39歳バツイチ子持ちだが、まわりの女に煽られる。

崎ちよ

第1章「お父さん、翻弄さる」

第1話「エニシとの朝」

 私は少し混乱していた。

 発作ではない。

 いつものフラッシュバックに引き続く。

 あの虚脱感。

 壊れるまで揺さぶられ、そして壊れたものさえも痛みつけるあの発作ではない。

 ただ、どことなく落ち着くことができない。

 そういう類のものだ。

 もちろん壊れるものはない。

 ちょっと心を乱す。

 はたからみれば、なんてこともない話。

 いや。

 なんてこともない話じゃない。

 ふんわりと生きている自分をぶん殴る。

 そんな衝撃はあった。 

 三つ。

 三つの事が同時に起こった。

 年度の変わり目。

 馬鹿みたいに忙しい時期。

 妙に私を乱す。

 そんな三つの出来事が。



□■■□



「寝顔がまぬけ」

 彼女は優しい声でひどいことを言う。

「エニシ……かわいい……って素直に…………いったら?」

 エニシ。

 本名ではないと思う。

 こんな風に、私の家に来ては世話を焼く友人。

 ……友人。

 彼女は私のことをあくまで友人と呼ぶ。

 だから私もそう表現する。

 さっき私の抗議を聞き流した……いや、ガン無視した彼女はもういない。

 寝ぼけたまま彼女とのやりとりをしていたせいか、とっくに窓から入り込み日差しは強くなっていた。

 私はベットの中でごそごそと下着をつけ、起き上がる。

 なんとなく頭をポリポリかいてみた。

 間が悪い。

 彼女は私が毛布の中でまどろんでいた間にシャワーを浴びたようだ。

 脱ぎ散らかしていた彼女の下着はもうなかった。

 彼女は素に戻っているはずだ。

 バーテンダーのときのようなやや濃い目のメークではなく、ほぼすっぴん。

 そんな彼女はとても幼く見える。

 昨晩、抱き合う前とはまったく違う雰囲気になっているはずだ。

 これは私の密かな楽しみでもあった。

 きっとそんな彼女を知っているのは彼女のパートナーか私ぐらいなのだから。

 まだ暖房が必要なぐらい涼しげな春先の季節。

 ベットのシーツはまだ少しだけ湿っている。

 それを少しでも乾燥させようとして、二人分の温もりがあった毛布を勢いよくひっくり返した。

 バサリ。

 派手に音が鳴る。

 ちょっと彼女の気を引くために大げさにしてしまった。

 この音で振り向いてくれるかと思ったが、いつものように彼女は無視した。

 いや、気付いてすらいない。

 キッチンで冷蔵庫を開ける音がする。

 なんとなく寂しい。

 自分中心で物事が進まないことにいじける子供のような私がいた。

 しょうがないので、私は壁の向こうにいる彼女に話しかけることにした。

「どうせ、人生がおまぬけだよ」

 拗ねた声で言ってみようと思った。

 だが、壁の向こうにいる相手に言った言葉。

 どうしても大きくなってしまった。だから、なんとなく吐き捨てるような言葉を出していた。

 反応がない。

 ただのエニシのようだ。

 彼女にとって、私の言葉は唐突なものに聞こえたのかもしれない。

 ベットを抜ける時に行った言葉。

 私にとってはさっきでも、彼女にとってはだいぶ前のことだった。

「冷蔵庫の中身とか片付けたほうがいいわ、あと、洗面所も定期的に掃除したほうがいい」

 冷蔵庫を開いたり閉じたりする音。

 蛇口から水が流れる音。そして、何かを絞る音。

 私は少しむすっとして「はーい、ママン」と大声で答えた。

 パンツいっちょ。

 ベットの上であぐらをかいたまま。

 ふと、ゴムひもの上に薄っすらのった腹の脂肪を気にする。

 腹筋もフンと力を入れないと割れない。

 もちろん、頭上の明かりで影を強調するようにして。

 ママンなんて言う歳でもない。

「殴ろうか?」

 ぬっと寝室の扉から顔を覗かせるエニシ。

 やっと私の言葉に反応してくれたという喜びも束の間、そんなひどい言葉に嬉しさは吹きとんだ。 

「ぐーはやめてくれ」

「冗談」

 彼女がくるりと回転する。

 真っ黒なおかっぱ頭がふわりと上がった。

 彼女はキッチンでコーヒーでも入れているのだろうか……微かに彼女がまとっていた豆の香りが漂ってきた。

「一家にひとり、エニシがいれば助かるなあ」

「ものみたいに言わないで」

 白く細い腕。

 夜とは違い化粧っ気の無い顔。そしていつもと同じ、赤い縁の眼鏡越しの瞳が私を見据えた。

「君のパートナーは幸せだよな」

「家事は彼女がするの」

 彼女はそっけなく答えた。

 パートナーは女性だ。

 彼女が言うには「愛する人」。

 パートナーの話はあまり聞いていない。

 彼女よりも一回りは年上の女性。

 レズビアンというのだろうか。ただ彼女の場合は男性に対する性欲もある、まあ、それがなければ今のこの時間も存在しない。

 バイセクシュアル。

 私は同性愛に関してはあまり詳しくない。

