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 誰もいなくなった教室に大河と陸斗は向かい合っていた。大河は外を眺める。まだ、太陽は頂点に達したばかりだというのにやることがなくなった。いや、探せばあるのだろうけど、今は何も考えたくなかった。

 

 校内に残っていた生徒たちがぽつぽつと下校していく姿を眺める。誰もが一人で帰ろうとしている。NISEMONOの噂が学校中に広まってしまったのかもしれない。


「それでどうする?」

 陸斗は投げやりに訊いた。


「陸斗さあ……NISEMONOは本当にいると思う?」

 質問を質問で返す。陸斗の顔は嫌いなものを食べているように歪んだ。それがどんな感情を指しているのかわからない。恐怖心なのか、不安なのか、それとももっと別の感情なのか。


「わからない。多分、いたと思うけど……いや、やっぱりいなかったかも。朝は確かに色々焦ってNISEMONOだって騒いだけど、今、冷静に考えるとすごく曖昧な感じ。だから、律子先生にいないよって言われたときドキッとしたんだ。まるで心の中を見透かされているようで気持ち悪かった」

 陸斗は勢いよくまくし立て、息を吐いた。


 大河は頬杖をついて陸斗を見つめる。不思議とさっきみたいな焦燥感も不安も感じない。おそらく、さっきは伝染していたのだろう。三十人近くの人間が、それぞれに放つ不安が電線のようにクラス中に流れ、共有していた。今、その電線が断ち切られ、不安も焦燥感も嘘のように消え去っている。


「陸斗、今日部活は?」

 大河は何かを思い出したように訊いた。


「はあ? 今日は休みに決まってんだろう! こんな状況でやれるわけないだろ」


「そっか」

「そんで、たいちゃんはNISEMONOいると思うの?」


「いないと思う。というか、それを今から調べてみないか。このままじゃあ僕もちょっと気持ち悪いし。それに、部活なければ暇でしょ?」


「確かに暇だけど、調べるなんてできるのかよ。直接、会いにいくみたいなのは嫌だからな」

 直接、会いにいくか。そんな素晴しい手があったとは、思いつかなかった。でも、そんな簡単に会えるのなら調べる必要もないのだが。


 すっかり大河は好奇心に駆られていた。元々、都市伝説は大河の大好物だ。今日はイレギュラーなことが続いたから、好奇心よりも不安のほうが勝っていた。


「都市伝説NISEMONOの全貌を暴いた高校生ってなんかかっこよくない?」

 大河はにやりと笑う。


「確かに! かっけ!」

 すごく単純だ。高校生という生き物は勢いで動く。欲が素直に身体に現れ、好奇心は溢れかえる。おそらく、今このときにしかこんな生き方はできない。


「それに、都市伝説は僕たち自身がよくわかっている。こういう噂を広げる年齢層の中心は中・高校生だ。だから、情報はいやでもここにいれば集まる」


「おお、そうだな」

 逃げているばかりいられない。こちらが先手を打たなければ、相手の思い通りだ。今朝のことだって、根拠がなく逃げた。ただ、不気味だという都市伝説特有の曖昧さで決めつけた。


 自分たちに追い風が吹いている。大河は内側からせり上がってくる高揚感を胸に抱き、空を見上げえた。


 まだ、天気はもってくれそうだ。



 エンターを押すタンという音が響く。


「とりあえず、NISEMONOを洗い直してみよ」


「オッケー」


 大河と陸斗は町営の図書館にいた。小さな街ながら、書籍数は数十万もあり、パソコンも完備している。


 二人並んで、パソコンの画面に食いつく。大河は画面をスクロールさせ、咲くという文字の上にカーソルを置いた。どこかでちらつく美咲の横顔。また、何かがせり上がってくる。大河はその感情を追い払うように頭を振った。


「NISEMONOって色々なのあるんだな。たとえば、入れ替わるのは女性だけとか、一種のマインドコントロールだとか、どれも本当か怪しそうだけど」

 陸斗は画面を見つめながら、そう言った。大河も陸斗の画面を覗き込む。


 本当だ、色々なものがある。いつも掲示板からしか都市伝説の情報を得ていなかったから、NISEMONOのまとめサイトにこれほどの情報が書いてあるとは知らなかった。


 NISEMONOが急激に広まったのは半年前で、噂の始まりはどうやら三年前。それに最初は入れ替わるのではなく、融合するという形だったらしい。そうなると、どれもこれも怪しくなる。そもそも、こんな曖昧なものを事実だと受け止める方がどうかしている。


 今回の一連の出来事は、人間の仕業だと考えたほうが良さそうだ。となると、NISEMONOの噂になぞらえて、犯行は行われていくはず。いや、まて――。

「他の誰かになりすまそうとするとき、陸斗ならどうする?」

 陸斗は不思議そうに大河を見つめた。そして、ゆっくりと口を開く。


「うーん……。顔はあまり見せないように隠して、雰囲気だけその人になりきるみたいな感じとかかな……。あっ、でも、今だったらアンドロイドとかでその人そっくりに作れたりしないかな?」


「流石にそれは無理だろうな。いくら技術が進化しているとはいえ、不自然な部分が絶対に生まれる」


 大河は息を吐く。この都市伝説を解明する上で、一番のネックはどうやって他人になりすますかということだ。昨日の綾子は大河たちがよく知っている綾子だった。違和感すら感じないほど、馴染んでいた。NISEMONOは日常に何の疑いも持たれず、溶け込んでいた。このまま野放しにしていたら、喉元まですぐ歩み寄ってくるに違いない。


