第3話「娘と父親」

父娘オヤコで仲良くしてね」

 エニシは少々混乱している私の脇をすり抜けるようにして去っていった。

「えらいでかくなったな」

 父親として、十年ぶりに会う娘に言った言葉がそれだった。

 私の記憶の中の三和は六歳……年長さんの頃だ。

 しょうがない。

 さすがに「君、誰?」とは言わないものの、大人びたその姿から、当時の面影はほとんどなくなっている。

 なんとなく母親に似ていたから自然に受け入れていた。

「……」

 娘は無言で重そうな旅行カバンを抱え部屋の中に入っていった。

 私は玄関先でぽつんと残り、さっき渡された元妻からの手紙を見る。

『少しは父親らしいことをさせてあげる 瓜生絵里』

 瓜生絵里うりゅうえり

 十年前は野中絵里だったひと。

 私は彼女の癖のある筆跡を見て苦笑した。

 父親を続けようとしたのに、全面的に拒否したのは君じゃないか。

 そんな言葉が出そうになったが飲み込んだ。

 間違っていたのが私であることを頭ではわかっている。

 なんにしても、年度末だというのにラブレターが入ってたり、後輩が実はゲイだったとカミングアウトしたり……そして、でっかくなった娘が転がりこんできたりと忙しいようだ。

 頭をかりかりと掻いて、玄関からリビングに向かって歩き出し、その途中のゴミ箱にさっきの手紙を投げ入れた。

 私は、まあどうすればいいかもわからず、ソファーに腰掛けて、家の中を点検するようにあちこちいったりきたりする娘を眺める。

「準備ができていない」

 娘が口を開いた。

 あの頃はまわりの子とは違って、言葉が上手く出ないぶん、でっかい声で意味不明な言葉をキャーキャー言っていたが、これはまったく別物。

 ハスキーでぼそぼそした言い方だった。

 一言で言うと「根暗な」感じがする

「なぜ? 質問、答えは」

 ソファーに深く座る私を娘は見下ろした。

 どうも私に「なぜ準備ができていないのか」と聞いているようだ。

 突然来たにもかかわらず、こっちが準備もなにもできるはずがない。

「メール送ったのに」

「メール?」

 私は立ち上がり、ノートPCを持ってきた。そして、またどっしりとソファーに腰掛ける。

 メールを確認した。

「んなもんないぞ」

 娘はソファーの後ろから頭越しにPC画面を覗き込む。

 無言で私のマウスを分捕り、それを操作をした。

「これ」

 それはゴミ箱の中、しかも迷惑メールの印のついたものだった。

 件名『娘より』……中身は『高校に入学するので下宿します』と怪しいURL。

 娘はカチカチとクリックをしてファイルをダウンロードした。

 PDFファイルが開かれると、手書きの文書がでてきた。

 『準備するもの。六畳以上の部屋、ベット、冷暖房』……等々。

 私はため息をつく。

 やはり母娘というのは似るものだ。

「スパムと間違えて捨てた」

「野中さん、使えない」

 十六歳の娘に使えないといわれる三十九歳。

 父親である。

「あのな、父親にそういうことは言わない」

「……」

「だいたい、私は君を下宿させるとは言っていない」

「……」

 娘は少し考えた風にして、おもむろにブレザーを剥ぎ取る。

 シャツも脱ぎ捨て、下着姿になった。

 いきなりのことで私は固まった。そして、それが思ったよりも女性の体つきになっていたため、思わず目を背けた。

 娘の口が開く。

「玄関から飛び出て悲鳴を上げながら走る」

 ひどい言葉だ。

「ちょ……」

「スタート十秒前」

「ま、ま」

「八」

「悪かった、お父さんが悪かった」

「五」

「ぜひ、下宿してください、すぐにお部屋をご準備いたします」

「四」

「日当たりのよい部屋です、朝の目覚めサイコー」

「三」

「ベットも買ってあげます、よし、今からネットで選ぼう、うん」

 娘はシャツを拾い上げいそいそと着る。

 私は唖然とその姿を見ていた。そして、あの無邪気な六歳の彼女と重ねようとしたが無理だった。

 娘は私がハンガーにかけていたジャンバーをソファに置き、自分のブレザーをかける。

 しばらくして蔑むような目をして口を開いた。

「スケベ」

「……」

「見た」

「……くくっ」

「変態」

「……ははっ……あはは」

 押さえきれない衝動、私はソファーに深くもたれながら腹を抱えて笑い出した。

 不思議と理由がわからないが。

 なんでこんなことが面白いのだろうか。

 あの三和が父親に「スケベ」という。

 思い出した。

 ああ、そうだあの時だ。お風呂入ったときに、幼稚園かで覚えたその「スケベ」という言葉を、娘は笑い転げながら連呼していた。

 あの頃は意味もわからずに使っていたと思う。

 それに対して私は笑うこともできず、いつもの調子でお風呂に入ったのに「おとうさんのスケベ、スケベ」と言われ、娘に対して父親として何か最悪なことをしてしまったのではないかと、わけもわからず凹んだものだ。

