第8話「逃げるな」
「なぜ自分の指導を止めたんですか?」
将校室に戻って扉を開けた瞬間、私をとがめる声が響いた。
伊原は真っ直ぐに私を見据えている。
それにしてもいつも真っ直ぐな瞳だな、と私は思う。そして、情けないことがその迫力に少しのけぞってしまった。
彼女は私より七、八センチほど背が高いため、自ずと見下ろされるような態勢になってしまった。
まったくうちの若い奴らは……と思う。
ことごとく生意気であった。
通常、士官学校の期別が十数年先輩の私に対して、そういう口を聞くことも憚れるというのに……。
でも、まあしょうがない。
それもわかる気がする。
ダメダメ万年大尉の私なんぞ、先輩としての威厳もクソがないものだから。
若く才気溢れる彼女達にしてみれば、なんだこいつは……という存在だろう。
教官というだけで、学生の理想像にならなければならないと真面目に考え、自分を律しているような若人たちだ。
ついつい自然体で物事に接してしまう私を彼女達は理解できないだろう。
年の功、経験値、それだけは多いから彼女達の気持ちを私は理解できるが。
「伊原少尉」
立ち話するようなことではない。
そう思って、私は自分の椅子に座った。
決してあの態勢から逃げたわけではない。
座ってどっしり構えることは年長者の余裕と思って欲しい。
「……指導ってのはさ、殴っていいときと殴っちゃダメな時があるんだよ」
私は足を組もうとするのを止めた。
ついつい癖でやってしまいそうになる。
最近のことだった。
それをやめようと思ったのは。
新聞の端っこにあるような記事。
そこに胡散臭そうな禿頭の医者の写真といっしょに『足を組むとか腕を組む仕草というものは無意識に相手の考えを拒絶する深層心理の表れです』という記事を読んだせい。
ついでに、笠原先生にそれを聞いたところ『カウンセラーはそういう仕草をしないようにしてるんですよ』という答えも手伝った。
そういうことがあって、足や腕を組むのを我慢している。
まあ、そんなことはどうでもいいとして、伊原は私のデスクの横に立ったまま、訝しげな表情で私を見下ろしていた。
「ショック療法をやっても、君が嫌われるだけで、あの間抜けな三人の心に響かないということだよ」
「そうは思いません」
彼女は声をやや低めにしてそう言った。そして腕を組む。
「自分は、卑怯な行いをした三人に罰を与えるべきだと思います」
「罰ね……」
「小隊長は……教官は、学生に嫌われるのが仕事ですから……副長が心配するようなことはありません」
やれやれ。
どうも、話が噛み合わない。
「私は、伊原が嫌われようがどうなろうが知ったことじゃない、ただ、君のやり方では、罰を与えても……体罰を与えても何の効果もないと言っているだけだ」
「自分だったら、卑怯な行いをしてしまったら殴ってもらって、改心したい思います」
「そうだな、君だったらそうかもしれない」
「あの三人もです」
「あの三人は君じゃない」
少し語尾が強くなってしまった。
ちょっとだけ感情的になりそうになった自分を止める。
「……」
私は、ため息を飲み込む。
柄にもなく興奮しているのは私なのかもしれない。
脇の下に汗がでるのを感じた。
「あのな、単純に言うと、ショック療法が効くのは出来事がまだアツアツの間だけなんだ」
「熱い間……」
「そうだ、悪いことやっちまったその時間と場所でしか効果がない」
彼女は何かを言おうとして飲み込んだようだ。
私は言葉を続ける。
「あの三人がやっちまったのは、一昨日だろう? すでに時間が経っている……そこで、いくら君が彼らを咎めようと殴ろうと何もならないんだよ」
「ですが、彼らは悪いことをしました、罰を与えなければなりません」
「この学校で、罰は、体罰も含めてだけど、それはなんのために与える?」
「……それは」
私は深く椅子に寄りかかる。
「それは、彼らを更生させるためです」
「そうだ、でもな、悪いことやっちゃった子たちは、悪いことと判らないでやっちゃったとか、悪いことだと思ったけどまあいいか……ぐらいでやってるんだよ、んーっと、うまく言えないが」