「そういえば、昨日さ、綾子声変じゃなかった?」

 陸斗の言葉に心臓の鼓動が跳ね上がった。昨日の綾子に違和感を感じた人間が今目の前にいる。


「どこら辺が? 僕にはいつも通りの木村さんだったけど」

 大河は努めて冷静に訊いた。


「いや、なんだろうな。もうちょっといつもなら、腹から声出てる感じなんだよな。うーん、やっぱ気のせいかな……あーモヤモヤして気持ちわるいなほんと」


「陸斗、じゃあ今朝のフードのやつを見たときはどうだった?」

 髪をくしゃくしゃにしていた手が止まり、陸斗はこちらを見る。


「今、なんでその話が出てくるの?」


「その察知する能力があれば、NISEMONOも暴けるかもなと思って」


「いや、今朝のは本当になんとなくだったし、黒いフードがNISEMONOの特徴だって知っていたからというのが本音。だから、察知する能力なんてないよ」

 陸斗は鼻を鳴らした。半ば開き直っているようにも感じる。


 とりあえず、今は可能性を広げられるようにエサをばら撒いておきたい。


「そっか。でも、なんか変だなって思ったら真っ先に僕に言って。なんかの手がかりになるかもしれないから」


「はいよ」

 陸斗はパソコンの画面を見ながら、そう言った。

 

 その様子を見て、大河はパソコンに視線を戻し、画面をスクロールさせていく。これだけ情報がありふれているのに目ぼしい情報は一つもなさそうだ。諦めてシャットダウンをしようとしたときだった。

 

 『黒沢美咲がNISEMONOだ』と書いたブログに思わず手が止まった。暑くもないのに汗が流れる。大河は恐る恐るクリックした。


 『黒沢美咲がNISEMONOだ』と書いてあるタイトルからスクロールする。内容もタイトルと同様に『黒沢美咲がNISEMONOだ』と書いてあった。大河はさらに画面をスクロールさせる。このブログへのコメントがずらりと並んでいた。彼女を特定するようなコメントや高みの見物をするように誹謗中傷するコメント。

 

 全てに目を通し、大河は一つの疑念が湧いた。これは実際に行って確かめるしかない。


 隣にいる陸斗に気づかれていないか確認して、大河は静かにパソコンをシャットダウンする。


「陸斗ごめん、ちょっと用事が入った。NISEMONO調べはまた今度やろう」

 大河はスマホをちらつかせながら、図書館を飛び出した。



 大河は美咲の家の前にいた。明らかに周囲の住宅とは違う雰囲気を放っている彼女の家はいかにも社長の娘だと感じさせる。


 ここに来るのは、二度目だ。一回目は確か、NISEMONOについて教えてくれたときだ。言葉だけでは足りないと彼女が言い出し、半ば強引に家に招かれた。


 そこで人生初めて執事という職業を目の当たりにした。自分たちとは住んでいる世界が天と地ほど違っていて、新鮮だった。だからといって、華やかしいわけでもなかった。彼女の家はどこか生活感がなく整然としていて息苦しいものだった。


 呼び鈴を鳴らす。すぐに返事はあった。この声は美咲の執事だ。大河はできるだけ手短に要件を言った。すると、すぐに扉が開いた。


「すみません、あいにく美咲様に先客がおりまして、少々こちらの客間で待って頂けるでしょうか」

 執事は申し訳なさそうに客間のドアを開けた。大河は吸い込まれるようにそのドアの中へと入る。


「では、準備が整うまでごゆっくりしていて下さい」

 高級レストランに紛れ込んでしまったのかと思うほど、丁寧なおもてなしだった。大河が頭を下げると、執事も頭を下げ、ドアは閉まった。

 

 大河は息を吐く。やはり、こういう堅苦しい空気はどうも息が詰まる。二度目だから多少の抗体があるかと思ったけど、どうやら回数の問題ではなさそうだ。

 

 それにしても、美咲に会いに来る客とは誰だろうか。考えられるのは、萌絵や奈江たちだけれども、美咲がその二人を容易く家に上げるとは考えられない。だとしたら、あのブログを見て大河と同様に誘われた誰かだろうか。

 

 大河はいかにも高級そうなソファに腰を掛ける。すんと体重ぶん沈む感覚が脳内に電流を流した。あれ――この感覚どこかで。妙な違和感と心地よいソファの感覚が混ざり合い、大河の眉間のしわをより濃くさせた。

 


 しばらく経ってから、どこかの部屋のドアが開く音と話し声が聞こえてきた。一つは美咲の声で、もう一つの声も――聞き覚えのある声だった。少しずつ足音と共に近づいてくる。大河はドアに近づき、聞き耳を立てた。

「じゃあ、ちょっとでも来れそうだったら学校にくるのよ。カウセリングルームでいつでも待っているから」


「はい、わかりました。行けそうになったら行ってみます」

 間違えなくあの優しい声は下山律子のものだった。それにしても、なぜ律子はこのタイミングで美咲の元を訪れたのだろうか。今朝の様子からは、ここに来る感じではなかった。


 彼女たちが通り過ぎるまで、大河は息を潜めた。今、彼女たちと鉢合わせになるのはまずい。何事もなく玄関のドアが開く音が聞こえて、安堵する。


 陸斗を連れてこなくて正解だった。もし、陸斗がここにいたらこうやって上手くやり過ごせなかっただろう。それに――陸斗は、いや、やめておこう。

 

