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 根拠などない。ただ、どこからもなく湧き上がってくる。都市伝説という存在はいつもそんなものだ。なんとなく、面白そうという好奇心だけが一人歩きをして、世間に広める。けれども、誰もそのもの自体を本心からは信じていない。影を落とす日常が少しでも明るくなれば良いなというまやかしに過ぎないのだ。面白いことがないのなら、面白いことを作ってしまえばいい。

 安易なものだ。



23:名無しさん@にせもの。2030/10/23(水)07:47.35.42 ID:cXPfic7

NISEMONOまた出たらしいぜ。今度は駅前のところでそれらしき人物がいたって



24:名無しさん@まいご。2030/10/23(水)07:48.45.03 ID:wdeiOPc

まじ!? 行ってみようかな



25:名無しさん@にせもの。2030/10/23(水)07:50.12.45 ID:cXPfic7

やめとけ、お前も偽物に乗っ取られるぞ!



26:名無しさん@ほんもの。2030/10/23(水)07:51.02.00 ID:gKgdc8s

ガキはそういう噂すきだよな



27:名無しさん@にせもの。2030/10/23(水)07:52.12.56 ID:cXPfic7

お前こそガキだろw



28:名無しさん@けいびいん。2030/10/23(水)07:54.34.09 ID:xCoceDc

NISEMONOは黒いフードを被っているらしいぞ



29:名無しさん@ああああ。2030/10/23(水)07:58.27.56 ID:OdcsGw

やべえー一昨日のNISEMONOの画像みたけど、えぐい


 また、幻影を夢見る人々がネットに書き込んでいる。滑稽のなにものでもない。スマホでネット掲示板を見ていた桐生大河(キリュウ・タイガ)はそう思った。 

 スマホから視線を逸らし、あたりを見渡す。

 今日は新聞をめくる音が聞こえない。

「あれ、父さんは?」

 スマホを制服のポケットにしまい、朝食が用意されているダイニングテーブルの方へと移動する。

「あ、なんだっけ、なんとかっていう事件があって、朝早くから出かけたよ」

 コーヒーを注ぎながら、母の美恵子(ミエコ)は答えた。

「そうなんだ」

 大河と美恵子は向かい合って座る。

 父が朝早く出かけていたことに大河は動揺した。何もなければ、いつものように朝食は家族三人で囲む。ここ最近は、三人で囲むことの方が多かった。人間は変化に敏感だ。いつもの日常が奪われると、途端に不安に襲われる。

 嵐の前の静けさという言葉が脳内にふと浮かんだ。

 いつも父が座っている席を、大河は目を細めて見つめた。

 父の職業は犯罪心理学者だ。父は東京大学を主席で卒業し、数々の経験を経て、今では重大事件のプロファイリングをこなすほどの実力者である。次々と事件の真相に迫る鮮やかな手腕から、平成のシャーロックホームズと呼ばれているほどだ。 だから、父がこれほど朝早くから呼ばれるということは、それほどの何かが起きたということを意味する。

 大河はテーブルの上にあるリモコンを手に取り、テレビをつけた。

『昨夜、何者かが、頭部のない遺体の画像をネット上にアップしたとして問題になっています。警察が懸命に捜査を行っていますが、未だ足取りは掴めていません。アップされた写真にはNISEMONOと書かれており、事件との関連性があるかどうか調べているそうです。以上ニュースでした。続いては――』

 何気なくつけたテレビに大河は釘付けになった。じんわりと手のひらが汗ばみ、心臓の鼓動が耳の後ろで鳴り響く。

「あっ! そうだ思い出した。偽物事件って言ってたわ」

 美恵子の言葉に戦慄が走った。

大河は急いで、スマホを取り出し、画面をスクロールする。やっぱり、さっきまで見ていた都市伝説と通ずる。

 まさか――。

 

 巷で騒がれている都市伝説。通称『NISEMONO』。

 NISEMONOとは、自分そっくりの偽物が突然目の前に現れ、気づいたら中身が入れ替わってしまうというものだ。偽物に乗っ取られてしまった身体は、二度と本物に戻ることはない。そのため、行き場を失った本物は誰かの偽物となって、新しい自分の身体を探そうとする。そうして入れ替わった後、偽物は本物として人間社会に紛れる。その見た目も、中身も、本物と変わらないことから誰も疑わない。

 でも、偽物に奪われた身体はそう長くはもたない。せいぜいもっても、入れ替わってから二日間くらいだ。また、身体が無くなってしまえば別の誰かの身体を奪う。そうやって、NISEMONOは生き続けるという。

 この都市伝説は、半年前から急激に拡散された。若者の中で、自分ではない誰かになれることに憧れたり、希望を抱いたり、オカルトちっくな話の中にポジティブな要素を加えたことが拍車をかけた。「自分とは違う誰かになってみませんか?」というキャッチコピーの化粧品会社まで出てきたくらいだ。

 ちなみに、偽物がなぜローマ字表記なのかというのは諸説ある。頭部のない遺体の近くにローマ字表記でNISEMNOと書かれてあったとか、ネット上で誰かが偽物をローマ字表記にしたことが広まったとか。都市伝説特有の曖昧さでどれも核心を突くようなものではない。

 そう、NISEMONOはあくまでも都市伝説だった。架空のお話で、誰かを楽しませたり、誰かを怖がらせたりする。そういう存在だった。それが、今、現実世界で黒い尾ひれを覗かせている。

