第2章「お父さん、取り乱す」
第7話「おとこのこ」
女性教官特有のオアシス的癒しはまったくない。
隣の中隊にいるおっとり系女性将校である真田中尉とは対照的に大きな声と男勝りの言葉でビシバシ指導する。
それも容赦なく。
今の一年生は桜が咲くと同時にこの学校に入隊してきたばかりである。
そんな一年生の間でも、桜が散るころには恐れられる存在になっていた。
慣れない間に数度厳しい指導を受けた一年生たち。
もちろんそれだけでなく、上級生達が彼女の恐ろしさを誇張して伝えているせいもある。
昨年、彼女に強烈な指導受けた一部の学生がいる。
ことさら恨みをもった彼らは伊原に対する密かな意趣返しをしているつもりなのかもしれない。
それにしても……。
最近あまりかんばしくない噂を聞いたことがある。
どうも伊原に学生達があだ名をつけているようだ。
私に対する『ダメ軍人』『ロートルおじさん』『窓際軍人』……まあ、そんなものはかわいらしいし、間違ってはいない。
だが、彼女に対するあだ名は違和感を感じていた。
『男の子』
おとこのこ。
そんなあだ名。
確かに、伊原は化粧っ気もなくベリーショートのぼさぼさ頭が目立つ。
とにかく短髪で一八〇センチに近いぐらいの背の高さがあり、そこらへんの男性並みに肩幅が広い。
逆に、あのテレビアニメに出てきそうな独特のかわいらしい声、大きな目とぷっくりしたアヒル的な唇のある顔が、その体格や言動を強調していた。
けっして男の子とは思わない。
アンバランスさはある。
それにしても……。
あまりに単純。
学生の想像力の無さ。
この学校の教官のひとりとして心配になるレベルのあだ名。
男勝りでかつ年上の女性教官に『男の子』とは。
子はいらない。
ああ見えても大人の女性なのだ、彼女は。
□■■□
職場の朝。
自慢じゃないが私は学習能力があまりない。
その事実をたった今実感していた。
何度も繰り返してしまう失敗、過ち。
実感、いや痛感と言っていいだろう。
二度とやるまいと心に誓い、自分の犯した過ちの産物――クソ不味いコーヒー――をすすっていた。
安くて大きなビンに入ったインスタントコーヒーの粉を、スプーンを使わずそのままコップに入れた。そして、もっさりとその粉がカップの中に入ってしまったのだ。
少し湿気てしまったものを戻すのもあれなので、カップにお湯を注ぐ。
わかっていたことだが、それはコーヒーの粉を食べているような味になってしまった。
液体がサラサラではなく、どことなく川底のヘドロのような感じになっているのも、不味さを手伝っている。
苦すぎて、かつ、舌触りが最悪な液体。
しかしながら、私は貧乏性も手伝ってコーヒーを捨てるのを憚った。だから「戒め戒め」と自分に言い聞かせながら飲んでいる。
そうやって飲めば、何か人生の足しになる……かもしれない、そう無理やり言い聞かせながら。
そんな悲しい職場の朝を迎えていると、いつものように廊下の方から、伊原少尉の厳しく尖った声が響いてきた。
まだ、朝の七時をまわってないのにご苦労さまだなぁ、そう思いながら、泥のようなコーヒーを口に含む。
泥コーヒーのむせ返るような濃い香り。廊下からは怒気が強烈に含まれた激しい罵声。
それがミックスしたせいだろうか、なんとなくぞわぞわした気分になってしまった。
……まずいなあ。
私はコーヒーを飲むのをやめて将校室の入り口に向かった。
伊原がどうも感情的になりすぎている。
ああ、女の子だもんなあ。
あの日かなあ。
と、つぶやきそうになったが、セクハラセクハラと戒めてドアノブに手をかけ廊下に出ようとする。しかし、私なんぞが行ったところで何もできないので、ここで様子を伺うことにした。
余り聞き耳立てるのは良いことではないが、廊下の状況が気になってしょうがないから伊原ゴメンねといいながら声が聞こえるところまで扉に顔を近づける。
指導している……というよりも、彼女は怒っていた。
どうも理由は、まぬけな二年の男子三人組がお痛をしてことに起因するようだ。
内容はその三人がお隣の一中隊にいる生意気な学生を襲ったところを不意に現れたロシアからの留学生に見られて、まずいと思ったのか逃げ出したらしい。
残念なことにロシアからの留学生はちゃっかりとそのことを伊原に言ったようだ。
ちなみに、この三人。
一対一じゃ返り討ちにあったから、棒っ子使って殴ったりしたらしい。
まあ、なんとも情けない二年生。
そりゃ伊原が怒るのも仕方がない。
「お前らは卑怯者だ!」
彼女はどんどんヒートアップしていた。
怒声に対し、どーせ不服そうな顔をしているんだろう。
しょうがない、教官に反抗することがかっこいいと思っているタイプなんかもいる。そして、我々教官はけっしてそんな挑発に乗ってはいけない。
「性根叩き直すっ! 歯を食いしばれ」
あーあ。
挑発に乗ってるし。
若いって面倒臭い。
私は扉を開ける。
無駄にその扉につま先をひっかけコケそうな姿をしながら。
声はできるだけいつものように気が抜けた感じに。
「どーしたー、二年生になったってのに、お前ら相変わらずクソ間抜けな顔を並べて」
間抜けなのはあんただ。
そういう視線。
私はするりするりと彼女とお間抜け三人組の間に入っていく。
彼女はその振り上げそうになった拳をしぶしぶ下げていた。
まあ、これでいい。
彼女はそうとう興奮しているようだ。いつものアヒル口は硬く結ばれ、頬が赤く上気し、やや涙目になっている。
私はお間抜けくんたちの肩を抱く。そうしながら両際の子たちの首下の皮を思い切りつまんで、そして捻った。
彼らは痛がりながら団子の様に固まった。
「おっちゃんがお前たちのアホ間抜けなお話をよーく聞いてやるからちょっと行こうかねえ」
睨み付ける彼女の視線を背中に感じながら進んでいく。
まったく。
伊原は卑怯な行為――そういった男気のない学生――に対して激しい指導をする。
頭に血が上って怒りをぶつける。
正義感が強すぎるのだ。
まあしかし、教官という「強者」が学生という「弱者」に手を挙げることはよくない。
それは、三対一で卑怯なことをするこの間抜けたちと、一対三でも勝ってしまう伊原がやっていることが同じことになってしまう。
教官ってのはさ、怒ったらだめなんだよ。
理解ができていない人間に対する怒りなんて、無駄な行為なんだ。
相手の心の奥深くには届かない、そんな指導は意味がない。
まあ、その指導を私がうまくできている訳じゃないが。
私はつねる指に緩急つけながら、彼らを指導室へと誘導する。「痛てて、痛てて」と呻く彼らに「やかましいわ」と一喝。
つい笑ってしまう。
まあ、こいつら言っても治らないと思うが、放置するのは簡単。
面倒くさいが、少しでもいい方に持っていくため、指導はしないといけない。
指導室から逃げようとする彼ら。
その頭上をスパコンと平手打ち。
涙目になる間抜けくんたちを私は「男の子、男の子」と励ましながら膝蹴りをして、部屋に押し込んで行った。
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