 客間のドアが勢いよく開く。大河はその様子にただただ呆気にとられた。ドアの向こう側に黒いフードを被った美咲が静かに佇んでいた。


「それできみもNISEMONO探しかい?」

 美咲は鋭い視線を向け、言った。


 やはり、そうだったか。大河の中に湧いていた疑念が確信へと変わっていく。そして、きみもと意味深に放たれた言葉に気づいたのはその後すぐだった。


「ちょっとまって、きみもということは、律子さんも?」


「そういうことになるね。建前は不登校の生徒の様子を見に来た良い先生。でも、本当はNISEMONOについて色々と質問してくる厄介者って感じ」

 美咲は珍しく疲れている様子だった。どんなときでも、どんな相手でも屈しない強靭な精神の持ち主の彼女ですら、律子は厄介だったらしい。


「あの女鋭くて嫌い。きみも気を付けたほうがいいよ。私たちが思っている以上に厄介よ。さて、立ち話もなんだから部屋行こうか」

 そう言うと美咲はやんわりと動き始める。大河はその後ろについていく。彼女の背中はとても小さかった。


 美咲の部屋は生活感にありふれていた。ものがごった返しているから、部屋もそんなに広く感じない。やっと、浮ついた心が落ち着く。

 

 美咲はいつも自分が座っているだろうパソコンの前に座る。大河はものを少しどけて、空いたスペースに腰を下ろす。


「それできみは私に何のようかしら?」

 美咲は不敵に笑う。もう、ここに来た理由すらお見通しだと言っているような表情だ。


「あのブログ黒沢さんが自分でやったんでしょ? 前ここに来た時に見たブログと同じだし、名前を特定した書き込みが、このタイミングで出てくるのは都合が良すぎるからね」


「あの女もあの女だけど、君も君で大概だよ。それだけできみがここに来るとは思わない。ここに来た目的を早く言ってちょうだい」


「もちろん、NISEMONOの正体が目的だ。何か知っている情報があるなら教えて欲しい」


「じゃあ、良いことを教えてあげる。おそらく、このあとNISEMONOは佐々木奈江と加賀萌絵を殺す。私が書き込みを行った時点で、それは確定事項になった」


「どういうこと?」


「全く、きみは本当にあの有名な犯罪心理学者の息子かね」

 美咲は呆れたように言う。


「犯罪者の心理としては、自分以外の対象に疑いの目を向けたいはず。それに最初に殺されたのが綾子となれば、もうわかるでしょう?」

 大河は嫌な予感が頭の中を駆け巡った。もちろん、美咲がNISEMONOではないという確証はない。でも、現時点ではその可能性が低い。このブログの件を含めると、さらに可能性は低くなる。


 彼女は間違えなくNISEMONOに揺さぶりをかけようとしている。それも、自分自身を犠牲にしても良いとまで思っていそうだ。


 大河はゆっくり口を開く。


「黒沢さんそれはやめたほうがいい。間違えなく傷つくことになる」

 その言葉に美咲の目が鋭くなった。


「今更って感じだね。私は小さい頃からそんなことなれっこだわ。きみもそのことはよく知っているでしょう?」


 大河は何も言えなかった。無言という状態が彼女の言ったことへの肯定をしてしまっている。


 大河のよく知っている美咲は、いじめられる体質の持ち主だった。ただ、彼女の勇ましい姿がその体質をいつも隠してしまう。だから、いじめられている現場を見かけても強い彼女なら大丈夫だろうと、決めつけては自分自身に矛先が向かないように切り捨てた。

 

 今どんな言葉をかけても、言い訳に聞こえてしまう。大河は口を結んだ。


「もし、誰かになれるとしたら、きみは誰になりたい?」

 美咲は窓の外を見つめていた。釣られて外を見ると、鉛色の雲が押さえ込んでいた雨粒が地面に落ちてきていた。暗かった部屋がさらに暗くなる。


「僕は……誰にもなりたくない……」

 振り絞った声は情けなかった。自分のみられたくないものを晒されていくような羞恥心が溢れる。胸が痛いほど締め付けられた。


「私はね……きみになってみたい」

 美咲の口調はさっきと変わらず、言葉に感情がのっていない無機質なものだった。それだけに放たれた言葉の意味を汲み取れなかった。どうして、彼女はそんなことを言ったのだろうか。


 雨音だけが部屋を支配する。大河は足元に視線を落としたまま上げられなかった。今上げてしまったら、きっと塞き止めている何かが溢れ出してしまう。


「ふふっ。やっぱり、きみは真面目だね。深い意味はないよ」

 美咲は笑っていた。それを見た大河も笑う。もちろん、上手くなんて笑えない。そのとき少しだけ、自分とは違う誰かになって彼女の前にいたかった。桐生大河ではない、誰かとして。


「じゃあ、きみが知りたがっているNISEMONOについてやろうか」

 彼女は黒いフードの淵を掴み、こちらを見た。記憶の奥深くまで刻まれている何度も見た彼女の姿だった。大河は彼女の目をしっかりと見て、頷いた。


 その瞬間、今朝のあいつが脳裏をかすめた。


 美咲が口を開こうとしたところを大河は遮る。



 ――ちょっと、確認したいことが一つある。

 

 その言葉に美咲は微笑んだ。どんなことでも受け入れるという姿勢が伝わってくる。

 

 ――黒沢さん、今朝はどこにいたか教えてもらえる?