 大河は喉の奥につっかえた何かを取り除こうと、味噌汁を流し込み、箸を置いた。

「良いわよね。海堂(カイドウ)さん。すっかり有名人で」

 テレビを横目に、美恵子はそう言った。

「誰それ?」

「あれ、しらない? 今、テレビとかに取り上げられて有名よ。確か、海堂さんの娘さんあんたと同級生じゃあなかったかしら」

 美恵子の言葉を聞いて、大河は眉間にしわを寄せた。

 海堂という苗字に身に覚えがなく、テレビに映る母親の容姿と似ている同級生も浮かばなかった。

「ごめん知らないや」

「そう」

 美恵子は大事そうに両手を添えてコーヒーを飲む。いつも見ている光景。少し、心が落ち着いた。今日は間違い探しをするかのようにいつもと違った。父がいないことも、テレビを見て汗ばむことも、不快なサイレンが聞こえることも。

 大河と美恵子は同時に窓の外を見つめた。また、聞こえた。

 朝日が差し込む窓の外側で、警察車両のサイレンが鳴り響いている。

 遠くの方から渦を巻くように鳴り響く不快な音。いつもなら気にも留めない音が、大音量となって大河の耳にまとわりついた。

 大河は美恵子に今日は遅くなることを伝えて、玄関のドアを開ける。




 学校に向かう途中の交差点で、髪をツンツンと逆立たせている陸斗(リクト)が目に入った。陸斗は、陽気な性格を周りにばらまきながら歩いている。それを見た大河は歩くスピードを少し落とす。が、大河の存在に気づいた陸斗は、獲物を狙っている猛獣のように踵を返した。

「おはよう!」

「朝から、テンション高いな陸斗は」

「いっや! これぐらいでいかないと学校に行けないって!」

 陸斗は大河の肩をポンポンと叩く。大河は呆れたようにため息をついて、歩き始める。その横に陸斗も続く。

「たいちゃん。あのニュース見た?」

「ん?」

「NISEMONOだよ! この前たいちゃんが言ってたやつ」

 陸斗の声と、警察車両のサイレンが重なる。

「また……」

 大河は警察車両を目で追う。今日はやけにサイレンを聞いているような気がする。この街で何かあったのだろうか。

「俺の話より、パトカーの方が大切ですか。そうですか……」

 いじけたような顔で見つめる陸斗を、大河はひらりとかわして、再び歩き出す。NISEMONOという言葉を不意に聞くと、心臓がびっくりする。まるで誰かに後ろ指でも刺されたような気分だ。

「あっ」

 陸斗が声をあげた。その声に反応して、横を見てみると、陸斗は何かを目で追っていた。

 イチョウ――?

風に身を任せ、イチョウの葉は空中を泳いでいた。その様子を、目で追う。さっと陸斗の手がイチョウの葉へと伸びた。そして、優しく包み込むように受け止める。

「……イチョウってさ、イチョウっていう名前で一括りにされるけど、一つ一つ微妙に形が違うよな。もし、他のイチョウがこのイチョウと同じような形になろうと思っても、なれないだろ。そう、なれないんだ。だから、お前はイチョウ一号だ! そんであれは二号で、そこにあるのが三号」

 地面に落ちているイチョウの葉を指差して、陸斗は言った。そして、陸斗はイチョウの葉を包んでいた手のひらを開き、空高く腕をあげた。手のひらに乗っているイチョウの葉は風によって、飛ばされていく。

 なんとなくその一連の流れに目が離せなかった。とても大切なことを教えられているようなそんな感じがした。個性を理解しなさい。そう言われたことがある。でも、誰に言われたのだろうか。

「やっぱり、俺思うんだよね。NISEMONOって人間じゃないって。だって、もし人間だったら、このイチョウのように本物そっくりに真似なんてできない。みんなが誰かになろうと思っても誰にもなれないだろ。やっぱり、化け物だな……NISEMONOって」

 真剣な表情で陸斗は言った。

「確かにNISEMONOは人間じゃないのかもしれない……」

 そう言い切ったところで、しまったと思った。これでは、ネット掲示板で書き込みをしているやつらと同等ではないか。都市伝説の存在を容易く受け入れてしまっている。大河は雑念を払おうと深呼吸する。

 もしかしたら、具現化しつつある都市伝説の存在を現実から引き剥がしたかったのかもしれない。NISEMONOはあくまでもフィクションであると。

 陸斗と視線がぶつかる。

「たいちゃんが反論しないなんて珍しいー。こういう話になるといつも御託を並べるのに」

 陸斗が大河のことを愛称でたいちゃんと呼んでいることすらも、今は馬鹿にしているように聞こえた。しかし、陸斗にはそんな思惑がないと言わんばかりに驚いている様子だった。

「僕も思ったことがひとつある。こういう都市伝説を科学的に解明しようと思えば、思うほど、非科学的なものに辿り付きそうになるんだよね。そう、陸斗がいう化け物みたいな存在にね。でも……」

 そう言いかけたところで、大河は口をつぐんだ。朝見たニュースの言葉が頭の中によぎる。『ネット上にアップした――未だに足取りが掴めていません』。

 父に聞いたことがある。ネット上での犯罪予告などの事件は、日本の警察がかなり優秀だということ。さらに、遺体なんかをネットに載せたら、すぐにアップした犯人のところまで飛んで行くくらいだと、父は笑いながら言っていた。

 それが――まだ、見つかっていない。

 手こずる何かがあったのか、それとも、相手はもしかして人間ではないのか。否定の一手を食らわそうと思ったら、肯定しそうになる。

 また、遠くで警察車両のサイレンが鳴り響いている。

 そういえば、前にもこんなようなことがあった。人口五千人も満たないこの長閑な街で、これほどサイレンが鳴り響いたのは確か――今日を含めて二回。

 一回目は――大河が中学生の頃、同級生の女の子が家族を刺殺した事件があったときだ。あの時は、この小さな街に衝撃が走った。口々に仲のよかった家族がどうしてなどと、街の人たちは噂していた。結局、捕まった同級生の女の子は少年法という生ぬるい法律の中で、重い罪には問われなかったらしい。彼女は、今どこで何をしているのだろうか。