 さっきの娘の発言は幼稚園の頃と声も違うし、言葉の調子も違う。

 しかし同じ「スケベ」という言葉だった。

 それが妙におかしく感じた。

 それだけのことなんだが。

「すまんすまん」

 私は目に涙を溜めながら謝った。

 むすっとした娘は妙に年齢相応の顔になったと思う。

「ちょっと、部屋は準備するから、一時間ほどここで待っててくれ、お茶とかは台所にあるから勝手に使って」

 さて、どこを娘の部屋にしようか……物置にしているところは日当たりも悪く、換気がよくない。

 一番いい場所はさっきまでエニシがいた寝室だが、さすがにそれを今日娘に渡すわけにはいけない。

 けっきょく、室内干し用の部屋を渡すことに決めた。

 北陸の冬を考えると必要になるのだが、またその時に対策をきめればいい。なんせ、冬までにはあと春夏秋がある。

 ふと振り返ると足音もなく娘が立っていた。

 じーっと私を見ている。

 緊張しているのか、年頃の女の子にしては口数が少ないと感じる。

「この部屋でいいか?」

 私は室内干し用部屋の扉を開く。

 中では乾燥機がブンブン音を立てて、物干し台と私の下着やらタオル等がかけられていた。

 種類別に並べているので、すごく整頓されているように見える。昨日はエニシに甘えたから、彼女の性格そのままきっちりと洗濯物が干されている。

「とりあえず寝れるように、片付けるから」

 娘は何も言わず頭をコクンと振った。

 オッケーということなんだろう。




 寝室も片付けないといけないだろうなと思いながら洗濯物を片付けた頃だ。

 リビングの方でガタンという音がした。

 私がやれやれと思いながら足を向けると、やはり娘が赤い顔をして棚の引き出しの前に突っ立っていた。

「こ、こ、これ」

 足元に落ちているゴムの箱と写真立て……たぶん、三和の写真だ。

「ああ、懐かしいだろう、ちょっと若い私と、三和の写真だ」

 ブンブンと赤い顔を振る。

 私は少し笑った。

 やっぱり違うほうらしい。

「コンドーム、避妊具の一種だよ」

 平然と言ってみる。

「な、なんで」

「避妊はしないと」

「不潔」

 ……不潔ときたか。

「避妊は大事だよ」

「そういうことじゃ……」

 赤く上気した顔が面白い。

 無愛想で無表情な顔だと思っていたが、なかなか面白い顔をする。

「冗ー談」

 私は、さっきエニシに言われた調子で娘に言ってみた。

 写真立てとゴムの箱を拾い上げ「いやー、来るとわかってたらいろいろ隠すんだけど」とつぶやいた。

 そもそも、若気のいたりで避妊をしなかったこそ三和が存在しているんだと思えば――まあ、避妊は大事という言葉も、そういう面では間違いのようにも聞こえる。

 それがどうも面白い。

 私は堪えきれず、咳をしてごまかした。

 娘は寝室の扉に目をやりズカズカと歩き出す。

 私はぼんやりとそんな姿を見ていたが、はっとして娘を追った。

 娘が「まさか」「あの女の人と」とぼそぼそ言っているからだ。

 ゾゾっとする恐怖心。

「いや、ちょっと、まって」

 娘が寝室の扉に手をかけたところで、止めようとその肩に手を置いた。

 その時、部屋の中をくるっとミキサーをかけたように回る。

 次の瞬間、まぶしく感じて目を開くと天井の照明を見上げていた。

 ボーっとして、照明から目をそらし、たぶん娘のいる方向に目を移す。

 まったく、あの母親は娘に何を仕込んでいるんだ。

 柔術か合気道か知らないがそういうもの達人だった。

 忍びの家系だとかなんとか。

 それでも三十九歳の父親が十六歳の娘に投げ飛ばされる事実は、どうも恥ずかしいものだった。

 これじゃ、夢にまで見た父親伝家の宝刀「愛のばかもんチョップ」が使えないじゃないか。

 悔しいので私は寝転んだまま娘に向かって行った。

「投げるのはいいが、ズボンの時にするか、もう少し見られてもいいパンツを履いたほうがいいぞ」

 慌てたそぶりを見せたのでスカートを抑えるのかと思っていたが、それよりも先に私の顔面めがけて足の裏が打ち下ろされた。

 恐怖心で心臓がばくばくいっているさ中、例の気の抜けた呼び鈴が鳴り「荷物でーす」という声が遠くで聞こえてきた。

 娘は「荷物」と言って玄関に向かっていった。

 いやはや、助かったようだ。

 宅配屋さんにグッジョブとつぶやきながら私は上半身を起こした。

 それにしても年頃の娘はわからん。

 おもむろに脱いで下着姿になるが、それを指摘すると恥ずかしがる。

 ゴム見ただけで真っ赤になる。

 私が擦れたのか、娘が生娘きむすめちゃんすぎるのかよくわからない。

 ただ、あまりからかいすぎると命に問題があるということはよくわかった。

 うん。

 気をつけよう。

 けっこう、怖かった。

 娘が早足で戻ってきて、立ち上がろうとする私を見下ろした。

 その眼差しは父親に対してのそれとしては世間一般常識ではありえないものだった。

「ヘンタイ」

 それだけ言い残すと、娘はそれ以降一切口を聞いてくれなかくなった。

 やれやれ。

 お父さん。

 昔みたいにそんな呼ばれ方をするまでにはあと何万年かかるのだろうか。

 野中さんと言われる日々はまだまだ長そうだ。

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