 

 美咲はまたフードの淵を右手で掴む。顔を隠すようにフードを手前に引っ張った。


 ――答えて。

 

 大河は目を細める。美咲の奥深くを見つめるように。

 

 美咲は息を吐く。


 ――私は、ずっと家にいたわよ。執事たちに訊けばわかると思うわ。

 

 大河は前のめりになっていた体勢を元に戻す。


 ――そう、ならいいんだ。ありがとう。


 すごく怖い。実際、今こうやって話している相手がNISEMONOだという可能性はある。だから、念のため確認しておかなければならなかった。彼女がNISEMONOではないということを。

 

 おそらく、これは美咲も同じようなことを思っているだろう。

 

 常に、NISEMONOの背中を追いかけるためには疑いの目を忘れてはならない。それがどんなに信頼できる相手であっても変わらない。


 一瞬でも気を許したら、NISEMONOは我々の懐に入り込み鋭い刃を喉元に突きつけてくる。それを直に体験している大河はその恐ろしさをよく知っている。


 昨日まで会話を交わしていた人間が、実はNISEMONOだったということはありえる話なのだ。


「きみも用心だね。あの女も似たようなこと言っていたよ。本当にきみたちはどこまで似ているのか」

 美咲は呆れたように言った。


「みんな怖いんだよ。だって、全く本物と偽物の見分けがつかないのだから。本当にあなたは私の知っているあなたなのって問いたくなるんだよ。人間は臆病な生き物だからね」


「それだけではちょっと足りない。人間は臆病で利己的な生き物だよ」

 美咲はフードを取り払い、こちらに笑いかける。フードの内側にあったしなやかな髪が大河の視界を奪う。とても不登校で引きこもっている人の髪にはみえない。清潔できちんと手入れされている。


 どうも違和感が消えなかった。外に出ないのなら、別にそこまで手入れする必要があるだろうか。もしかしたら、執事たちのお節介ということもあるのかもしれない。でも、それだけではなさそうな予感が心の中で弾けた。

 

 大河は深呼吸する。良くない傾向だ。何気ない細かなことすらも目につくようになってしまっている。この歳ぐらいの女性なら、髪の手入れくらい人前に出なくてもするだろう。

 

 視線を美咲のほうへ向ける。

 

 美咲はパソコンの画面を真剣な眼差しで見つめていた。どうやら、さっき投稿したブログのコメント欄を見ているようだった。大河もちらりと見ると、さっきよりも悪質なコメントが増えているようだった。


「ねぇ。また、私と組んで都市伝説を解明しない?」

 画面を見つめたままの美咲の横顔がパソコンの光によって、青白く光っている。感情のこもっていない無機質な口調は大河の身体に浸透してくる。


 また――という言葉が以前にもそんなことがあったような口ぶりだった。確かに、一度だけ彼女と都市伝説について話したことがあったけれど、解明するほど深く話した覚えはない。それに、彼女とこうやって会話するのは久しぶりなはずなのに、ずっと近くにいたような感じがする。

 

 大河は事実と記憶を織り交ぜ、咀嚼していく。そして、しばらく漂っていた沈黙を破る。


「異論はない。やろう」

 大河は立ち上がって、そう言った。



 メガネをかけた少女は美咲の前に立っていた。

 

 美咲は鋭い視線を少女に向ける。


「久しぶりに会ったのにそんな目で見ないでよ」

 少女は美咲のあまりの鋭い視線に目を逸らす。


 一見、女々しいように感じる彼女の姿は偽物だ。本物はその裏側にぐつぐつと煮上がった異端の精神を持つサイコパスである。物腰が柔らかな印象に惑わされてはいけない。


「よく言うわ。あんなことをしでかしたというのに。今更、私たちの目の前に現れてどうするつもり」

 美咲は本心を見透かされないように仮面を被る。


 少女は顔をしかめ「ごめん」と言った。今更どんな態度を取られようが、同情する気持ちなど湧かない。むしろ、家族を平気な顔で殺すような人間と一緒に話していると思うだけで、反吐が出る。


「大河くん元気? 今でも仲良くやっているの?」

 少女は美咲の態度なんて気にせず、尋ねる。この強靭な精神力だけは美咲と似ている。あの頃に何もなければ、今でも三人で仲良く過ごしていたことだろう。でも、そんな関係はとっくの昔に壊れている。


「あんたが知っているような大河はもういないよ。多分、あんたのことなんて記憶の片隅にも残っていないんじゃない」

 美咲は嘲笑うように言った。


 そうだ、大河は変わってしまったのだ。そのことを思い出すたびに美咲は罪悪感に苛まれる。彼はNISEMONOをどういう心境で追いかけているのだろうか。さっきまでいた大河の姿が浮かんでくる。今は前だけを見てくれていれば、それでいい。


「そんなはずない。だって、私たちあれだけ仲良かったじゃない!」

 少女の言葉に美咲はため息をつく。


「あなたは知らないかもしれないけど、彼はあんたの事件以降ずっとカウンセリングを受け続けているの。彼自身は、そんなこと受けているなんて自覚はないだろうけど……」

 もう触れて欲しくない。ずっと目を背けてきたことに目を向けたくない。正直、このタイミングで彼女と会いたくはなかった。でも、NISEMONOの真相に近づくためには仕方がなかった。


「だから、あんなブログを書いたの? あんな誰が見ても分かるような嘘までついて……美咲変わったね」

 少女は同情の眼差しでこちらを見つめる。


 美咲はその視線に思わず俯いた。仮面が剥がれ落ちてしまいそうになる。だめだ、もう少しだけ強い黒沢美咲であってくれ。


 ――まさか。

 少女はぽつりと呟く。


 お願いだからその先は言わないでくれと美咲は心の中で呟くが、その思いは儚く散っていった。



 ――大河は美咲のこと忘れてしまったの?