「おい! でもなんだよ!」

 いつの間にか、横にいた陸斗が目の前に立っていた。

「いや、なんでもない」

 目の前にいる陸斗を避けて、素っ気なく答える。

「なんだよ! 言いかけて途中でやめるとか、余計気になるじゃんか」

 陸斗は不貞腐れたようにブツブツと文句を並べる。次第に、文句の矛先が学校やら親やらに変わり、かなり前のことまで言い始めた。まるで嫉妬深い女みたいだ。大河は口を挟まず、耳だけを傾けた。

陸斗はこういうストレスのはけ口がないと自分を見失う人間だ。髪を奇抜にしたり、染めたり、ピアスをつけたりすることは、不安の裏返しなのである。勇ましい人間であるほど、影では精神的に弱々しい自分が存在するものだ。だから、外見がいくら元気いっぱいでも、内面ではボロボロということはよくあることなのだ。

 その細かな変化にいち早く察知し、耳を傾けるだけで十分役割を果たせる。大河は相槌をいれながら、そんなことを考えていた。

 陸斗が「本当、世知辛いよ」と言って、ぱたりと独り言をやめた。

 風の音、車の走行音、木の葉が擦れる音。そして、サイレンの音。それらの音が耳を支配する。周りには、彼らと同じ制服を着た学生がいるというのに、なぜか話し声はあまり聞こえない。まるで、みんなが何かに聞き耳を立てているようで不気味だった。

 商店街を抜けて、森林公園を越えたら、人通りは疎らだ。この先にあるのは、工場と高校くらいしかないため、普段通るのは高校に通う学生と工場に通勤する人くらいである。朝と夕方はまだ人がいるけど、それ以外の時間帯は全くと言っていいほど、人の気配はなくなる。

「寒いな」

 大河は手を擦りながら、歩みを止めた。信号がちょうど変わって、車が目の前を行き交う。この交差点を越えれば、彼らの通う高校は目と鼻の先だ。

大河は空を見上げた。山の頭をすっぽりと隠してしまうほどの雲がある。帰る頃には、雨が降っているかもしれない。傘を持ってくれば良かった。

 それにしても、今日は肌寒い。太陽は出ているものの、日差しは弱々しい。すっと息を吸い込む。秋の匂いが少しずつ濃くなっているのを感じた。

 視線を信号に戻したとき、車の走行音をかき消すような強い風が大河と陸斗の体を煽った。思わず全身に力がはいる。大河は手に息を吹きかけ、制服のポケットに突っ込んだ。

「これはやばい、寒すぎ」

「……」

 いつもの煩わしい反応が返ってこない。どうしたのだろうと、大河はちらりと陸斗の様子を窺う。

「陸斗……?」

 陸斗は車道を挟んだ向こう側を見つめて固まっていた。大河もそちらに視線を向ける。そこには、黒いフードを深々と被った何者かがいた。無意識に大河は呟いていた。

 NISEMONOだ、と。

 大河は陸斗の背中を叩く。すると、陸斗は飛び上がり、やばいという言葉を大河が耳にした瞬間、陸斗に右手を掴まれ走っていた。

大河は必死に陸斗の名前を呼ぶ。が、陸斗は聞く耳を持たず、無我夢中で何かから逃げるように走っていた。ちらりと後ろを振り向くと、黒いフードを被った何者かがこちらをじっと見ていた。空から吊るされているように背筋がピンと伸びているのに、一向にそいつの顔が見えない。まるで顔を見られないように隠しているようだった。

 やばい――本当にいた。

 大河は黒いフードからすぐに連想した。ネット掲示板に書かれていた  『NISEMONO』の特徴。今は後ろを振り返らず、陸斗を信じて走ろうと大河は足に力を入れる。

 後ろを振り返れば、すぐそばにあいつがいる。そんな気配をずっと感じながら、走り続けた。

 細い路地をくぐり抜け、林道を右に曲がり、砂利道を通り、高校の裏手の丘に出たところで、二人の体は限界を迎えた。足が自分の意思を無視して停止した。その反動で勢いよく転び、二人の体は地面に叩きつけられる。霞む視界の中、お互いの呼吸音だけがその場を支配した。

 風が大河の頬を撫でた。ファンタジーの世界から現実に戻ってきたような感覚だった。とても恐ろしい何かを知ってしまった気がする。あれは一体何だったのだろうか。人間だったのか、それとも――。

 不気味な姿が鮮明に浮かんできた。あのフードの中に自分そっくりの顔があったらと思うと、ぞっとする。

 少し身体を動かすと、カサカサと音が鳴った。反射的に身構える。が、音の正体が自分であると気がつき息を吐く。

 地面には何枚もの落ち葉が身を寄せ合って、大河の身体を支えていた。高級なソファのようにすんと体重ぶん沈む感覚。久しぶりに、落ち葉の上に座ったからだろうか。妙に柔らかい感じがした。

「いって」

 右手を動かすと、鋭い痛みが走った。陸斗に掴まれていた部分は紫色に変色していた。どれほどの力で握られていたのだろうか。

大河は右手を動かさないようにゆっくり立ち上がり、陸斗の方を見た。

 陸斗の膝は小刻みに震えていた。まるで生まれたての子牛のように弱々しく、すぐにでも崩れてしまいそうだった。そして、陸斗の表情を見てぎょとした。

「……陸斗、大丈夫か?」

 そう、大河が訊くと、だらしなく崩れていた顔のパーツが急いで元ある場所へと戻っていく。人間らしくない表情から、妙に人間らしい表情に戻っていく様は、大河の鼓動を早くさせた。

