第2話「女のカン」

 洗物を終えて再びソファーで向き合う私とエニシ。

 すでに彼女は身支度を整えていたようだ。

 バーでもそうだが、何一つ無駄な動きがないから気づいたら別のことをやっている。

「もう出る?」

 いつものように私は聞いた。

「そろそろお店の準備しなくちゃ」

「勤労ご苦労様です」

「軍人さんは気楽でいいわね」

 彼女が言うととおり、私の稼業は気楽なものだ。

 軍人。

 この国の年号が昭和から正化に変わるころに士官学校に入った。

 二年生の頃、東の共和国の奇襲侵攻を受けてあの戦争に参加した。

 私は大学の代わりに士官学校に入ったぐらいの気持ちだった。つまり、さほど覚悟もないままに前線に駆り出され、鉄と血が充満する殺し合いの世界に入った。

 二十年前。

 そう、十九歳の春はひどい記憶しかない。

 士官学校の同期はほとんど死んだ。

 あの年の五月、始まってすぐのころは水戸の後詰予備連隊に配置されていた。まだ、正規の軍人が多く、私はひよっこ扱いの兵隊として、言われたとおりに動くだけだった。

 だが六月にはその連隊も北関東の前線を抜かれ壊滅した。

 私はたまたま生き残って別の部隊で分隊長をすることになった。もう正規の軍人がだいぶ減って「決号要員」なんて格好がいい名前のついた、素人志願兵と現役生き残りを寄せ集めた新編部隊が各地で編制された頃だ。