 言葉が具現化して弾丸のように美咲の体を貫く。空虚が心に穴を開け、ぼとぼと感情が溢れ出る。


「そうよ……大河は私のことも忘れている。いや、記憶が欠けてしまったと言ったほうが正しいかも」


「そうなんだ……」

 少女の声色から驚きや悲しみという感情が感じ取れたのに、いざ、表情を見ると表情筋が一切動いていなかった。その異様さに鳥肌が立った。そろそろ核心に迫ってもいい頃合だ。


「ねぇ、あんた……」

 美咲はひと呼吸おいて、言葉を続ける。


「NISEMONOでしょう?」

 美咲は再び少女に鋭い視線を向けた。


 もう、終わりにしたい。NISEMONOという都市伝説の束縛から放たれたかった。NISEMONOという都市伝説を作った一人として、けじめをつけるために。


「根拠がないのにそんな事を言ってはダメだよ、美咲」

 少女は不気味な笑顔を美咲に向け、言葉を続ける。


「あっそうだ。明日から美咲たちが通う高校に転入することになったから、よろしくね。黒沢美咲さん」


「ええ、よろしく。六田奏子(ロクタ・カナコ)さん」

 美咲がそう答えると、少女は翳りのない笑顔を見せる。その目の奥に潜めた恐ろしい牙がこちらに向いたような気がした。美咲は唾を飲み込む。


 彼女の言うように、奏子がNISEMONOだという根拠はない。でも、頭部のない遺体という言葉をニュースで聞いて、真っ先に連想したのがNISEMONOではなく奏子のことだった。


 今から三年前、奏子は自分の家族を刺殺した。それも躊躇などせず、自分の母、父、妹を刺した。そして、発見された遺体は無残にも頭がもがれていた。


 きっと何かの間違いだ。当時の美咲はそう信じたかった。いつも笑顔で物腰が柔らかくて、優等生の彼女がそんなこと――するはずない。


 でも、美咲の思いは裏切られる。今でもあの時の異様な光景が生々しく残っている。彼女は殺したという罪悪感も、家族を失ったという喪失感もないようだった。奏子の思惑はただ一つだった。

 

 ――これで私はNISEMONOになれたかな?

 

 彼女の放った言葉と屈託のない笑顔が美咲の心臓を跳ね上げた。おそらく、大河は自分なんかよりも衝撃を受けていた。

 

 そのあとからだ。大河の様子がおかしくなっていったのは。


 一連の出来事から考えて、一番NISEMONOに近いと感じたのが奏子だった。だから、あのブログを書いた。奏子と大河しかしらない暗号を交えて。もちろん、大河はそんなこと覚えていなかった。今日はたまたまブログを見つけて来たという経緯を本人から聞いた。


 美咲自身も今回のことに関しては一種の賭けだった。だから、本当に奏子が美咲の家を訪ねて来たときは心臓が高鳴った。まさか、最高の結果を招いてくれるとは思わなかった。やはり、何でもやってみるべきだなと美咲は思った。


 これからは自分の目の届く範囲に彼女を置いておけばいい。もう、悲しい連鎖は続いてはならない。NISEMONOは生き続けてはならない生物まで膨れ上がってしまった。自分の招いたことは自分の手で終わらせる。


 そして、大河にNISEMONOなんて化け物は存在しないと伝える。


 「ねぇ」という奏子の言葉に美咲は我に返る。「なによ?」と美咲は返す。


「大河くんの記憶戻るといいね」

 何が本当で何が嘘なのか、奏子の言動は全く読めない。そうね、とだけ小さく答える。奏子は美咲の顔を窺ってから、玄関の扉に手をかけた。

 

 ――またあした。

 美咲は彼女の後ろ姿をただただ呆然と見つめていることしかできなかった。



「美咲に相談があるんだけどいい?」

 大河は顔の前に手を合わせた。声変わりが始まったのか大河の声は掠れている。珍しいこともあるものだと、美咲は背筋を伸ばす。


「大河が私に相談なんて珍しいね。どんな相談?」

 美咲はちょっぴり嬉しかった。いつも相談する役目は美咲で、自分なんて頼りにされていないと思っていたから。


「実は……いや、やっぱりやめておこうかな……」

 大河は言葉を詰まらせる。その様子に美咲は怪訝そうな表情を浮かべる。


 風が美咲の頬を撫でた。五月はじめの太陽の光はまだ弱かった。北国の夏はまだまだやってこなさそうだ。


「いいよ。無理して話さなくても」

 美咲の口調は春風のように柔らかかった。


 大河は小さく頷き、遠くを見つめる。美咲もそちらに目を向ける。学校の屋上から見える景色は、いつもと変わらず緑に囲まれていた。ここはあまりにも心地が良すぎる。母親の温もりと似た感触が離れたくないという思いを強くさせる。


「僕ね。好きな人……できたんだ」

 大河の口からぽろぽろと溢れた言葉はあまりにも実感がなかった。そんな素振りも、そんな予兆もなかった。突然、ふとハエのように湧いてきたようで気持ち悪かった。


「そうなんだ」

 美咲は複雑な心境だった。小さい頃からずっと大河のことを知っている幼馴染として。そして、初めて男の子に恋心を抱いた女の子として。


「誰のことが好きになったの?」

 あまりにも簡単にそんなことを訊いている自分に驚く。美咲はフードを深くかぶり直す。顔を見たくないし、見られたくない。


「奏子ちゃんのことがね。ずっと気になってたんだ。でも、どう想いを伝えたら良いかわからなくて」

 大河は早口でまくしたてた。

 