 陸斗はこちらに目を向けて、ゆっくりと口を開いた。

「大丈夫だよな? 俺……俺は人間だよな!」

 陸斗は叫ぶように言うと、大河の肩を掴む。そして、鬼気迫るように、何度も同じセリフを繰り返した。俺は人間だよな、と。

 大河は黙っていた。正直、今目の前にいるのが、鈴木陸斗本人なのか自信をもてない。どうしても、陸斗とは違う別の何かに見えてしまう。

 お前は本当に――。

「何を見たんだ」

 大河が短く端的に言葉を投げると、陸斗は肩を揺さぶる手を止めた。震えていた唇をぎゅとしぼめ、口からは血が流れた。大河は一つ深呼吸をする。力なくぶらんと下げられた大河の腕に力が入る。勢いのまま、陸斗の肩を掴み、努めて冷静な口調で言った。

「陸斗は人間だよ。大丈夫だ……」

 取り乱した人間を見たら、手や肩などを掴んで、目をしっかりと見て、大丈夫だと伝えろ。不安に取りつかれてしまった人間は、あらゆるものを歪めてしまう。どんな時でも、落ち着いて冷静に判断するんだ。もし、自分も不安に飲み込まれそうになったら、深呼吸をしなさい。父から何度も聞かされたことだから、覚えていた。

 全身に力が入っていた陸斗の体は少しずつ、力が抜けてきていた。蒼白だった顔も、多少血色が良くなっている。

「ごめん」

 大河は胸を撫で下ろす。今、目の前にいるのは確かに鈴木陸斗だ。

「いや、大丈夫だよ。とりあえず、学校にいこうか」

 木々の向こう側に高校の三階部分がちらりと見えている。

 サイレンはさっきよりも、近くで聞こえた。



 高校に着いたのは九時過ぎだった。あのまま丘を突っ切れば、ギリギリ間に合う予定だったのだが、道警と書かれた黄色いテープに道を阻まれ、遠回りするはめになった。その上、背中に道警と書かれた警察官に注意を受けた。

 ――不審者が出回っているから注意しなさい。

 警察官の男が言ったことを大河は反芻した。

 もしかして、黒いフードの人ですかと、喉元まででかかった言葉を唾と一緒に飲み込んだ。自分自身がどんどん非現実なものを信じ始めていることに嫌悪感を抱く。

 陸斗に肩を叩かれ、大河は我に返る。職員室にいかないとだめだろうと陸斗に言われ、そういえばそうだと思った。普段、遅刻なんてしないから遅刻した際の決まりごとなんて忘れてしまう。

 この学校では遅刻した際、職員室に行って遅れたことの趣旨を伝えなければならなかった。このルールは遅刻をちゃんと把握するためだと、建前では言っている。が、要は先生たちがいちいち確認せずに済むから楽なのだろう。昔から、規則やルールは大人たちの都合の良いように作られているものだ。

 しかし、いざ職員室に来てみれば、ものけの殻で誰もいなかった。職員室のドアのところに、会議中と書いてある。大河は、その辺にあった紙に遅れた趣旨を書き、担任の机の上において、教室へと向かった。

 引き戸が開く音と共に秋の冷たい風が肌に触れた。風が流れてきた方を向くと、スクールカウンセラーの下山律子(シモヤマ・リツコ)が立っていた。

「あら、大河くんと陸斗くんじゃない。授業サボって何しているの?」

 水色のポロシャツに青のジーンズ。律子はいつもその格好をしていた。この前、同じ服を着ている理由を訊いたら、服が少ないからだと言っていた。だからか、右手にあるコートの存在がとてもレアなものに感じた。

「ちょっといろいろありまして」

 大河は平然を装うとするが、陸斗の様子を見て、律子は怪訝そうな表情を浮かべた。

 まだ、いつも通りの陸斗ではないし、律子はこういう細かな変化を感じ取るのが鋭い。隠し通すのは無理か、と大河は思った。

「あれだったら、ちょっとよっていかない?」と誘われ、大河は二つ返事で、律子のあとについていく。

 律子との出会いは、入学して間もない頃だった。赴任当初から、律子の容姿や整った顔立ちが噂になっていた。それを聞きつけた陸斗が、一度会ってみたいと言い出し、その同伴を渋々受けた大河は、悩みもないのにカウンセラールームを訪れた。

 第一印象は、優しい声だった。まるで割れ物を包み込むかのような口調にはっとさせられた。父親の関係上、少し心理学をかじっていることを伝えると、快く色々と教えてくれた。それから、何かある度に律子の元を訪れるようになった。

「なるほど、そんなことがあったの」

 大河が今までにあったことを話すと、律子は深く頷いていた。

「先生は率直にどう思いますか?」

 身を乗り出す勢いで大河は訊いた。

 最初は、このカウンセラールームの椅子の配置に違和感を感じたけど、今はそれほど感じなくなった。どこにおいても、基本的に人と会話をするときは向かい合って座る。けれども、このカウンセラールームはL字のソファと一人がけのソファが斜め横の関係に配置されている。お互い対面にならないように、配慮されているらしい。これが一番話しやすい配置関係だと、律子は言っていた。

「うーん……色々な解釈の仕方があると思うのよね。事実だけをそのまま受け止めるのなら、私なんかより大河くんのお父さんに訊いたほうが良いと思う。私は臨床心理的解釈しかできないからね」

