第5話「お父さんは汚いもの」

 仕事も終わり家路につく。

 二階のアパートにある我が家の入り口に鍵を差込み回す。

 玄関を開けた瞬間、違和感が私を襲った。

 電気がついている。

 靴が多い。

 少しその場で立ち尽くすが、すぐに頭は納得した。

 そうだ。

 三和。

 娘がいるんだ。

 私は明るい気持ちになって靴を脱いだが、手持ちの買い物袋には一人分の食材しか入っていないことに気づき戸惑う。

 だいたい、十六歳の女の子がどれぐらい食事を取るかもわからないのだ。

 改めて買い物にいっていいかもしれない。

 玄関を抜けると制服にエプロン姿の娘がいた。 

「料理?」

 私は別に質問したわけではない。

 記憶に残る六歳の三和とは違う。

 鼻腔をくすぐる台所からただよってきた匂い、それは間違いなく何かの炒め物だと思った。

 三和が料理をしている。

 なんだかその事実に感情が溢れてきてしまい、私は突っ立ってしまった。

 ――……なに感動しているんだ、あんたは何もやってないじゃないか。

 冷たい声がする。

 いつもその声で暗い気持ちの底の方にもっていかれるが、今日は大丈夫だった。

 立ち尽くしたまま、私は一瞬、くしゃっと顔がなり、目頭が熱くなる。

 娘が振り返った。

「た、ただいま」

 私は少し涙声になってしまった。

「何泣いてんの」

 娘はちょっと後ずさり私を見る。

 キモイ。

 そう目が訴えていた。

「花粉だ、んにゃろ」

 私はくるっと後ろを向き、テーブルのティッシュを抜き取り、盛大に鼻をかんだ。

「汚い、野中さん」

「しょうがないだろう、出るもんは出るんだ」

 ティッシュを丸めてゴミ箱に投げたがもちろん失敗して、すごすごと拾いに行く。

「汚い、落としたとこの床拭いて」

「……人を汚物みたいに」

「棚の下のアルコールスプレー使って、あと手も洗って」

 お前は私のママかよ。

 二十三歳年下の母親なんて勘弁してくれ。しかし、手を洗わない理由もないので素直に手を洗い、テーブルに座った。

 私はシャワーしか浴びないがお風呂にお湯が溜まっていた。

 なんだかんだ言ってご飯やお風呂こんなに家事ができるようになってるなんて……あの、六歳のかわいらしい面影はどこにもなくなっているが、内面はあの頃のまま……何かと私に抱きついてきていた三和のままなのだ。

 制服の上着を脱いで、ネクタイを緩めシャツのボタンを外した。

「風呂、ありがとうな」

 私は独り言のようにいった。

 面と向かって言うのは何かと恥ずかしい。

「は?」

 は?

