第22話


 翌日の朝、登校してきた小鳥が教室に入ってくると、教室がざわついた。

 髪形をポニーテールにした小鳥は化粧をしていて、いつもは他の女子生徒よりも長くして穿いているスカートを、短くして穿いていた。

 教室内にいたクラスメイトたちの注目が小鳥に集まる。

 菱田が小鳥に近づいた。

「だははははは! いきなりどうしたんだよその格好。変なもんでも食ったか? 化粧までしてんじゃん」

「ほっといてよ」

 菱田が目を丸くする。

「おいおいなんだよその喋り方! いつもだったら、うっせえ! ほっとけこの野郎! とかって言うくせに、まるで女みてえじゃんか! ぎゃははははは! 似合わねえ! お前みたいなデカい奴が女みたいな格好しても、オカマにしか見えねえよ!」

「うるさいな。あっち行ってよ」

 小鳥の周囲に数人の男子たちが更に集まってきて、小鳥のことをからかいはじめた。でも小鳥はいつもみたいに乱暴な口調で言い返すことはしなかった。

 女を磨くと言っていたのはこのことだったのか。


 一時間目の授業は音楽で、おれは高岡と城嶋と一緒に音楽室に向かって廊下を歩いていた。

 高岡と城嶋が、小鳥の変貌について話し始めた。

「大木さん、いきなりどうしたんだろうな」

「さあな。まあ、なんかあったんだろうな。じゃないといきなりイメチェンしないだろ」

「前までの大木さんとギャップがありすぎて違和感ハンパじゃねえし! 菱田たちがからかいたくなるのも、あれじゃあしょうがねえよ。悪いと思ったけど、おれも見た時思わず笑っちまったし! あははは!」

「柊、お前大木さんと仲良いんだから、なにがあったか知ってるんじゃないの?」

「知らねえよ」

「ほんとに知らないのか? ほんとはなにか知ってるんじゃないの?」

「知らねえっつってんだろ!」

 おれのいきなりの怒声に、高岡と城嶋が一瞬黙り込む。

「……なに怒ってんだよ」

「うるせえ!」

「友達をバカにされたと思ったのか? だったらごめん。悪かった」

 友達をバカにされたから、おれは怒ったのか? ほんとにそれだけが理由だろうか。なんでおれはこんなにイライラしてるんだ?

 小鳥が変わった理由はわかってる。おれに好かれるためだ。あれは小鳥が勝手にやり始めたことだし、今まで以上にからかわれるのが嫌なら、女っぽくするのをやめて、また男っぽくすればいいんだ。それに助けてくれなくていいって、昨日小鳥言ってたし。でも、菱田たちにからかわれている小鳥を助けてあげたいと思ってしまってる。そんなことしたら、小鳥に期待をさせてしまうかもしれない。だから助けるべきじゃない。さすがに薬指のサインを出したなら助けようか。……なに考えてるんだよおれ。薬指のサインを出したとしても、助けない方がいいに決まってる。だっておれは小鳥をフッたんだから、必要以上に関らないようにした方がいいに決まってるじゃないか。だから自分から小鳥に話しかけるのをやめたんじゃないか。もう今までのように関らない方がいいって、わかってる。なのになんで頭から小鳥のことが離れないんだ。小鳥のことばかり考えてしまっている。

 くそっ、なんでだ! 

 いくら消えろ消えろと念じても、小鳥の姿がおれの頭から消えることはなかった。そのせいで、おれのイライラは続いた。


 昼休みに小鳥が弁当箱と魔法瓶を持って、おれの席にやってきた。

「そうちゃん、お昼ごはん一緒に食べよう。そうちゃんの好きな唐揚げ作ってきたから食べてみてよ」

 これもおれに対するアプローチなんだろうな。

「おれ高岡たちと食べるし、自分の弁当あるからいい」

 一瞬だったけれど、小鳥がショックを受けた表情になったことに、おれは気づいてしまった。

 小鳥はすぐに笑顔を取り繕った。

「そっか、じゃあしょうがないね」

 小鳥は踵を返して、春比奈のところに行った。

 小鳥にあんな顔をさせてしまったことで、おれは罪悪感を感じてしまっていた。

 絶対に恋愛しないと決めたはずなのに、一体おれはどうしたいんだよ!