 陸斗はソファに深く座り込み二人の顔を交互に見ていた。

「それでもいいです! 今は情報が欲しいんです」

 大河はソファに浅く座り、斜め横にいる律子の方に体を寄せる。

「大河くんがそれほど積極的なのは珍しいわね」

 そう言って、律子が微笑むと、大河は恥ずかしそうに体勢を戻す。

「たとえば、それがお化けだったり、怪物だったり、そういう非現実的な思い込みで逃げ出したのなら、臨床的にいうところの不安障害だったり、統合失調症だったりするわね。統合失調症はあなたたちくらいの年齢が一番発症しやすく、病魔に飲み込まれやすい。もし、さっき大河くんが言った通りならそういうこともあり得るという話ね。でも、私はどうもそうではない気がするのよね。なんか中身のない木の実みたいな感じ」

 律子は眉間にしわを寄せて腕を組む。彼女の考えるときの癖だ。

 あの――。ずっと口を開かなかった陸斗が切り出す。

「たとえば、都市伝説とかって関係あったりします?」

 大河は都市伝説という言葉に脳天を貫かれるほどの衝撃を感じた。それと同時に陸斗の方へ鋭い視線を送る。

 実のところ、律子には都市伝説のことを話していなかった。別に、隠そうと思っていたわけではない。ただ、今は話すべきではないと思ったから話さなかっただけだ。まさか、陸斗が都市伝説のことを切り出すとは思わなかった。

「どういうこと?」

 律子が首をかしげる。

「先生知りませんか? 結構ネットとかで有名なんですけど、オカルトちっくな都市伝説があって。でも、元々俺はそれほど詳しくはなかったんですが、たいちゃ……いや、大河から聞かされている内にのめり込んでしまって……」

 だんだん陸斗の語気が弱々しくなる。頭の中で整理がついていないのか、それとも、大河の名前をだしてまずいと思ったのか。どちらにせよ、律子の視線は大河に向けられた。

「なるほど、それで大河くんは身を乗り出して聞いてきたのね。本当に好きねそういうの。でも、ごめんなさい。私はネットに疎くて知らないの。だから、詳しく教えてもらえるかしら」

 大河は頷き、一つ咳払いをして、口を開く。

 じゃあ説明しますね。『NISEMONO』というのがありまして――。頭の中にあるNISEMONOの情報を順序立てて説明していく。本物と偽物が入れ替わる。それで、偽物は新たな身体を目指して、人間社会に紛れる。特徴は、黒いフード。

 大河は言葉を紡いでいくうちに違和感を抱き始めた。それも、すごく些細なことだと思う。でも、その違和感がどこにあるのかわからない。確かに、あるのに何も見えてこない。もどかしい気持ちが大河の口調を早くさせる。

 違和感は、自分の言葉の中にあるのか。

 それとも――。

 いつの間にか集中が完全に違和感の方に向いてしまい、口を止めていた。

 律子にそれで? と訊かれ、慌てて話し出す。

 ――というわけです。

 大河が話終わると、律子は深く頷いていた。そして、自分の鞄から紙とペンを取り出し、何かを書き始めた。

 大河と陸斗はその様子を黙って見つめる。忙しなく動いていた律子の手が止まり、これではないかと、紙を持ち上げ大河と陸斗に見せた。

 「それです!」と陸斗は大きな声をあげた。大河はその様子を見ていることしかできなかった。もちろん、陸斗の大きな声に驚いたのもあった。が、紙に『NISEMONO』と書かれてあることに驚きを隠せなかった。

 どうして、ローマ字表記だということを知っているのだろうか。大河は、確かにNISEMONOと発音したものの、ローマ字であるとは言っていない。

 これ以上は、話してはならない。大河は漠然とそう思った。

「朝のニュースでやっていたからもしやと思ったけど、やっぱりそうだったか」

 律子はいつもと変わらず、優しい口調で言った。

「さすが、カウンセラーだ!」

 陸斗は陽気な口調でそう言った。

 ネットに疎い。その言葉が大河の頭の中を駆け巡る。本当にNISEMONOを知らなかったのだろうか。それにどうもNISEMONOを説明していた時の違和感が消えない。

 視線を律子にぶつける。

「それで、朝の出来事と都市伝説が関係あると思いますか?」

 だんだん陸斗が律子の方に寄っていくので、大河は陸斗の脇腹にパンチを食らわせた。陸斗は何だよと脇腹を押さえながら、元いた位置に戻る。

律子はふふと笑ってから、話し始める。

「そうだね。さっきとは違った見方ができるかもね。病理的ではなく、思い込み気質的というのかしら。連想ゲームのように黒いフードはNISEMONOと自動的に認識してしまうみたいな感じにね」

「じゃあ朝見たあいつは見間違いということですか?」

 大河は感情を押し殺して訊いた。

「そうね。見間違いである可能性が高いと思う。そもそも、情報が抽象的なこともあるけど、黒いフードだけで、そうだっていうのは、やっぱり都合の良い感じがするわ。実際に被害が出ているわけでもないし」

 随分、否定的な解釈だと大河は思った。一か月前にカウンセラーとして大切なことを律子は話してくれた。将来そういう道もありだと話したら、ある程度教えてくれた。

 傾聴これは大切ね。ちゃんと共感と受容を持って、肯定的に捉えていくのよ。そして、相手の感情を理解する。そういった力が必要ね。

 今の律子の態度はその意義に反するように思えた。そもそも、これはカウンセリングではないと言われれば、それまでなのだが。それだけではない、何かが律子の後ろで見え隠れしている。そんな感じがした。

「思い込みなのか……」

 陸斗がぼそっと呟く。

 大河は今朝の光景を思い出す。あれは見間違いだったのだろうか。黒いフードを深々と被ったやつがこちらを見ている。いや、見間違いなんかじゃない。あの異様な雰囲気を肌で感じた。