 奏子という名前が出たとき、一瞬だけ最低なことを考えた。これからも三人で仲良く過ごせるだろうか。美咲はその事実を咀嚼する。


「好きだって伝えれば良いんだよ。ストレートに」

 意地悪なことをした。好きだって簡単に伝えられたら、こんな相談を持ちかけてこないだろう。それに、大河はこういうことを苦手にしていることも知っていた。


 大河が口を開く前に、美咲は言った。


「ごめん、今の意地悪だった……私も何か手伝えたら手伝うよ」

 美咲は初めて、自分に嘘をついた。


「ありがとう。やっぱり、美咲に相談して良かった」


「そうでしょー! もっと、頼ってもいいんだよ」

 美咲はえぐられた傷口を隠すために偽りの笑顔を向ける。



 それからだった。美咲は自分ではない誰かになりたいという思いを募らせていったのは。自分では大河の隣にいられない。その事実が黒く煮え切った汚物として、美咲の心の中に落ちた。


 数週間が経ち、涼しかった屋上も日に日に蒸し暑さを増していた。以前と同じように大河から相談があると、美咲は学校の屋上に呼び出された。


「それで、相談ってなに?」

 美咲の心は瑞々しさをすっかり失っていた。どうして良いかわからない葛藤がずっと頭から離れない。今日はここも意心地が悪い。


「なんか奏子ちゃんこの頃、悩んでいるみたいなんだよね。それで、気になって奏子ちゃんに訊いてみたけど、なんでもないとしか言ってくれなくて。僕じゃあ頼りないかな……どうしたらいいと思う?」

 そう言うと、大河はため息をつく。


 大河の悲しげな横顔を見て、美咲はチャンスだと思った。ずっと頭の中で眠らせていた考えを実行できる。



 ――大河あのね、もしかしたら、ある噂が使えるかも。

 美咲は神妙な面持ちで切り出す。大河はいつもと様子が違う美咲の顔を覗き込む。

 

 ――その、ある噂っていうのがNISEMONOっていうの。

 

 ――にせもの?

 

 ――そう、NISEMONO。

 

 そう言って、美咲は鞄からルーズリーフを取り出し、すらすらと文字に起こす。

 

 ――これがNISEMONO。

 

 書いた紙を大河に見せる。筆記体で書かれたNISEMONOという文字がより印象を強くさせた。


 ――それで、それはどんな噂なの?

 

 やはり、都市伝説好きの大河は美咲の話に乗ってきた。それも、興味津々に美咲の次の言葉を待っているようだ。

 

 ――自分とは違う誰かと入れ替われるもので、その人の気持ちだったり、体だったりになれるの。あれだよ、ドッペルゲンガーを複雑にしたバージョンみたいな。

 

 ――へえーそんな噂があったんだ。知らなかったな。

 大河は目を見開いて感嘆した。


 ――でも、なんでこのタイミングでこの話をしたの?

 

 ――知りたいんでしょ? 奏子の気持ち。

 

 大河は一瞬だけ躊躇したが、まあねと言った。

 

 ――NISEMONOが使えるんじゃないかなと思って

 

 ――でも、それってどうやって使うの?

 

 ――まだ、そこがよく分からないだよね。だから、これから一緒に調べてみない?

 

 ――面白そう! 調べてみるか。

 

 黒々としたNISEMONOが現れた瞬間だった。面白いものがないのなら、面白いものを作ってしまえばいい。安易なものだ。


 美咲の内側で眠っていた想像がネットに放たれ、物凄い早さで拡散されていった。美咲の長けた手腕も拡散に拍車を駆け、NISEMONOはネットというネットを駆け巡り、日本中にブームを博した。

 

 美咲は高揚感に浸っていた。虚構がまるでそこにあるように感じる。NISEMONOは現実に存在すると、美咲は思うようになっていた。


 NISEMONOの噂はある一定の期間が過ぎると、影を潜めていった。瞬間的な爆発力が凄まじかっただけに、そのあとの持続力は全くなかった。

 

 それでも、美咲と大河の中では未だに生き続けていた。自分以外の人間に興味をそそられる中学生という年頃も幸いし、飽きることなく今の今まで調べ続けられている。その中で、いくつかの仮説が挙げられた。


 一つは、人と入れ替われても制限があること。

 一つは、女性であること。

 一つは、その人そっくりな身なりで、入れ替わりたい人の前に現れること。

 一つは、真夜中以外の活動はしてはいけない。

 そして、最後に、入れ替わるというより、融合する形に近いということがわかった。


「つまり、NISEMONOは融合することによって本物になれるんだよ。自分に足りない部分を補完する感じかな。それで、NISEMONOが本物に成りきれなかった場合は自分が自分かわからなくなってしまうみたいな」

 大河は目を輝かして、これらの見解を述べた。NISEMONOが美咲の作った都市伝説だと知らずに――。


 少しずつ不完全だった自分が大河の存在によって、完全になっていく。そんな感覚が本当に湧いてきた頃に、問題が起きた。


 突然、奏子が美咲と大河を学校の屋上に呼び出したのだ。美咲は三人でいる時間が減っていることを奏子に指摘されるのではないかと、気が気でなかった。

 

 でも、実際は違った。そんな小さなことではなかった。もっと深刻で、美咲は初めて奏子のことを尋常ではないと感じ取った。


「ときどき、怖くなるの。私が私じゃなくなってしまうみたいな。この頃、家族も私のことをそんな目で見ているような気がして……怖い」

 奏子の声は震えていた。


 美咲は唖然とした。まるで、大河が言った見解と一緒ではないか、と。確かに彼女は優等生というレッテルに苦しんでいるのかもしれない。それにしても、このタイミングは少々都合が良すぎるではないか。


