかった。

 だいたいこういう場合はすぐに中止にするものだが、うちの学校長――大隊長でもある――はスマートな考え方をしているので、中止してもしなくても何も変わらないという結論で祭りは続けられていた。

 そんなことで、夜の宴会も盛り上がっていた。

 約束通り、二中隊の宴会スペースに笠原先生をゲストに呼んで、あとはただの酒盛り。

 先生とは少し話しをしたが、こんな枯れたおっさんよりも、独身の彼女にはもっと若くて将来のある将校や下士官と話をしてもらった方が、有意義な時間を過ごせると思ったので、私はそうそうに退散していた。

 そんなことで、私は酔い覚ましに散歩をしている。

 それに中隊長への気遣いもある。

 もちろん階級は中隊長の方が上だが、陸士――陸軍士官学校――は私の方が先輩だ。

 律儀な方なので、何かと私を立てようとするのだ。

 それに甘んじるわけにもいかないので、私は悪くないタイミングで席を空けていた。

 しばらく歩いているうちに、宴会の時間も過ぎていく。

 片づける兵隊たちの喧噪が静かになってきたころ、私は将校室のとなりの個室――倉庫的な空間――に入っていった。

 今日の寝床である。

 私は手に持っている焼酎と紙コップやつまみが入った袋を置くとカビ臭いマットに横たわった。

 たぶん駐屯地に泊まるのは私ぐらいだろう。

 すでに日付が変わってしまっている時間帯に酒の匂いをぷんぷんさせて帰る勇気はなかった。

 これ以上娘との関係を悪化させるわけにはいかない。

 そういうことで、ごそごそと自分の荷物から寝袋を取り出すと、掛け布団のようにして横になった。

 私は目を閉じると、嗅覚が敏感になりマットのかび臭さが少し気になる。

 だが、酔っているせいもあってふわっとした気分になっていった。

 うとうとしていると、ギギーと金属が擦りあう音が聞こえる。

 誰かが扉を開けたようだ。

 それにしても、老朽化が酷い学校だと思う。

 もう何度油を差しても、この扉はそんな音をたてるのだ。

 そのまま誰かが近づいてくる気配がした。

 私の他に泊まる将校か下士官がいるのかもしれない。

 私はゆっくりを目を開けた。

「副長……」

 妙にくすぐったくなる高音、そんな特徴のある声……伊原だった。

 彼女はそのまま私の足下のマットに腰掛けた。

 カーテンのない窓から、外の水銀灯の明かりがほのかに入って来ているため、薄暗い中で表情が少し読み取れる。

 私は上半身を起こすした。

「ちょっとお話……いいですか?」

 彼女にしては珍しく、慎重な口調だ。

「どうした? ……まあ、明日は休みだから、一杯やるなら付き合うが」

 私は枕元にある焼酎を引き寄せ、二つの紙コップにそれを注いだ。

 彼女はありがとうございますと言って紙コップを持つ。

「水、ないから、ちびちびいこうか」

 度数の低い二十度の焼酎。

 そのせいかストレートでも飲みやすい。

「かわいい娘さんでしたね」

 今さら何を? 私はその質問の真意が読めなかった。

「まあ、かわいいと思う」

 正直に答えた。

「……した、ことは……ありますか?」

 私は焼酎を噴き出しそうになった。

 噴き出す前に飲み込んだため、むせ返ってしまう。そのため液体が鼻に周り、鼻血のように焼酎を垂らすことになった。

 たぶん、めっちゃ汚い。

「な、な、な」

 私は思いっきり動揺してしまった。

 思いもつかない質問だったからだ。

 そんな私の反応に対して、伊原の表情は一瞬固まる。そして寂しそうな笑顔になっていた。

「あの、キスとかそういうのを……です」

 最初からそう言えばよかったのにと私は思ったが言わなかった。

 でも、彼女のあの言い方は確かに違う意味の「してる」にしか聞こえなかった。

 ……いや、最近私自身、エニシとしていないから、そういう意味で聞こえてしまったのかもしれない。

 もう、四十手前だというのに、まったく性欲ってやつは恐ろしいもんだと、私は改めて思った。

 まあ、いろんな感覚をおかしくする。

「あ、ああそっちか」

「え、あの、まさか、副長、娘さんに手を出して……」

「ば、バカヤロウ、そういうことをする訳ないだろう」

 ゲホゲホっとむせる。

 このため私はしばらく胸を叩いていた。そして落ち着いてから私は話始めた。

「そんなこと親としては最悪な所業だ……地獄に落ちてもおかしくないぐらいに、そういう事件とか、虐待とか聞いたことがあるが、ありえないと思う……娘に対して、そういう感情になるはずがない」