「だかこそ
私は背筋を伸ばす。
「あのな、叩かれて彼らに何が残ると思う?」
「自分たちの行いに対する罪悪感と過去に対する反省です」
彼女は私から一切目を離さずに言った。
正義。
それが、一言一言に込められている。
「例えば、今、私がさっきの行動が間違っていると言ってだ……そういう理由で伊原をここで殴ったとして……君に何が残る?」
「……それは」
彼女は初めて目を少しそらした、しかし、負けじと私を見据えなおした。
私は自然とため息が漏れた。
「更生させることが目的としたら、手段は『反省させること』なんだ……反省させるためには、羞恥とか公共の心とかに目覚める、まあ簡単に言えば、叱られたことを納得させることなんだよ、それをするためにはいろいろあるんだけど」
私は一息ついて続ける。
「殴るってのは、そういう手段の先っちょにある、入り口で振り向かせる……興味を引かせる手段のひとつに過ぎないんだ……その後の指導ってのが真剣になればなるほど面倒くさくてしょうがない」
彼女の瞳が少し揺らぐ。
「殴るのはいいとして、その後、何か彼らを納得させるような、そういう指導の仕方まで考えていたか?」
大丈夫、この子は頭がいい。
私は言葉を続けた。
「逃げるな、自分の指導力不足から逃げるな」
「……」
彼女が唇を少しだけ噛みしめた。
「十分なんだ、将校室の目の前、それも怖い怖い伊原少尉呼ばれただけで、十分さきっちょの興味を引くことはできていたんだ……そこでどかーんってびっくりさせると、そりゃ、逃げちゃうよ……心が逃げちゃったら、どんなに良いこと言っても届かない……やった感だけはあると思うけど」
「……」
沈黙が続く。
私は自分のデスクに放置していた泥水コーヒーを口につけ、冷めたらさらにまずくなることを確認した。
まずい。
いや、この空気、気まずい。
この沈黙は辛すぎる。
私はさあっと熱が冷めていた。
だいたい、偉そうなことを説教する自分が辛い。
痛いおっさんだよ、おい。
うわあ。
気持ち悪い。
なんで、こんなことで熱くなってるんだ……。
そんな自分が急に恥ずかしくなる。
私は大げさに咳払いをして、そういう感情をぜんぶぶっ飛ばそうと試みた。
「あー、あれだ……偉そうな事をいったけど、なし、今の話はなし、自分で言っててなんだか恥ずかしくなってきたから、なし……忘れてくれ、頼む、もう無理」
彼女の表情からはさっきまでの気難しい感じはなくなっていた。
やや充血した瞳のままだが、いつも私に向けることが多い表情――呆れ顔――になっている。
「あのな、私はね、女の子がこう、あれだ、殴ったりとかさ、そういうのを見るのは嫌なの、ほら、娘いるでしょ……いるというか転がり込んできたというか、まあそんなことはどうでもいいんだけど、あー……そういうものなの、それに、伊原もけっこうかわいいと思うし、おじさん的にはほんと、嫌だよね、バカヤローってかわいい女の子がひとを殴る姿ってのは……耐え忍べないのよ、むーりー」
そうだ。
耐えれない。
私のように、殴って殴って、そして……。
血と硝煙が立ち込める世界で犯した私の罪。
この子にそんな思いをさせたくない。
「あの三人は私がうまーく言い聞かせたから、あと一中隊の真田中尉に叱った後のケアもお願いしたし、そう、もうこの話おしまい……ああ、そうだ、中隊長に呼ばれていたのをすっかり忘れれた、そいじゃ、行ってくるから、うん」
叱ったあとは必ずケアを入れる。
癒し系女性教官に今頃慰めてもらっているだろう。
あの三人には私の体験を生々しく語ったため、恐怖心を与えすぎた感がある。
私は逃げるに部屋の出入り口に向かう。そしてドアノブに手をかけようとした。
不意に扉が開いた。
私はつかむ物を掴めず前のめりになるようにバランスを崩す。
おっさんの沽券。
ケンケンをして踏ん張る。
「何やってんですか? 副長」
頭山少尉が扉の向こうに立っていた。
「ん? 伊原も」
頭山と伊原は士官学校同期だ。