 彼女は思ったよりも侮れないやつかもしれないと思いながらも、美咲は黙ってことの成り行きを見守った。


「NISEMONOのせいかな」

 大河が独り言のように呟く。


 その言葉を耳で捉えた美咲はドキッとした。ずっと奏子には隠し続けていたことを大河は何の躊躇もなく伝えてしまった。ちらりと奏子の様子を窺う。気にしてはいなさそうだが、これ以上黙っていれば、自然とNISEMONOの話題になりかねない。

 

 美咲はそんな気にしすぎだよと、半ば強引に話を切ろうとする。

 

 その様子に大河は眉間にしわを寄せる。


「真剣に悩んでいるのにそんな安易に結論付けるなよ」

 態度は明白だった。美咲に向けられたのは敵意で、奏子に向けられていたのは好意だった。知っていたことだったけど、改めてその事実に直面すると胸が締め付けられる。


 大切なものをいとも簡単に奪われてしまった喪失感が痛かった。おそらく、どれほど時間を重ねても変わることはない。もう、黒沢美咲としては生きていけない。黒沢美咲ではない何者かとして生きよう。そうすれば、こんな些細なことで苦しむこともなくなる。


 美咲は繊細で優しい心を捨てた。そして、誰にも負けない強靭な精神力を手に入れようと仮面をかぶり始めた。



 美咲はぽつりと呟く。


 ――まるでNISEMONOみたい。



 スマホの着信音で目を覚ました。


 萌絵は目をこすりながら、スマホの画面をタッチする。そして、そのままスマホを耳元へと持ってくる。


「もしっー奈江どうしたの、こんな時間に」

 萌絵は左手に持っていたスマホを右手に持ちかえる。


『ごめんね、こんな時間に。ちょっと誰かと話したくなって』


「そっか。そうだよね」

 そう言って、萌絵は木村綾子のことを思い浮かべる。彼女は癖が強かったけど、一緒にいて変に気遣いすることはなかった。今までのように相手の顔色を窺って、調子を合わせるような上辺の関係ではない。やっと本物が手に入ったと実感していたのに――どうして。


 萌絵は息を吐く。彼女のことを思い出すと、胸が苦しくなる。


「綾子いいやつだったよね」


『……うん』

 通話越しでも奈江が泣いていることがわかった。おそらく、奈江は自分よりも綾子のことを慕っていた。奈江は幼稚園のころからの付き合いだと、綾子が話していたのを思い出す。


『……ねえ、今から外でれない?』

 奈江は鼻をすすりながら、そう言った。


 萌絵は一度、机の上にある時計に目を向けた。まだ、二十二時だし問題はないか。


「うん、いいよ。秋風にでも当たって気分を晴らそう」


 秋風は思ったよりも体に染みた。もう少し厚手のコートを着てくればよかったと、萌絵は後悔した。


 いつものようにどこかを散歩するのかと思いきや奈江に指定された場所は萌絵の自宅近くの公園だった。


 この公園は、子どもたちに外で遊んでほしいと町内会が住宅街の一角に無理やり作ったものらしい。そのため、遊具は錆びついたブランコと歪な形をした砂場くらいである。さらに、予算の問題により街灯などの設備はごくごく最小限しか作れず、日が沈めばあたりは薄暗くなってしまう。

 

 萌絵はスマホの明かりだけを頼りに、公園内を少し探索する。全体的に木々に囲まれており、その隙間から住宅街の光が溢れていた。やはり、住宅街の一角に作られたことで、一般的な公園よりも小さなものだった。


 萌絵はスマホに視線を落とす。時刻は二十二時二十四分を指していた。この公園内に人影は見当たらない。どうやら、まだ奈江は来ていないようだ。萌絵はふうと、手に息を吹きかけ、手をこすり合わせるという動作を繰り返しながら、奈江が来るのを待った。

 

 萌絵はおもむろに空を見上げた。やはり、街灯の少ないこの公園から見る星空はとても綺麗だ。夕方頃に降っていた雨もすっかり姿を消して、月明かりが公園全体を包み込んでいる。

 

 萌絵は一息つき、再びあたりを見渡した。その視界の切れ端に、奈江らしき姿を捉えた。黒々としたシルエットは次第に色を帯び、萌絵の目の前で立ち止まる。


「ごめん、遅くなった……」

 奈江の声は枯れていた。月明かりで照らされた目元は赤く晴れ上がっている。どれほど涙を流したのだろうか。そんな奈江の姿を想像するだけで胸が引き裂かれる。


 萌絵は首を横に振り、全然大丈夫だよと答える。


 まるでスポットライトのように月明かりは奈江と萌絵を照らし出す。萌絵はスポットライトを浴びてもなお、次の言葉は見当たらなかった。


 二人の間にしばらく沈黙が漂う。何を口にするべきかわからない。慰めも、同情も、今は違う気がする。だからといって、黒沢美咲を揶揄するようなことを話題にあげるわけにはいかない。


 萌絵が考えを巡らせていると、奈江が静かに沈黙を破る。


「ねえ、気づかない?」

 意味不明な言葉に萌絵は怪訝そうな表情を浮かべ、奈江の方を見つめた。


「なんのこと?」


「だって、あなたたちあれだけ私の噂していたじゃない」

 萌絵は何も返せなかった。悲しみなんて消え去り、足元がぐらつくような感覚に不安がせり上がってくる。


「……奈江どうしたの? なんかおかしいよ」

 重力が何倍にもなったかのように体は重い。心臓も自分のものとは思えないほど忙しなく動いている。萌絵は、一歩ぶん奈江と距離をとる。


「どうして、私から離れようとするのよ。今日、あれだけ私をなだめてくれたじゃない。加賀萌絵さん」

 月明かりは雲によって、遮られてしまった。薄暗くてよく奈江の表情が見えない。けれど、異様な雰囲気だけは伝わってくる。


 萌絵はある単語が頭の中でよぎる。

 


 NISEMONO――?


