第9話「そういうふうにできている」
「それが原因?」
私はグラスの中でプカプカ浮いている氷を指で転がしながらエニシに答えた。
「たぶん……ああいう姿を頭山に見られたことがショックだったんだろう」
「よくわからないんだけど」
相変わらず、ぶった切るような言い方。
「ちょっと変わった子なんだ、その、女の子の方は」
「男勝りな子」
「男のように育てられた子っていうのが近いかも」
彼女はふと、音楽が止まっていることに気付く。
会話を中断し、古い厚紙に挟まれたレコードのジャケットを取り出した。
そこそこメジャーな円盤だ。
針をゆっくり落とし、そして音楽が流れだす。
たまに『ぽつ、ぽつ』と特有の雑音がなると、私を妙に落ち着かせてくれた。
「それがなんで問題なの?」
さっきの会話の続きだろうか。
私は『それ』の意味を一瞬思い出す必要があった。
エニシはぶっきらぼうに、そして唐突に会話を再開することが多い。
「変わってきたから」
水滴が付着したグラスを指でなぞった。
「女の子の格好をしたり、化粧をしたりしているだけでしょう」
「それが、すごい変化なんだ」
最近彼女の様子がおかしい。
あの伊原が化粧をするようになった。
それだけではない。プライベートではスカートをはいているという目撃情報も聞いた。
あの伊原がである。
ひとのプライベートとかあまり首を突っ込まない私でも気になる現象だった。
あまりいい意味でなく。
こう、人のこういう変化というものは、必ず何か『事件』がある。
その事件があるかどうかもわからない。
早めに調べて、そんな問題があれば、それを解決して事故を防いでやるのが、先輩の務め。
「今までプライベートでやっていたことのを、職場でもやるようになっただけじゃないの?」
「それはない」
「どうして」
「下手なんだ」
けっして厚化粧ではないが、どことなくアンバランスなのだ。
元々顔と声とガタイがアンバランスというのもある。
まるで中学生の女の子が休みの日にしているような、そんなレベルの化粧をすることもあった。
それが、どんどんうまくなっている。
その上達速度が日進月歩だからなんとなく違和感を感じていた。
だからどうしたという表情のエニシはグラスを取り出し、清潔そうな布巾で磨き始めた。
「どうして? 博三が騒ぐ理由がさっぱりわからない」
彼女はカウンターの向こうにある椅子に腰掛けた。
「いや、上司として、部下の恋はおさえとかないとさ」
「変な会社」
「軍隊って、プライベートぶっちゃけるのが美徳だからさ」
「変」
彼女は首を傾げた。
「変かな」
私はチェイサーに口をつけて間を置いた。
「いつも思うけど、軍隊って変わってる……博三もたいがいだけど」
「……」
私はため息をついた。
原因はだいたいわかっていた。
伊原が頭山を求めているのだ。
だが、その頭山は女性に興味がないという。
「なあ、ふたりをくっつけるいい方法はないかな?」
彼女はガラス製の小皿に置かれている私の柿ピーを一本ぶんどって口に入れた。
客の食べ物をとるバーテンダーはエニシぐらいだろう。
「その男の子っぽい女の子の伊原さんととゲイの男の子の頭山くん?」
「すごい複雑な言い方だな」
「そもそも、社内恋愛はご法度じゃなかったけ?」
「そりゃあ職場でイチャイチャされたら困るが、そこは分別つくだろう」
彼女は笑う。
「それができたら、社内恋愛禁止なんて誰も言わない」
と言いながらコップを洗う。
「例えば、頭山が女の子を好きになることなんてあるんだろうか?」
チラッと彼女は見る。
彼女の瞳は静かで、そしていつもの困ったダメ人間を相手にするような色だった。
瞳がため息をついているような。
「博三は男の人と恋をして、愛して、家庭を作りたい?」
「それは……できないな」
「同じ」
「同じ?」
「彼の脳はあなたとは逆に作られてるの、元々そういうふうにできているんだから、変えることができない……あなたはできそう?」
私はウイスキーを一口含ませ、ゆっくりと口に広がる複雑に絡み合ったい甘い香りを感じた。そして、エニシを見上げる。
「わからない」
曖昧な答え。
でも、他に言いようがなかった。
彼女も同性愛者の一人だ。
彼女が発した『元々そういうふうにできている』という言葉が脳内で何度か繰り返される。
「元々そういうふうにできている」
今度は鼓膜を通じて、聞こえた。
「そう、元々」
私は柿ピーをつまみ、ぼりぼり嚙んでおしぼりで唇をぬぐった。
「エニシも元々なんだよな」
「そう」
「男を愛することはない」
「パートナーにすることはない」
そうか、と私はウイスキーを飲み干す。
角度を付け過ぎて、グラスの中の氷が鼻に当たる。それが妙に冷たく感じた。
私はこみ上げてくるゾワゾワしたものを強く感じていた。そして、肩が強張る。
よくない感情だ。
早く
いや、消毒か。
こういう時、ヨウドチンキといってもいい、そんな強烈なピート臭を嗅ぎたくなる。
このゾワゾワした感情を和らげてくれると思ったからだ。だから、私は「アイラの一番臭い奴」と彼女に注文した。
「水はお好み」
彼女は手際良く、グラスに琥珀色のそれを注ぎ、新しいチェイサーを横に置いた。
「癖になるやつね」
注いだ後のボトルをゆっくり回して置いた。
グラスを口につけると、唇に当たる刺激と共に、鼻、そして喉から刺激的な香りが広がる。
薬臭さ。
癖になる臭さ。
「強烈だな」
私が感想を言いながらエニシを見た。そして安堵する。
喉の奥に広がるピート臭のお陰で、出てきそうになったあいつはいつのまにか消えていたから。
ふう。
私はなんとなく安堵のため息をついていた。
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