 座ったまま、振り向いたエプロン姿の娘を見上げると、顔が少し赤く上気していた。

「勘違いしないで」

「勘違い」

「お風呂は私が入る」

「どうぞどうぞ」

「お湯には触れないで」

「ええ、ええ?」

「汚い」

「お湯に触れないとお風呂に入れないよ」

 この娘、昔からそうだが、まったく意味のわからないことを言うことがある。

「野中さんはシャワー」

「いや、だって湯船に浸かりたいよ」

「お湯が汚くなる」

「ならさ、三和が入った後でいいよ」

「……」

 顔を赤くして信じられないという顔で私を睨む。

「ヘンタイ」

「そうだな、ヘンタイだな……なに! ヘンタイ?」

 私はあんぐりと口を開け、目をパチパチさせている。

 いや、そういう発想はなかった。なるほど、そうか、自分がお風呂に入ったところに人が入るのを嫌がるのか。

 いやー日々勉強だなあ。

 に、してもこの子はこんなに潔癖症で大丈夫なんだろうか。

 心配になってきた。

「あと、料理は別に野中さんの作ったわけじゃないから」

 そう来たか。

 しかしここは年の功、突っ張るだけが脳ではないので、懐柔策と行ってみよう。

「なあ、三和」

「……」

「父親としては、娘の成長を確かめたいんだ、その料理をだな」

「いや」

「ちょっとだけ味見を」

「いや」

「ちょっとだけ、ちょっとだけ」

「いや」

 ……冷静に今の言動を振り返る。

 ただのセクハラおっさんに成り下がった気もしたので、今日はあきらめることにした。

 気づいたことがある。

 まず、洗面所から台所まで、タオルが二つあって、「ミワ」という張り紙があるのだ。

 脱衣所の前には、私の使っていた洗濯籠の他に蓋付のボックス。

 「開けるな」という表示があったので、もちろん開けてみたら警報音がなって娘が飛んできてサミングをしてきた。

 あと一歩で失明するぐらいのえぐい目つぶし。

 また、トイレにはあの公共の場にあるあの『女』マークが貼られていた。

 残念なぐらい工作程度の低い手作りのものだ。

 それが隙間風でヒラヒラと揺れている様が私に哀愁を覚えさせた。さすがにトイレのない生活はきついので、その後の交渉で小だけはさせてもらえることになった。

 もちろん座りションまで確約させられて。

 ……もともと三和の母親のお陰で、その癖がついてしまっているのだが。

 なにせ、トイレ掃除が楽になる。

 それでも、娘は『近くのコンビニまで行って』とか『大きい方は職場で済まして』と言ってきた。

「トイレ掃除は三和がやってくれるんだ」

 と言うと、少し考えて。

「それは父親の仕事」

 と逃げた。

「あのさ、トイレに生理用品とか置くでしょ、お父さん、それも整頓しちゃうよ」

 と言ったら「ヘンタイ!」と吐き捨てるような言い方をされた。

 うちに転がり込んで二日目。

 こんなところがあいつそっくりなものだからため息が出てしまう。

 でもこうやってこの家で会話をするのはエニシが来た日ぐらいなので、悪くないと思う。

 高校卒業する前ぐらいは手料理を食べさせてもらおう。

 そうだ、その前に私が料理を作って三和に食べてもらおう。

 いろいろ考えていると、なかなかやるべきことがあって、なんだか楽しく感じてきた。

 レンジでもう一度暖めなおしたコンビニ弁当を開ける。

 帰ってきてあーだこーだと娘と悶着をしていたので、せっかく温めてきた弁当も冷めていた。

 口の中に、グリンピースを入れようとした時に、お風呂場からインナー姿の娘がドタドタと足音を響かせながらやってきた。

 風呂に入る直前なんだろう。

 左右に二本あった髪の毛は頭の上にまとめられている。

「これは何?」

 ひらひらと女性ものの下着を娘がつまんでいる。

「そんな大人の下着に興味があるのか」

 私はそれがなんだか思いつかなかったので、はぐらかすようなことを言った。

「そんなんじゃ」

 娘は上気した顔で、すこし強めに言ったあと、「なんでこんなのがここに」とぼそぼそと呟いた。

 あ、そうだ。そうだ。

「昨日すれ違った女の人いただろう」

「……」

「あの人の」

「……野中さんの恋人?」

 私はその言葉が面白くて笑った。

 自分が馬鹿にされたと思ったのだろう、娘はすごく不機嫌な目で私を睨んでいる。

「友達」

「……」

「うちで朝まで飲んだりするような友達なんだよ、だから、着替えも少し置いているんだ」

 うまく表現できないが、そんなものだ。

「汚い」

 娘は小さな声で言った。

「あのな、三和」

 私は立ち上がる。

「父親に汚いとかいうのはいいが、どうか私の大切な友人にそういう表現をするのをやめてほしい」

 真顔で言ってしまった。

 私はテーブルに座り、娘を見る。

 娘は私の言葉を受けた瞬間だけは目を逸らしたがすぐに、まっすぐ私を見ている。

「……」

「友達なんだ……」

「……」

 私はため息をつく。

 これ以上、説明しようがない。しかし、そろそろ沈黙に耐え切れず、この場を逃げたくなってきた。

 もう、一旦間合いを切ろう。

「なあ、そんな薄着のままだと、体冷やして風引くぞ」

 娘は自分の格好に気づいたのか慌てて体を隠し、そして手に持っている例の下着をどうするか、ぶんぶん振り、結局テーブル上のコンビニ弁当の横にそれを置いて、逃げるように風呂場に行った。

 さて、どうしたものか。

 私は弁当のグリンピースをつまみ口に入れた後、弁当と下着を見比べため息をついた。

 確かにこんなものを娘に見せる親父というのは不潔なのかもしれない。

 しかも、言い訳の仕方が卑怯だった。

 まったく。

 ――お前は本当にだめ人間で、三和の父親なんてできない。

 ああ、そうかもしれない。

 いまさら。

 資格がない。

 欠陥品の人間。

 またか。

 私は唇をさする。こういう時の処方箋。

 いいじゃないか。

 ――いいじゃないか。

 ――あんたは十年も父親やっていないんだから、うまくできないのはしょうがないことじゃないのか。

 ――今から、ゆっくりとやっていけばいいじゃないか……。

 非難の声が肯定に変わっていく。

 自責の念でどんどんと深いところに落ち込んでいく心にブレーキを踏んだ。

 ふう。

 また、あんたをどんどん落としていくところだった。

「まだ、あんたは生きている」

 まじないの一種みたいな独り言。

 自分がぶつぶついう声と、テレビが騒ぐロシア帝国の国境がなんだソ連との緊張が云々、そんな興味のないニュースの音、そして遠くで聞こえる三和が風呂に入る音が混ざる。

 じっとりと脇の下を濡らした冷汗が気持ち悪いから早くシャワーを浴びたいと感じた。

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