「嘘だよね……? 奈江」

 萌絵は奈江に近づき、肩を掴む。奈江がNISEMONOのはずがない。だって、仕草も顔も歩き方も全てが奈江自身のものだった。疑うところなんてない。

 

 でも、肩から伝わってくる真実は残酷だった。微かに震えている感触は不安や恐れや悲しみを抑えているものではない。笑いをこらえているものだった。

 

 萌絵は思わず手を離し、再び相手との距離を取る。


「これだからやめられないよね」

 その声は奈江のものではなかった。


「誰よ、あんた!」

 萌絵は目の前にいる奈江らしき人物を睨みつける。月明かりに照らされた奈江らしき人物の顔は確かに奈江のものだった。萌絵は憤りを感じた。綾子だけではなく、奈江にまでこいつは手をかけた。


「もうわかっているでしょう? NISEMONOですよ」

 そう言うとNISEMONOは不気味に笑う。


 萌絵はその声に聞き覚えがあった。誰だ――誰の声だ。無色透明であまり特徴のないどこにでもいそうな声。どこかですれ違ったとかその程度か。考えを巡らせれば巡らせるほど、答えは遠ざかっていく気がする。


 萌絵は息を吐く。


 よく考えろ、綾子に次いで奈江が襲われている。そして、今自分の目の前にこいつは姿を現した。この三人を襲う動機を持っている人物といえば、一人しかいないではないか。それに、彼女の声は不登校でしばらく聞いていない。もっと早くに潰すべきだった。

 

 萌絵はくちびるをぎゅっと噛み締める。


「黒沢美咲! もう、あんただって分かってるんだよ!」

 萌絵は街中に轟くほどの声で叫んだ。犯人はこいつだと、街中の人、いや、日本中に伝わって欲しいという願いを込めて。


「違うでしょう? よく顔を見てみなさい」

 NISEMONOは自分の顔を萌絵の方に近づける。


「どこからどう見ても、佐々木奈江でしょう」

 慣れ親しんだ奈江の笑顔がそこにあった。でも、それが本物ではなく偽物で、もっといえば、悪意がこもったものだった。


 萌絵は狂ってしまいそうだった。次々と仲間たちが奪われ、その仲間に成りすまして今目の前にこいつは存在している。そんなことが許されていのか。どうしたら、こいつを止められるんだ。

 黒沢美咲――!


「そうだ、特別に良いことを教えよう」


「なによ」

 萌絵はNISEMONOを睨みつけた。


「NISEMONOって一人じゃないんですよ」

 

 萌絵はその言葉を聞いて、後ろを振り返ったときには遅かった。硬い何かが自分の側頭部を貫く。凄まじい衝撃と共に視界は暗転し、体はゆっくりと崩れていった。


 頬にざらざらとした感触がして、やっと、自分が地面に倒れていることに気がついた。少し冷静になってくると頭の奥が鈍く痛んだ。体も思ったように動かない。これは何かで頭を殴られたのかと、萌絵は思った。


「呆気なかったですね。だから、さっき言ったのに。一人じゃないから気をつけてって」

 萌絵はくちびるを噛み締めた。これほどの屈辱はない。


「あんた……たちは一体?」

 萌絵は声を絞り出す。やばい、思った以上に体の感覚がない。全身麻酔でもしているようでとても自分の体とは思えない。


「さあー何なんでしょうね?」

 NISEMONOは小馬鹿にしたような声を出す。しかし、霞んだ視界の切れ端に映ったNISEMONOの表情はとても寂しげであった。萌絵は叫んでやりたかった。そんな顔をするくらいなら、やらなければいいだろう、と。

 

 ただ、もうそんな声すらも出ない。体がさっきからぶるぶると震えて止まらない。もう、終わってしまうのだと、萌絵は悟っていた。

 

 それならばと、萌絵は必死に何か痕跡を残そうと手を動かす。が、視界に捉えているNISEMONOとは別のやつが萌絵の手を殴りつけた。


「いっ……あああああ」

 固い感触が萌絵の右手を貫いたとき、今まで感覚がなかったはずの右手に痛みが走った。そして、だんだん熱が帯びていく感じがした。


 呼吸も次第に肩でするようになっていた。


「全く、まだそんなに叫ぶ力が残っていたとは」

 もうNISEMONOの言葉に反応する余力は残っていなかった。こんなに苦しいのなら、もう終わりにしたい。


「本物になりたい……」

 NISEMONOはぼそっと言った。それがどんなことを意味していないのか、わからない。ただ、妙な人間味に気持ち悪さを感じていた。まるで化け物になりそこねた人間みたいではないか。


 「さて、そろそろ」という言葉が合図だったのか、その言葉が聞こえた瞬間、萌絵は意識を失った。


「さよなら……加賀萌絵さん」

 NISEMONOの声は嘲笑うようでもあり、悲しげでもあった。


「そうだ、言い忘れていました……私は黒沢美咲なんかではありませんよ」

 誰に届くわけでもないその言葉は暗闇に吸い込まれていく。そして、NISEMONOは再び混沌とした世界に紛れる。次は――誰にしようかと考えを巡らせながら。

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NISEMONO 海岳 悠 @insharuS

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