 ある日の放課後、尾上が一緒に帰ろうと誘ってきた。断る理由もないので一緒に帰ることにする。

 学校を出たところで、尾上が切り出した。

「宗一君、最近ずっとイライラしているね。大木さんに聞いたんだけど、大木さんをフッたんでしょ。宗一君がイライラし始めたのはその頃からだよね。フッた宗一君の方がイライラしてるってことは、宗一君は大木さんのことが好きなんじゃないのかい?」

「いきなり、なに言い出すんだよ」

「フッた宗一君の方がなぜかイライラしていることと、君が彼女を作らないって言ってることを併せて考えると、君は大木さんのことを好きなんじゃないかと思ったんだ。これはぼくの想像だけど、君が彼女を作らないと決めてるのは、ご両親のことが関係してるんじゃない? それで本当は大木さんのことが好きなのに、大木さんを好きっていう気持ちに蓋をして、君は大木さんをフッた。自分の気持ちを大事にしないことっていうのは、自分の心を傷つける行為だから、傷つけられた君の心が怒っててイライラしてるんじゃないのかい?」

「お前もおれの家庭の事情をなんとなくわかってんだろ。おれは両親みたいになりたくないんだ。恋愛に心を支配されて、自分のことばっか考えて、周りの人間を傷つけるような醜い人間にはな」

「なるほど。でも宗一君が恋愛した時に、宗一君もご両親みたいに恋愛のことしか考えられなくなるかどうかはわからないよ」

「そんなことはわかってる。でも血が繋がってるんだから、なってしまうかもしれない。それが恐いんだ」

「君はその考えに囚われて、大木さんを好きっていう自分の気持ちを殺そうとして、でもうまくできなくてイライラを周りの人たちにぶつけて傷つけてしまってる。これじゃあ本末転倒じゃないのかい?」

「おれは自分の気持ちを蔑ろになんかしてない。おれはあいつらみたいにはなりたくないっていう自分の気持ちを大事にしてる」

「その気持ちよりも、大木さんのことを好きな気持ちの方が上回ってるからイライラするんだよ」

 おれの中で小鳥の存在が、そこまで大きくなっていたのか。おれはそんなにも小鳥のことが好きだったのか。尾上に指摘されるまで、気づかなかった。

 恋愛を優先しておれを傷つけた両親。小鳥を好きだという気持ちを抑え込もうとして、でもうまくできなくて、小鳥をフッて小鳥を傷つけ、おれ自身の心も傷つけ、高岡と城嶋も傷つけたおれ。欲望のままに恋愛をしても、我慢しても、誰かを傷つけてしまうっていうのか。

「なんでうまく気持ちをコントロールできないんだろうな。難しい」

「そんなの簡単だよ。自分の中で一番強い気持ちを大事にすればいいだけのことだよ。ぼくは漫画家になりたいっていう夢があるんだけど。両親が良い大学に入って、良い会社に就職しなさい。そうするべきだ。だからもっともっと勉強しなさいって毎日毎日うるさく言ってきたんだ。ぼくは両親には昔から逆らえなくて、漫画が描きたいのに、毎日親のいいなりになって何時間も勉強ばっかりしてたんだ。それなのにある時、テストの点が前回のテストの時よりもちょっと低かったからって、勉強してなかったんじゃないのか、もっと勉強しなきゃダメじゃないかって怒られた時に我慢の限界が来て、ぼくぶち切れちゃって、人生で初めて両親に反発して大喧嘩しちゃったんだ。自分を大切にしてないと、自分の心が怒ってその内爆発して、どうしたって周りの人たちを傷つけてしまうんだよ。だから、自分を大切にできない人が、周りの人間を傷つけずに大切にし続けるなんてことは不可能なんだよ」

「そう、だったのか」

「うん。このまま自分の気持ちを押し殺し続けてると、それに比例して、君は自分の周りの人たちを傷つけ続けることになるよ。それだったら、なってしまうかどうかわからない両親の姿に怯えるのはもうやめて、自分の気持ちに正直になるべきだと思う。大木さんみたいにね。今、大木さん頑張ってるよね。あれって多分、宗一君に好かれようと思って頑張ってるんだよね? 恋をしている今の大木さんの姿って、醜いかな? ぼくは美しいと思うんだけど」

