第11話「笠原先生の価値観」

 ――中途半端。

 よく言われる。

 自覚もしている。

 ――正義。

 私の正義。

 ぼんやりとしたもの。

 なんとなくしたもの。

 だから私はポリシーのない人間だと思っている。

 たぶん、まわりもそう思っている野中博三という人間。

 そんなことをふと思いながら、私は校舎の屋上で寝そべっていた。

 日なたぼっこでポカポカする昼休み。

 リラックスできる空間。

 この場所はちょっとした私の隠れ家でもある。

 屋上はコンクリートの表面にスポンジ質のクッションのような緩衝材が吹きかけられているため、寝転ぶのにちょうどいい。

 よく、芝生に寝転ぶという場面があるが、私の感覚からするとあまり良いものではない。

 首元など芝がチクチクささって気持ち悪いからだ。

 それに『刺す』虫だっている。

 そうは言ってもここが楽園なのは、この時期だけ。

 日差しが強い夏なんかになると、この表面が焼けてしまい寝そべるどころではない。

 まあ、命がけになる。

 そういうわけで今の季節だけの贅沢をたんまりと味わっていた。

 屋上の出入り口にはツバメが巣を作っていた。そして、さっきから「ごはんくれーごはんくれー」と子ツバメが必死に鳴いている。

 もちろん、ピピピピという鳴き声を私が意訳しただけだが。

 で、これがまたかわいい。

 子ツバメには悪いが、なんとなくその必死さがかわいく感じるのだ。

 ピピピピピ。

 親鳥が代わる代わるエサを運び続ける風景。

 そんななか、不意に声をかけられてしまった。

「野中さん」

 私はかっこ悪く、びっくりして体がビクンと少しだけ跳ねた。

「へえ」

 そして間抜けな声が漏れる。

 今年一番の間抜け度と言っていいほどに間が抜けた声。

「何されてるんですか?」

 ひらひらした茶髪。

 黒縁眼鏡。

 笠原先生が私の隣に座った。

「昼寝……ですかね」

 先生が笑う。

「寝ては……いませんよね」

「そりゃ、正確に言うとそうですが」

 私のカウンセリングを担当している先生。

 彼女は小さなペットボトルのお茶の蓋を開けて少しの時間、それを口につけていた。

「金沢のどんよりとした冬が続いたせいか……久々にこんなに晴れると、すごく気持ちよくて、屋上に上がって見たら野中大尉が」

 いつもよりリラックスした声だと私は思った。

「この季節はここに来てのんびり昼休みを過ごすことが楽しみなんです」

「さすが、そういうことは抜け目ないですね」

「そういうことだけです」

 私は皮肉でもなく、笑いながら言った。

 先生もつられてクスクス笑う。

「うまくコントロールされてますね」

 私は曖昧に答えた。

 なるほど、先生からするとそう見えるらしい。

 確かに私が抱えている心の中のやまいは消えることはなく、うまく付き合うしかない。

 ……一応、無意識にそういう行動をとっているといことかもしれない。

 溢れ出す前に、何かしら発散する方法をとっている。

 先生の目から見るとそういうことなのだろうか。

「金沢の天気がいいのもこの時期ぐらいですから」

 秋から冬にかけて、晴れる日は数えるぐらいしかない。

 北陸特有の、どんより重たい雲に覆われる季節。

 それだけで気分が重くなる時もある。

 私がカウンセリング以外で先生と話すのはあまりないことなので、何を話そうか逡巡していると、彼女の方から話題をふってきた。

「学校祭の準備、学生達は楽しそうですね」

 少し遠くをみている先生。

「お祭りですからね、盛り上がらないと」

 自分でも発展性のない答えだと思う。

 先生も何も言えず、ふたりは沈黙してしまった。

 少し反省。

 さて、どうしようか。

「今年も学校祭の夜は飲みますから、先生もうちの中隊のところに遊びに来て下さいよ……出店の二中名物『炭焼き鳥うどん』のあまった食材で一杯するんですが」

「ありがとうございます、去年もお邪魔したのに……またいいんですか?」

 学校祭、昼は学生達が喫茶店や演劇、お化け屋敷など、まあありふれた高校の文化祭のようなことをやる。そして、夜は他校のゲストを呼んで、海軍軍楽隊の支援ももらってダンスパーティなどもやっていた。

 で、大人たちは一部の教官に面倒みさせて、他は野外で酒盛りをすることになっている。

「大歓迎ですよ、うちの若い男たちがわんさか寄ってきますので……先生は若い衆に人気があるんですよ、いや、まあ馬鹿な奴らなんで、そこだけ気をつけて頂ければ、もちろん、粗相する奴は私が責任もってお仕置きしますが」

 春の陽気の眩しさも手伝ってか、とても好感度の高い笑顔で先生はうなずいた。

 私は話ついでにちょっと相談しよかと思った。

 伊原真のことを。

「ちょうど先生と話をしたいことがあったんです」

「え?」

 私は上半身を起こし、先生に向き合う。

 さっきまでリラックスしていた先生は、急に緊張した反応をする。

 あれ?