 彼女と付き合いが始まったころはその方面を詳しく調べようとも思った。だが、なんだか友人である彼女にそういうことをすると失礼だと思ったので調べていない。

 彼女のパートナーは女性。そして、私の大切な友人である彼女。

 それだけでいいと思っている。

 我々の肉体関係は自然に始まっていた。

 私たちがその関係をどう表現するか困った時、二人で話し合たことがある。

 「さびしい」私。

 「ほっとけない」彼女。

 そんなふたりが合わさった、微妙な時間とバランス、うまく重なった二人が『たまたまここにいるもの』、そんなふうに認識することにしている。

 考えれば考えるほど、一般の常識から離れていることに気付いてしまうからかもしれない。

 真剣に考えない、そんな薄情さも否定はしない。

 そんな我々はリビングにいって彼女がいれてくれたコーヒーを前に、テーブルに向かい合っていた。

 この季節に薄い肌着だと少し寒い。

 ファンヒーターの設定温度はさっき上げたばかりだ。

 いつもよりも騒音をたてて働いているが、部屋が暖まるにはもう少し時間がかかりそうだ。

「変なスパムメールが来たんだ」

 私はそう言ってから口につけたコーヒーの甘い香りの余韻を楽しむ。

 スーパーにあるなんてこともないドリップ用の豆。

 悪くない。

「どんな?」

「言葉で言うのは難しいんだけど『娘より』って題名で、中身は『高校に入学するので下宿します』って」

博三ひろみの娘さんってちょうど今年高校入学……よね?」

「よく覚えてるな」

「酔ったらよく娘さんの話しをしてくるから」

 それはなんとなく気恥ずかしいことだ。

「確か、ミワちゃん……どんな女の子?」

 彼女は少し笑いを含んで聞いてきた。

「……もう十年以上会ってない、会ってもわからないかもしれない」

 寂しい事実。

 彼女が音も立てずにコーヒーカップの中身を飲み込み、そしてカップを置いた。

「本物ならいいのに」

 私は笑った。

「それはない。『詳しいことはhttp://www――』ってリンクはってるもんだから」

 彼女はその答えを聞いて笑う。

 不思議なことに笑った彼女は幼くみえる。

 私は少しだけ見とれてしまう。

「博三みたいにミワちゃんミワちゃん言ってる人ならホイホイってクリックしちゃいそうだけど」

「さすがにそこまで馬鹿じゃないよ……って、そんなに、酔っ払ったら親ばか発言していたか? それが本当なら、未練たらたらの情けない救いようのない男だよ……そこまで私も落ちぶれていない」

「寝言で「ミワー」なんてむにゃむにゃ言ってたけど」

「……あまりいい趣味じゃないよ、人の寝言覚えてるのは」

「冗ー談」

 私は立ち上がり、空になったコーヒーを流し台まで持っていく。

 彼女は作る。

 私はそれを片付ける。

 たまに彼女が私の自宅に来た時に自然とできたルール。

 私たちは話を続ける。

 蛇口の水の音がうるさいので自ずと会話が大きな声になった。

「そういや、ラブレターもらった」

 唐突に私が言って、彼女は大きな声で笑い出した。

「そこまで、うけることないだろう」

「だって」

 たまに彼女は爆笑する。

 爆笑するときは声を上げながら足をばたばたする。

 大人びた雰囲気とは真逆。

「だって、博三、いくつよ?」

「三十九」

「ラブレター?」

「出したわけじゃない」

「ラブレターをもらってって」

「うん、だから冷やかし……冷やかし以外ありえない」

 彼女は笑い終えて、腹筋痛いなんてつぶやいた。

「内容は?」

「ずっと好きでした、これからも好きでいさせてください」

 青春だなあといいながら声を殺して笑う。

「なにそれ、しのぶ恋?」

「まあ、付き合って欲しいとか、学生同士がやるような、そういう雰囲気はない」

「どうして冷やかし?」

「あの職場の同僚で、こんなおっさん相手する女性はいない」

 私は自虐的に笑った。

 今さら恋愛なんかする気力なんてない。

「わかった、それは本物だ」

 彼女はフフっと笑った。

「なんでそうなる」

「カン」

「……あ、そ」

 彼女は立ち上がって近づいてきた。そして、台所に立って布巾でカップを拭いている私の背中にもたれる。

「博三ってそんなにもてたっけ?」

 耳元でいたずらっぽく彼女は言った。

「離婚してからはそんな記憶はない」

「モテ期到来?」

 私は「ははっ」と笑って食器乾燥用のケースにカップを置いた。

「そんな面倒なものはいらない、もう枯れてるよ、恋愛に力を使う余力もない、そんなおっさんだ」

 彼女は股間に手を伸ばし、それをつついて笑う。

「ほんと、しょんぼり」

 不思議とその言葉や笑いは下品ではなかった。

 そんな自然な感じの彼女。

 心地よい時間。

 悪くない。

 そう思うとなんだか切なく感じてしまった。

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