はたから見ると男友達のように仲がいい。
一時期『この二人はできてる』と思っていた。その後、頭山本人からカミングアウトを受け……彼がゲイという話を聞いて、それは勘違いだとわかった。
ただ、伊原はどうなのだろう……。
「伊原、涙目? おい、どうした?」
「……いや、これは、何も」
じろりと私を睨む頭山。
もう一度言う。
私は大先輩、十期以上先輩。しかも鉄の上下関係がある士官学校の先輩である。
ついでに大尉。
こいつら少尉のペーペー将校である。
それなのに、そういう目をするなんて、非常識極まりない。
「何やってんですか! 副長っ!」
同じセリフが二回。
ただし最初はあきれた声、そして今のこれは怒りが込められた声だ。
「何もやってない……うん、何もやってない、そう、な、うん」
同期の絆は深い。
責め立てるように、頭山が迫ってくる。
私は大先輩として堂々と話をしようとするが、彼の迫力に気負いしてしどろもどろに言葉をつなげることしかできなかった。
助けてくれという目を伊原に向けるが、彼女は黙って俯いたままだ。
心なしかさっきまでの高揚感とは別に顔が上気していた。
好きな男に弱い姿を見られるなんて、彼女の男気が許さないのだろうか。
若いからしょうがないが、もう少しそういう機微な感情というものを頭山にも感じとってもらいたいものだ。
デリカシーだよ、若人。
そういうものがあれば、誰も傷つかなくて済むんだが。
まあ、こういう気遣いはおっさんにならなければ、歳をとらなければできないことなのかもしれない。
そんな彼女の思いにニブチンの頭山は気づくことなく、止せば良いのに余計なことを言ってしまった。
「ま、まさか、伊原……副長と朝っぱらから」
なんでそーなるんだ、と私が口を開くより前に、頭山からゴキッという鈍い音が聞こえた。
私が音の方を見たとき、膝を前に大きく突き出した伊原とくの字に仰け反る頭山が跳んでいた。
彼女は跳び膝蹴りの態勢から上手く着地をして、無言のまま扉の向こうに消えていく。
頭山は膝蹴りが直撃したおでこを赤くしたまま仰向けに倒れていた。
私はいったい何が起こったのか理解するので時間がかかってしまい、しばらくその場に立ち尽くしていた。
……好きな男にそういう風に思われたら、そりゃショックだろう。
私はため息をついた。
頭山も忍ぶ恋だが、伊原も同期という男友達のような相手に恋をしている。
両方とも忍ぶ恋なのかもしれない。
青春だなあと思う。
若いっていいなあ。
いや、まじで。
上司としては、かわいい部下二人がくっついてくれれば幸せこの上ないものなのだが、いかんせん、頭山がアレなのだ。
世の中上手くいかない。
そんな気持ちでため息をついていると、国営放送の朝のニュースから帝国陸軍軍人の不祥事が流れてきた。
『昨日、九州に駐屯する第七師団は同所属の陸軍少将が複数の部下の女性にセクハラを行ったとして、昨日付けで停職十日の懲戒処分にしたと発表しました』
国営放送のニュース。
ニュースキャスターの感情が一切入らない声が部屋の中に響いた。
『なお、その陸軍少将は即日依願退職をした模様です』
ほんの数秒のニュース。
頭山と目が合い、私は彼に言った。
「まったく将軍にもなって、セクハラで退職だなんて……格好悪いったらありゃしないなあ」
「朝っぱらから、後輩にセクハラする大尉もいかがなものかと思いますが」
「……頭山、私が伊原にそんなことをする勇気があると思うか?」
「……確かに、ないですね」
生意気な後輩たち。
私は十歳以上年下の部下されも善導できない。
このニュースの将軍なみに格好悪いもんだと心の奥の奴がボソッとつぶやくのが聞こえた。
やれやれ。
そんなことはわかっている。
だから、がんばっていないだろう。
――あんたは、そうやって逃げているだけだ。
いつもの様にその言葉が反響する。そして、それが頭痛に変わっていった。
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