 何か気に障ることでもいったのだろうか……。

 それとも、勢いよく上半身を起こしたことに先生がびっくりしたとか。

 なんにしても、先生は聞く雰囲気を出しているので、私は続けて話した。

「ファザコンってどうなんでしょうか?」

「え?」

「あ、そのファザコン、でしたよね先生」

 先日カウンセリングを受けたとき、私の娘の話をしている途中、そんな話になったのだ。

「え、ええ」

 やばい、なんだかひいている。

 ここで先生にファザコンって、唐突に言うのはまずかったかもしれない。

「私の部下で、そのファザコンな女の子がいまして」

 ピピピピピ。

 子ツバメの鳴き声が響く。

「伊原少尉ですね」

 ピピピ。

「いや、その、まあ、ええ」

「噂になっていますから」

「あ」

「恋人ができて急に女の子っぽくなっているという」

 先生はさっきまでとはうって変わり、目を細め訝しげな表情で私を見ている。

「原因は野中大尉だったんですね、今確信しました」

 何で確信するんだよ。

 眼鏡の奥のジト目。

「だって、あれだけの年の差でお付き合いをするなんて、ファザコンをいい事に若い女の子を騙したとしか思えません」

 この人、何気にひどいことを平気で言ってるよ。

 一応、私のカウンセリングの担当者ですよね?

「先生、ちょっと待ってください」

「では、正当な理由でお付き合いされてるんですか?」

 正当な理由って何だよおい。

「だから、ちょっと待ってください」

「そんな節操のないひとだと思いませんでした」

「だ、か、ら」

「娘さんはどうするんですか? せっかく帰ってきたばかりなのに」

「で、す、か、ら」

「だいたい、私とデートまでしてて……」

 デートしましたっけ。

 いつものお礼でランチは奢ったことありますが。

「先生」

「私は野中大尉のことがよくわかりません」

 先生の両肩に私は手を置いた。

 そんな妄想、ありえない。そして、噂が広がれば伊原に迷惑がかかってしまう。

「聞、い、て、く、だ、さ、い」

 と一字一句に力を入れて言った。

「は、はい」

 ちょっと引いた感じの先生。

 少し、迫力を出し過ぎてしまったかもしれない。

「付き合ってません」

「……」

「ファザコンの話は伊原のことです」

「じゃ、じゃあ、お付き合い」

「伊原と、彼女の本物の父親との関係について相談があります」

 私はゆっくりと、そしてあまり大きい声にならないように力を込めて話す。

「父親の呪縛について相談したいんです」

 先生の訝しげな表情は変わらなかったが、話を聞こうとする態度は見受けられた。

「先生の大好きなお父さんが、実はとんでもない悪党だったらどうしますか?」

「え?」

「え、ってなりますか?」

「あ、もう一度お願いします」

「大好きなお父さんが、本当は悪い奴だとしたら」

 先生は、ちょっと考えるそぶり。

「ショックですね」

「今までお父さんに叱られたり、教えてもらったり、良い話を聞かせてもらったりしたことはどうなります?」

「うーん」

 風が吹いた。

 そのせいで先生の顔に髪の毛がかかってしまう。

 彼女はふわふわした茶色い髪の毛を払いのけて口を開いた。

「人間不信になるかも」

「人間不信」

 私はその言葉を噛み締めるように復唱する。

「人生の価値観、その半分は親の価値観そのものだと思うんです」

「半分」

「例えば私だと、父親の影響は大きいですし、もちろん母親もありますが、その子供ころ肝心なところは父親が叱ってくれたりしてましたから」

「もし、ですよ……もし先生の両親が、父親だけだったら、どうなりますかね」

 ピピピ。

「想像できません」

 先生は、ペットボトルを手にとり、それを見つめた。

「怖いから」

 ピピピピ。

 顔を上げて二人ともツバメの巣を見た。

 餌を咥えた親ツバメが、頭の上をせわしく飛びまわる。

 口を開ける子ツバメは春が終わる前には飛び立ち、そして、親ツバメと同じように自分たちの子ツバメに餌を与えるために飛び回るのだろう。

「怖い?」

「すべての価値観がひっくり返ってしまうのは怖いことだと思います」

 絶対的な親から与えられた規準。

 それが儚く崩れてしまった後は何が残るのだろうか。

 絶対的な価値観。

 確立されたポリシー持ったことのない私には想像できない世界。

 そんなものを持ち続け、でもぶち壊されてしまった瞬間、人はどうなってしまうんだろう。

 心地よい春の風が頬に当たる。

 でも、私は伊原のことが気になり、素直に心地いいとは思えなくなっていた。

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