 わたしはそんな中、ちょっとした英雄になってしまった。

 『夏の小競り合い』とか言われている前線が停滞し続けた時期。

 私は戦死した小隊長の代わりに十数人を指揮して大戦果をあげた。

 戦場では死んだ上司の代わりにその部下が活躍するというのはよくある話なのだが、なぜかそのことは大きく持ち上げられた。

 本当に英雄かというと、そんなことはない。

 馬鹿な話だが本隊とはぐれた私は頭が真っ白になって、文字通り右往左往して彷徨っているうちに、後方の砲兵陣地にぶち当たり、火砲六門を撃破した。

 十九歳の士官学校の学生というのが上に受けたらしい。

 戦意高揚のために、神輿に乗せられたのだろう。

 そんな風に英雄となってしまったわけだから、辞めることもできず戦後は士官学校に復学した。

 いや、PTSD――心的外傷後ストレス障害――の症状がひどくなり、外で働いても食っていける自信がなかったというのが正直なところだ。

 そのうち私は帝国陸軍の中で『英雄』だったのが『英雄くずれ』になり、あっという間に、そのことさえも忘れられた。

 不眠は続いていた。

 それでも若気のいたり。

 当時付き合っていた元妻を妊娠させてしまって、学校を卒業と同時に結婚した。

 決定的なものが来たのは二十六歳の頃だ。

 そのころ所属した部隊で、静岡旅行に行った時のことだ。まぐろの水揚げを見たとき唐突にフラッシュバックを起こし昏倒した。

 それが始まり。

 それから症状は悪化して、鬱状態になり、入院、休職を繰り返した。そんな中、離婚して妻と一人娘とも離ればなれになってしまった。

 自立心の高い女性だった。

 実家に帰り家業を継ぐ必要がある。だから、食べていけるから援助も必要ない。

 そう言う彼女に対し、情けなく、そしてどうしようもなく、気遣いを感謝しつつ別れを受け入れることにした。

 実際、元妻も娘に与える影響を考えていたのかもしれない。

 もちろん大前提として私に愛想を尽かして。

 そんなこともあったが、あの症状もなんとか六年ぐらい前から一応は落ち着いてきた。

 なかなか軍隊というものは優しいもので、いわゆる『不要決定』になった私でも雇ってくれている。

 問題軍人の集まると言われる陸軍少年学校、中でも将校の墓場といわれる副中隊長兼全般教官なんて、よくわからない職。

 生き残ってわたしみたいになっていない士官学校の同期は中佐になっていたが、私は定期かつ自動であがる大尉で止まり、のんびりさせてもらっていた。

 士官学校で生き残った同期はあと二、三年で大佐になる者もいる。まして、未だに十年以上大尉をやって、副中隊長などわけのわからん職についている者はいない。

 十年前はその頃の自分と未来の自分に絶望していたが、今はこういうのも悪くないと思う。

 不要決定の軍人でも、のんびりやれているんだから。

 哀れみと馬鹿にされる目には慣れてしまった。

 今でもたまに起こるフラッシュバック。

 まぐろの様に並べられた仲間の包まれた袋。

 当たり前だが誰一人生きていない。

 死の匂いが漂う空間。

 袋にくるんで並べられた仲間だった者達を目の前にして、立ち尽くす私。

 そういう光景だ。

 迫りくる装軌音と地揺れ。

 果敢に立ち上がって対戦車ロケットを打ち込もうとした部下が飛び散る光景。

 もう何度もあの時の光景を思い出していた。

 あの声も蘇る。

 未だに耳に残っていて、調子が悪いときは昼も夜も私に話しかけてくる。

 顔は見えない。

 ビニールの質感のあるその見た目と声。

 ――そこに並べた袋の中身が誰か確認してくれ。こっちはまだマシだが、写真じゃ判別できないぐらいになってる。知った人間じゃないとわからんだろう。早く片付けないと、どんどん次の便も入ってくるんだ。

 すると、私は言われたまま袋を一個一個開けて、氏名を書いていく。

 認識票もぶっとんで、だれがだれだかわからない状況。ちぎれた服、残った何かを探し出して自分の部下だった人間の名前を思い出していく。

 ありえないことだが、そのうちの一個が袋を開けた瞬間しゃべりだしたのを覚えている。

 ――なんだ、あんた生きていたのか。

 と。

 そっけない。

 しゃべるはずもない遺体が。

 声を発する口もつぶれたあの顔のようなものが。

 あの遺体安置所の光景、そしてビニールの質感のある声としゃべるはずのないモノの声が聞こえる。

 私はその都度、ひどい罪悪感と倦怠感に襲われ、息をするのもやめたくなることが今でもたまにある。




「どうなの、最近は」

 エニシは赤い縁の眼鏡を指で上げた。

 その下にある表情は大人の女性に戻っていた。

「カウンセリングの先生には『だいぶいい』と言われている」

「ふーん……そういえば、昨日の夜、途中でやめた話なかった?」

「……なんだっけ」

「痴呆症?」

「ああ、あれだ、私の後輩に自分がゲイだって告白された」

「本当にモテ期?」

「違うよ、エニシ、それは偏見、私の後輩に失礼だ」

「そうね、それは謝る」

 彼女は目を閉じて少し頭を下げた。

「まあ奴もそんな反応を気にしてか、私には気がありませんって、前置きがあった」

 士官学校出身の若手将校で頭山少尉という奴だ。

 なかなか素っ気無くとっつきにくい性格だが、私には何かと懐いている。

「どんな性格?」

「『副長にはお世話になっているので、自分のことは嘘をつけません』からって、まあ、真面目すぎる子なんだよなあ」

 副長とは私の役職である副中隊長の通称。

「これからどう接するの?」

 彼女は立て続けに質問することがある。

 お店にいる時は、客商売やっている手前こういうことはないんだが、二人きりになると納得するまで聞いてくる。

「まあ、自然に」

「答えが適当」

「そりゃ、適当だよ……別にたまたま好きな相手が男なだけだろう、それで騒いでもしょうがない、だから今までどおり、自然」

 ため息が聞こえる。続けて「だから、私もここに来てるんだけどね」と彼女は静かに呟いていた。

 彼女はすっと立ち上がった。

「それじゃ、戻る」

 彼女はくるっと踵を返すと玄関に向かう。

 それと同時だった、アパートの気の抜けた呼び鈴が鳴ったのは。

 へいへい、と私は言いながら、出て行こうとしていた彼女の間をすり抜けドアに向かう。

 男一人暮らし、覗き窓から外は確認しない。

 新聞か、回覧板か。

 ガバッと開けた瞬間、私の口も馬鹿みたいにガバッと開いてしまった。

 我ながら、間の抜けた顔だったと思う。

 目の前の状況が理解できなかったからだ。

 そういう顔になるのは仕方がないことだと思う。

「予定通り、来た」

 大きな旅行カバンにお嬢様風のブレザーを着た女の子がぶっきらぼうに言う。そして、私に封書を突きつけた。

 真っ黒な瞳。

 黒い髪。

 左右にまとめて結ばれている、特徴的な髪型。

 たまにしか見かけないが、ツインなんとかというやつだろう。

「お母さんから野中さんに」

 手紙を受け取り、困った顔で振り向くと、エニシは満面の笑みを浮かべた。そして、彼女は私に一言囁いた。

「女のカンを甘く見ないで」

 そう、女が男を脅すのに最適な言葉を。

 あのカンは当たった、エニシは勝ち誇って言いたかったようだ。

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