あれは確かに――人間ではなかった。

「そういうオカルトや都市伝説は昔から色々問題だったのよ。殺されるだの、呪われるだの、それで本当に倒れるような子まで出ちゃって、大人たちは良いように振り回された。特にこっくりさんっていう遊びが流行った時は地獄だったわ。今回もそれと同じような感じがするの。本当はいないのよ、そんなもの。でも、一回信じて、思い込んでしまうと飲み込まれてしまう。大丈夫! いないはNISEMONOなんて」

 律子はそう言って微笑んだ。その微笑みはいつものような温かみを含んでおらず、あるのは冷たさだけだった。

 違う。そんなことではない。大河は内側から流れ出すマグマのようなものを感じた。律子の目をまっすぐ見つめる。内側から溢れ出しそうなものを必死に抑えようとするが、止まりそうになかった。

 ――いや!

 大河は思わず目を横にやった。喉元まで出かかっていた言葉が奥底へと沈んでいく。陸斗の左腕は小刻みに震えていた。

「……あれは見間違いなんかじゃありません!」

 陸斗は声を荒らげた。

 大河は陸斗の腕を掴み、落ち着かせようとする。陸斗は怒りと不安が入り混じった表情をしていた。あのとき何を見たのか、直接陸斗の口からまだ聞いていない。

律子はひどく動揺していた。陸斗にごめんなさいと謝り、言葉を続ける。どうしても都市伝説のような存在を肯定的に捉えられなくて、つい、否定的になってしまったと申し訳なさそうに言った。

「陸斗くんは何か別なものを見たの?」

 陸斗は大河に掴まれている腕を払い除け、律子の方を睨んだ。

 「いや、もういいです。すみません、俺、教室に戻ります」と言って、陸斗はカウンセラールームから出て行った。

 大河と律子は勢いよく開けられたドアの行方を目で追った。外の空気がすっとカウンセラールームに流れ、バダンという音と共に遮断された。

 数秒の沈黙の後、律子は呟いた。

「ごめんなさい。ちょっと言葉足らずだったね」

「いいえ」

 大河は床に視線を落とす。今は律子に対して、どういう顔をしていれば良いのかわからない。

 また、沈黙が流れる。間が持たないと、大河は立ち上がる。

「じゃあ、僕も教室に戻りますね」

「そう、また何かあったら、いつでも来てね」

「はい……あっ、そうだ。言い忘れていたことが……」

 資料を見ていた律子の手が止まる。大河は律子の視線を受け止めて、口を開く。

「今日の帰りに黒沢さん(クロサワ)の家に寄ろうと思っています」

 律子は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにその表情は和らぎ微笑んだ。

「そうなの。美咲さん(ミサキ)喜ぶんじゃないかしら。一人で行くの?」

「いいえ。木村綾子さん(キムラ・アヤコ)と行く予定です」

「そうなんだ……」

 律子は少し不安そうにしていた。無理もない。綾子と美咲は仲が悪く、今美咲が学校に来ない理由の一つだろうから。それでも、現状に変化を与える良い起爆剤になるだろうと大河は思っていた。

「でも、大河くんがいるなら大丈夫かな。美咲さんによろしく伝えといてください」

「分かりました。じゃあ失礼します」

 ドアノブに手をかけた瞬間、また、あの音が聞こえた。大河はドアノブを回さずに離した。そして、律子の方を向く。

「最後に、もう一つ訊いてもいいですか?」

「いいわよ」

「学校の裏の丘で何かあったんですか?」

 大河の言葉に律子は顔を歪ませた。

「……遺体が発見されたらしいのよね。しかも、この学校の生徒らしいよ。あっ、この話は誰にも言ってはダメね」

 律子は口元に指を一本立てて、そう言った。

「……なるほど、そうだったんですか。色々とありがとうござました。失礼します」

 一礼をして、カウンセラー室を後にした。



 この学校の生徒が亡くなったと聞いても、動揺しなかった。いやに思考が冷静に働き、今何をすべきかわかっている。NISEMONOに歩み寄らなければならない。そのためには、情報が必要だ。まず、陸斗から話を訊こう。

 教室に着いた頃には、三時間目の授業が始まっている時間帯だった。流石に、授業をやっているだろうと思い、大河は静かに教室のドアを開ける。すると、そこには教師の姿はなく、黒板にでかでかと自習時間という文字が書かれていた。

 ドアを開ける音で何人かの生徒はこちらを見た。が、その視線はどこか動物的本能で動いているようだった。意思も好奇心もそこには存在しない。ただ、音に反応した。

 大河はゆっくりと教室に入る。不気味なほど教室は静寂に包まれていた。とても、自習時間とは思えない。

 ふと、視線を陸斗の席に向ける。陸斗は机に突っ伏していて、すっかり自分の世界に閉じこもっているようだった。こうなった陸斗に話しかけるのは大変だと、大河はため息をつく。

 大河は慣れた足取りで自分の席への最短ルートを辿る。教室の窓際の前から三番目。そこが大河の席だ。

 鞄を机の横のフックにかけ、席に座る。

「今日、お前らどうしたの?」

 隣の席の飯田蓮(イイダ・レン)が小声で訊いてきた。

 前にいる陸斗は蓮の言葉に反応することなく、突っ伏したままだった。

「いや、NISEMONOっぽい奴に会って、何だかんだしていたらこんな時間に……」

 大河の言葉に何人かはこちらをぎらりと見た。あまりの鋭い視線がクラス中から飛んできて、怖気づく。それほど、敏感に反応されるとは思わなかった。

 その様子を察した蓮はメガネを中指であげ、周りを気にしながら言った。

「さっきある噂が流れてきたんだよ。しかも、それはNISEMONO関連の話だ」

 今日は嫌というほど、その言葉を耳にする。昨日と今日で一体何があったのかと思うほどだ。とはいえ、今は情報が欲しい。ちっぽけな噂の中にも、時折混ざる真実がある。それを見逃したくはない。