 一瞬。

 そう一瞬だけ彼女の表情が固まった。そして元の表情に戻る。

「ちょっとからかっただけです」

「お前なあ」

 彼女は目を伏せて、焼酎のコップを見ている。

「小さいころ……まだ一緒に暮らしていたころにチューはしていたし、お風呂もいっしょに入っていたよ」

 別れるあの日まで、まだプニプ二していた三和をぎゅっと抱きしめる度に幸せを感じていた。

「お風呂に……高校生になっても入っていたら、おかしいですよね」

 私は即答をさけて、考えてみた。

 今の三和とお風呂。

 ありえない。

 もし、別れることがなく一緒に暮らしていたとしても、胸が膨らむ前には、そういう親子の付き合いは避けていただろう。

 でも、この子はどうしてこういうことを聞いてくるんだろうか。

 ……そう……だよな。

「人によって差はあると思うが、私は入らないと思う」

 全否定しない。

 そう答えないといけないと思った。

 私の言葉を聞いたあと、彼女は何も返さなかった。

 何か考え込むような、何か確かめる様な、そんな風にして彼女は紙コップに口をつける。

 静かな倉庫部屋、その中でふたりの焼酎を飲む音だけが響いた。

「私は、娘の親として何もしてあげれてないんだ」

 私は口を開いた。

 もしかしたら、彼女が聞きたい話じゃないかもしれない。

 でも、きっと苦しいからここに来たんだと思う、娘の親である人間の話を聞きたい、聞いて欲しいと思っているんじゃないだろうか。

「十年近く空白があるし……娘を心から愛しているかと聞かれても、愛してるなんて……そう言ってしまうことがおこがましいことだと感じるから、答えられないと思う」

 何を言っているか、何を言いたいのか自分でもわからない。

「娘だって、父親に対してどう接すればいいかもわからないんだと思う……ただ血が繋がっている、それだけなんだから」

 でもさ、血は、呪縛そのものだとも思う。

 そうでなければ、一人暮らしの四十手前の男の家に来ることはなかっただろう。

「父親がどんなに悪いことをしていたとしても、すべてを否定する必要はないんじゃないか」

「……」

 彼女はじっと紙コップの中身を見つめている。

「……最低な人間だと思います」

 静かに、ゆっくり彼女は言葉にする。

「父は最低なんです」

 涙声。

「ずっと目を背けてきたのに、ぼ、ぼくは……」

 私よりも背が高いはずなのに、ぎゅっと自分の体を抱え込むようにして、少し震える伊原はとても小さく見えた。

 しばらくそのまま震えている。

 息を整えて彼女は口を開いた。

「ボクは嫌いにならないといけないのに、あの人のことを嫌いになれない」

 振るえる声。

「最低な人間なのかもしれないけど、ぼくのことを娘として愛していたからこそ……」

 それからは言葉にならなかった。

 声を立てずに泣いていた。

 私は、思う。

 弟の死、離婚、娘を弟の変わりに育てようとした父親の願い、そして、娘への愛情。

 罪悪感。

 彼女の父親の気持ちはまったく理解できないが、きっと、他人にはわからない様々なこと――例えば彼女自身の罪悪感、劣等感、焦り、責任感、そして父親への愛情――の積み重ねにより、捻じ曲がったものになっていまったんだろう。

 したことがありますか。

 彼女が隠そうとしたが隠せきれなかった。

 あの一瞬の沈黙の奥にある、どうしようもない感情を汲み取ってしまったから、感じてしまったから。

 そう考えた。

 もしかしたら、伊原の父親は彼女を男に育てきれなかったことを認めようとしたのかもしれない。

 その行為は父親として最低なことであり、犯罪として裁かれるべきことだと、私は思う。

 だが、それだけじゃないのかもしれない。

 小さく抱きかかえるようにして震えながら泣く彼女をじっと見ながら私はそう思った。

 小さな空間。

 私がずいぶん昔に無くしてしまった家族の空間。

 けっきょく、伊原のことを、家庭のことを理解することもできないし、しようとも思わない。

 わかったふりをする方が、ひどいことだと私は思うからだ。

 私は紙コップがだんだんとふやけていくのを感じながら残りの焼酎をすすった。

 一時間ぐらいそんな状態が続いていた。

 あの一日の喧噪が嘘のように静かな夜。

 ふと、涙目のまま伊原は顔を上げた。

 それから私の目を見て口を動かす。

「ありがとうございます」

 と、小さな声だった。

 いつのまにか彼女の体の震えは止まっている。

 私はそのことに気付いて、彼女の声にうなずいた。

「父のことはもういいです」

 薄暗くて、笑顔なのか泣いているのかわからない顔。

 言葉とは裏腹にその声に力は入っていなかった。

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