 小鳥の姿を思い浮かべてみる。

 消えろ消えろといくら念じても、おれの頭から消えてくれない小鳥の姿は、どれもこれも醜くなんかなかった。それどころか、いちいち可愛らしい。

 小学二年生のある日の休み時間。小鳥と二人で喋っていると、クラスメイトの男子が訊いてきた。

「そうちゃんって大木さんと仲良いけど、大木さんのこと好きなの?」

 おれはこの時既に、小鳥のことを好きになっていた。それなのに、

「別に好きじゃねえし」

 傍にいる小鳥も聞いていて、おれは恥ずかしくて咄嗟に本当の気持ちを隠して誤魔化した。本当の気持ちを言えなかったは、恥ずかしかったからだけじゃない。小鳥に面と向かって好きだと言うのが恐かったんだ。

 自惚れでないのなら、小学二年生のバレンタインデーに、小鳥がおれに告白しようとしてきたことがあった。

 おれがチョコレートを受け取ると、顔を赤くした小鳥は俯いて、もじもじと指を弄りだした。

「あのね、えっとね。その、ね。えっとね……。あたしね。そうちゃんのことがね。えっとね……。その…………、やっぱりなんでもない!」

 小鳥はおれに背中を向けた。

 多分あの時小鳥は、おれに告白しようとしたんだと思う。おれはあの時それがわかってた。小鳥はおれのこと好きなんだって、あの時わかったんだ。だったらあの時、おれの方から告白すればよかった。それなのにおれは、両思いだってわかったにも関らず、『好き』の一言を言うのが恥ずかしくて恐くて、結局言えなかった。

 久しぶりに再会した小鳥はあの頃よりも成長していて、おれに告白してくれた。おれが恐くてできなかったことを、小鳥はやってのけたんだ。それなのに、おれはいつまであの頃のままなんだろう。臆病で、前に進もうとしない。おれはあの頃から変われていない。成長してない。

 ジャングルジムからたった一回落ちて骨折しただけで、高いところに上ることが恐くなってしまった。落ちる前はあんなに高いところに上るのが好きだったのに、二度と上らなくなった。

 両親に捨てられたからといって、恋愛の悪いところばかり見るようになって、良いところからは目を逸らし、恋愛しないと決めてしまった。たった一度のことで、おれは全てを捨ててしまっている。そんなこと、ずっと前からわかってた。恋愛しないって決めた時からわかってた。良いところから目を逸らして、全てを捨ててしまっていることに、おれは最初から気づいてた。それなのにおれは自分の殻に閉じこもり、恋愛しないと決めてしまった。それはただ単純に恐いことから逃げたかっただけだ。恐いことがあると、昔からおれは前に進もうとしない。恐怖に屈して前に進めなくなる。おれはそういう奴だった。


「勇気を出せば、その先には別世界が待ってるんだ。だから騙されたと思って勇気振り絞ってみろよ。ぜってー上ってみた方がいいって。こんなすげー景色、見なきゃもったいないって」


 小鳥に偉そうに言っておいて、自分は勇気を振り絞ろうともしていない。

 勇気を出して、おれに告白してきた小鳥は、格好良かった。恋する小鳥は強く、そして美しい。

 恋愛の悪いところばかり見るようになってたけど、恋して可愛く、強く成長して美しくなっていく小鳥の姿を見せられて、そんな小鳥の姿が頭から離れなくなって、否応なく恋の良いところを小鳥に思い知らされる。もう、悪い部分ばかりを見ようとしても、良い部分から目を逸らせなくなっていた。でも、恋愛することに踏みきることが、どうしても恐かった。


「あと一歩じゃないか。あと一歩の勇気を出すだけで、すげー景色が見られるんだ。だから頑張れ。勇気を出して一歩を踏み出せ!」


 そうだ。小鳥が見せてくれたじゃないか。恋をしてあんなに魅力的な人間になっていくところを。

 おれも小鳥みたいになりたい。恋することで、あんな風に強い人間に成長できるんだったら、おれも恋をしてみたい!

 おれは歩みを止めて立ち止まった。

「悪い尾上、おれ行ってくるよ」

 尾上が笑顔で首肯する。

「うん。いってらっしゃい」

 おれは踵を返して走り出した。


   ◆◆◆

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