「どんな噂?」

 大河は周囲に注意を払いながら訊いた。

「うちの生徒がNISEMONOによって殺されたらしい。しかも、その被害者がこのクラスの木村綾子だって」

 うちの生徒が殺された。その言葉はさっきも聞いたから、それほど驚かなかった。それに、誰もが木村綾子は、いずれそういう運命を辿ることだろうと思っていたはずだ。

 木村綾子は学校で有名な不良だった。彼女の周りでは、いつも黒々としたものがうごめく。なるべく、かかわらない方が良い。そういう常識がいつの間にか出来ていた。

 少し気に入らない奴がいれば、集団暴行。いじめは日常化されていた。学校側も対策を迫られていたが、具体的な動きは何もなかった。野放しにされた彼女たちは陰湿さを加速させていった。

 綾子の仲間は、確か十人ほどいた。その中でも、佐々木奈江(ササキ・ナエ)と加賀萌絵(カガ・モエ)はかなり親しかったと思う。彼女たちを見かけるたびに、必ずその二人が磁石のように綾子にくっついていた。

 彼女たちの被害を受けた生徒は数え切れないほどいる。だから、彼女たちが死んでほしいと願っていた生徒は少なからずいたはずだ。

 おそらく、悲しみ半分と喜び半分がこの教室を支配している。それでも、不謹慎に彼女の死を喜ぶわけにはいかないから、この奇妙な沈黙が生まれている。皮肉なものだ。

 昨日、彼女と約束したことは白紙になってしまった。

 ――黒沢さんの家を教えてくんない?

 耳に障る甲高い綾子の声が脳内で再生される。大河はそれを頼まれたとき、どう答えようか迷った。でも、綾子の真剣な眼差しに押し切られ、結局、約束してしまった。

 大河は蓮に視線をぶつける。

「そうだったんだ。だから、こんな雰囲気だし、するどい視線を浴びたわけだ」

 大河がそう言うと、蓮は首を横に振った。

「それだけじゃない。もう一つ理由があるんだ」

 机に突っ伏していた陸斗はいつの間にか興味津々にこちらを見ていた。蓮も気づいたようで、陸斗を手招きする。じゃあ、一度しか言わないからよく聞けよ、と蓮は二人の顔を交互に見て言った。

 大河と陸斗は息を呑む。

 蓮の喉仏が動くのを見て、大河は肩に力が入った。

「NISEMONOはこのクラスに紛れていたんだよ」

 大河は思わずぞっとした。黒いフードを被ったあいつを思い出す。

「いや、待ってどうしてそうなるの?」

 陸斗の声はどこか震えていた。

「あくまでも噂なんだが、木村綾子は二日前には死んでいたらしいんだ」

 その言葉を理解した瞬間、全身に鳥肌が駆け巡った。昨日、確かに木村綾子は生きていた。学校に登校していた。いつものように、耳障りな甲高い声を引き連れ、後輩をいじめていた。あれは、NISEMONOだったというのだろうか。本物の木村綾子はとっくの前にこの世からいなくなっていたということなのか。

 唖然とするしかなかった。クラス中が、木村綾子の死どころか、次のNISEMONOがこの中に紛れているのではないかという疑心暗鬼に落ちていたのだ。

「それはあくまでも噂なんだろ? そんなの信じるのかよ」

「でも、現にお前らが見たんだろ? NISEMONOを。さっき言ったよな?」

 だんだん蓮は早口なってきた。心の中の焦りがそのまま言葉に乗って吐き出されている。

「いや、見間違いだったよ。多分」

 陸斗は呟いた。

 大河はえっという声が出そうになった。けれど、陸斗の表情を見てそういうことかと納得した。今は、事実よりも不安を煽ることの方が危険だと察知したのだろう。それには多少の虚偽も必要だ。

「確かに、見間違いだったかもしれない。実際に危害があったわけでもないし、フードを被ったやつなんてどこにでもいるだろうし」

 大河は努めて落ち着いた口調で言った。

 ――でも、連が何かを訴えようとした瞬間、ドアが勢いよく開いた。あちらこちらに向けられていた視線が一点に集中する。

「はい! 席に付けー」

 担任教師が教室に入ってきた。やる気のない低い声を携えて、猫背の体が大河の視界に入る。担任教師は出席簿を教壇に叩きつけ、よく聞けと左手をポッケに突っ込んだまま話し始めた。

 消化しきれない事実が教室中を漂っている。もうすでに知っている話を担任教師は淡々と話し続けた。木村綾子が亡くなったことも、怪しい不審者がいるということも、揺るぎない事実として確定した。ただ、少し違っていたことはNISEMONOという単語が伏せられていたということだけだ。

 担任教師は無神経な性格を押し殺して、慎重に言葉を選んでいるようだった。でも、誰も彼の話に耳を傾けていないだろう。今は、この中にNISEMONOが紛れているのではないかという不安だけが降り積もり、それぞれが怯えている。

 みなそれぞれが視線を交わす。お前か? あいつなのか? 祈るように手を握っている女子もいる。口を押さえて震えている奴もいる。大河はその光景をただただ傍観することしかできなかった。もどかしい気持ちが今にもはち切れそうなほど膨らむ。

「あれ? 今日の欠席は黒沢と誰だ――あっ佐竹か。珍しいな」

 大河はふと美咲の席を見つめた。今日、彼女の家に行く理由がなくなってしまった。二度とない機会だと思っていたのに。

 また、どこかで理由を見つけなくては――。

「やっぱり、あいつの呪いよ!」

 突然、椅子が倒れる音と共に、ヒステリックな叫びが教室中に響いた。クラス中の視線が、奈江に向けられる。隣にいる萌絵が奈江を必死になだめていた。

 噂が真実となり、受け入れがたい現実を突きつけられた彼女たちからすれば、煮えきれない気持があるはずだ。でも、そんな彼女たちに誰も同情の視線を送っていなかった。担任教師すら、また始まったと呆れた視線を送っている。

 自業自得だ。そんな心の声がどこからか聞こえてきそうだった。

 あいつの呪いよ――その言葉を大河は反芻した。

「絶対殺してやる! あいつを」

 そう言って、奈江は誰も座っていない空っぽの席を睨んだ。それでやっと、あいつが誰なのかわかった。

 綾子たちにいじめられて不登校になった黒沢美咲だ。いや、でもそれは事実であって、真実ではない。美咲は自らの意思を持って、学校に行くことをやめた。行けなくなったのではなく、行くことをやめたのだ。

 おそらく、線引きだった。一般庶民と貴族というような身分の差を見せつけるために美咲は不登校になった。学校教育なんてなくとも、社会で成功を収めることができると見せつけたかったのだろう。

 元々、黒沢美咲という人間は変わっていた。一人でいることを好み、団体行動をとことん嫌った。皆がやらないようなことに手を出して、周りと歩幅を一切合わせようとしない。その上、プライドが高く、すぐに人と壁を作る。だから、彼女との距離を縮めようとしても、絶対に縮まることはない。彼女に近づこうとした人間はことごとく、絶対に縮まることのないイタチごっこの沼にはまる。

 そして、極めつけは、ずば抜けた知能と美しい容姿だった。何もかもを掴み取ってしまう彼女は人間の域を超えていた。もう黒沢美咲という人間は自分たちとは違う人種だと皆が思うようになった。

 そんな美咲の存在が気に食わなかった綾子たちは、いつしか美咲をいじめるようになった。ただ、美咲もいじめに動じることはなかった。転ばせても転ばせても、だるまのように起き上がり、不敵な笑みを浮かべる。綾子たちの不満が消化されるどころか、増すばかりだった。

 そんなある日、その不満は爆発した。公開処刑だった。クラスの皆が見ている前で、髪を掴まれ、ほぼ無防備な状態の美咲を数人の女子たちが殴りつけた。その惨状に駆けつけた教師たちも手がつけられなかった。そのとき、美咲は感じたことだろう。自分の味方など誰ひとりいない孤独感を。

 でも、そんな中で美咲は笑っていた。どこか満足そうな顔をしていた。あれは今朝の陸斗の表情と似ていた。顔のパーツがバラバラになり、違う誰かに生まれ変わろうとした一歩手前の表情。

 誰もが美咲の動きに釘付けだった。また、美咲は笑う。

「思ったとおりだった。誰も彼もが中身のない偽物だ」

 あの冷徹な目は大河の中に深く刻まれた。ずっと目を逸らしてきたことを晒されたようで居心地が悪かった。誰も顔を上げられなかった。それはおそらく、綾子たちが一番感じたことだろう。

 ふと、美咲の横顔が浮かぶ。そういえば、彼女はよくフードを深々と被っていた。いつも大河の記憶の中では、その姿の彼女がいた。長い黒髪をしばり、白い肌を引き立てる黒色のフードを着ている。彼女はそのフードの淵を大事そうに握っている。そんな彼女と目が合う。その瞬間、胸が疼いた。

 この感情を何というのだろう。これは、おそらく疑念だ。無意識のうちにNISEMONOの特徴と彼女を重ねていた。記憶の奥深くに押し込めていた思い。彼女がNISEMONOではないかという疑いを。

 ――NISEMONOって知っている?

 彼女の優しいソプラノ声が聞こえた。

 最初に、NISEMONOの存在を知ったのはネットではない。美咲から聞いたんだ。都市伝説がお互いに好きというだけで、美咲は大河のテリトリーに踏み込んできた。でも、不思議と嫌ではなかった。むしろ、その距離が縮まって欲しいとさえ思った。夕日で赤く染まる学校の屋上で大河と美咲は繋がっていた。

 ――きみなら、本心で話せそう。

 美咲はどこか寂しげにそう言った。大河は何も言わずただ頷く。この頃から、大河と美咲の関係はおかしくなっていた。彼女の背中がすぐそこにあるのに掴めない。大河はそのミステリアスにどんどんはまっていった。

 ――綾子たちが私たちのことを恋人だってさっき言ってた。おかしいよね、本当に。

 彼女は笑ったが、大河は笑わなかった。なぜかとても面白くなかった。彼女はまた笑う。

 ――きみは、本当に。

 その先の言葉は思い出せない。風になびく彼女のフードだけがくっきりとくり抜かれ、脳の深いところまで入り込んだ。その印象だけが何度も浮かび上がり、言葉を押し込む。また、胸が疼く。

 そして、屋上の閉鎖と共に彼女との関係は、終わりを告げた。日常のほんのひと握りが変わっただけだ。そう思えば思うほど、胸が締め付けられた。

 それから一ヶ月後、黒沢美咲は不登校になった。

「じゃあ、今日はこれで終わり、解散」

 担任教師のやる気のない声で現実に引き戻される。解散という言葉が宙に浮き、空中を漂っている。教室の空気はより張り詰めていた。



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