第21話
小鳥に告白される前日、バイトを終えて家に帰ってきたら、玄関から言い争っているような声が聞こえてきた。不審に思いながら玄関に向かい、扉を開けると、そこには久しぶりに見る、おれの母親の姿があった。玄関で母と祖父母が対峙していた。
祖父が眉を吊り上げて怒声を放つ。そんな祖父の姿を、おれはこの時初めて目にした。
「宗一のことをほったらかしにしといて、どの面下げて帰ってきたんだ!」
「お金を貸して欲しいの」
憔悴の滲む顔で母親の発した声音は、弱々しいものだった。
「金だと? そんなことより宗一をどうするつもりなんだ!」
「彼が嫌がってるから、その子はいらない。お金を貸して欲しいのよ。彼に借金があって、それを返し終えたらわたしと結婚してくれるって言ってくれてるから」
「そんな勝手な話があるか!」
「宗一は奥に行ってなさい」
祖父の隣に立っていた祖母に促され、おれは靴を脱いで家に上がって、奥の部屋へと向かった。
暫くの間、言い争う声や物音が続いていたが、やがて静かになった。
久しぶりに会ったというのに、母親はおれに一瞥もくれなかった。
やっぱりおれはあんな風にはなりたくないと、強く強く思った。だから小鳥の想いに応えなかった。
小鳥をフッてから暫く経ったある日の放課後。
「そうちゃん、一緒に帰ろう」
と小鳥が誘ってきた。
フッたからといって冷たくするのも違うし、気を持たせるのも悪いからあんまり関らない方がいいような気もする。だったらどの程度の関り方をすればいいのか、おれはまだ決めかねていた。一緒に帰ろうと誘われて、一緒に帰っていいものか、断るべきなのか、迷った挙句、おれは一緒に帰ることにした。
教室を出て下駄箱に向かい、靴を履き替えて昇降口を出る。そして二人並んで歩いていく。その間、おれたちは他愛のない世間話を交わした。校門を出て暫く歩いたところで、小鳥が鞄からなにかを取り出した。
「そうちゃん今日誕生日だろ。おめでとう。はいこれプレゼント」
小鳥がおれに可愛くラッピングされたクッキーを差し出す。
今日はおれの誕生日だった。
おれは受け取っていいものかどうか逡巡する。
「そうちゃんがあたしのこと好きじゃないのは、フラれたからわかってるよ。でもあたしたち友達だろ。友達としてそうちゃんの誕生日を祝いたいし、プレゼントしたいんだ」
おれは迷った挙句、受け取ることにした。
なぜプレゼントを食べ物にしたのか。フッた相手である自分から物を貰ったら、それをどうすればいいのかおれが困ると思ったから、食べたらなくなる食べ物にしようと考えたんだろうか。
「ていうのは半分は本当なんだけど、半分は嘘なんだ。あたしそうちゃんのこと、諦めきれないんだ。だからそのクッキーにはあたしの下心が入ってる」
「だったら受け取れない」
おれはクッキーを小鳥に突き返す。それを小鳥が押し返してきた。
「半分は下心だけど、もう半分は本当に友達としてプレゼントしたいんだよ。せっかくそうちゃんのために頑張って作ってきたんだから、受け取るだけ受け取ってよ。お願い」
結局おれは押し切られ、クッキーを受け取っていた。
「やっぱりこういうことされたら困るよね。でも、あたしどうしてもそうちゃんのことが諦めきれないんだ。だからあたし、女を磨くよ。でもこれはあたしが好きで勝手にやることだから、いつもみたいに助けてくれなくていいから」
途中から小鳥がなにを言ってるのか、おれにはよくわからなかった。
おれたちの前方で、転がるボールを追いかけて、五歳くらいの男の子が車道に飛び出した。
「危ない!」
小鳥が叫ぶ。
自分目掛けて迫り来る車に呆然と立ち尽くす男の子目掛け、おれは鞄を放り投げて一切の躊躇なく駆け出す。
耳を劈くけたたましいクラクションとブレーキ音のする中、おれは男の子を抱きかかえると、そのまま勢いを殺さずに横に跳んだ。肉薄した車のヘッドライトが中空にいるおれの制服を掠って撫でていく。
男の子を抱えたまま地面に落下したおれは、そのまま数回転、地面を転がる。
男の子を立ち上がらせながら、自分も立ち上がる。
すぐに車から運転していたおじさんが出てきて、怪我はないかと問われる。おれは無傷だった。しかし男の子は転がった時に手と足と頬を擦りむいていた。他に痛いところはないかと訊くと、男の子は泣きべそをかきながら頷いた。泣いている子供だから、まともに返答できていない可能性がある。もしかしたら男の子は擦り傷以外にも怪我をしてるかもしれない。周囲を見回すが、男の子は一人で遊んでいたらしく、親らしき人物は見当たらなかった。だからとりあえずおじさんが男の子を病院に連れて行くことにした。もし後になって怪我してるとわかったら連絡してくれと言って、おれは名刺を手渡された。おじさんはおれに何度も頭を下げながら、男の子を車に乗せて病院へと向かって走り去って行った。
死ねなかったか。おれが車を見送りながら思ったことはそれだった。両親に捨てられてから、おれは自分の存在意義が見出せなくなっていた。だから今すぐにでも、いつ死んでも別にいいと思うようになった。さっきおれが一瞬の躊躇もすることなく、走り出すことができたのは、それが理由だった。でも死ぬにしたって、自分が生まれてきた意味がなにかしら欲しかった。だからなんの意味も見出せずに自殺するのは悔しいから躊躇われた。死ぬとしたら、誰かの役に立って死にたかった。誰かを助けて死ぬことは、おれの中で死ぬ価値に値する行為だったから、男の子を助けに行ったんだ。今回は死ぬことができなかったけれど、また今回と同じような場面に出くわしたら、おれは何度だって同じことをするだろう。
小鳥は手で口を覆いながら、その場にへたり込んでいた。車が走り去るとよろよろと立ち上がり、おれに歩み寄って来る。
「怪我しなかった?」
「ああ」
「一瞬、そうちゃんが車にぶつかったかと思ったよ」
「そうか」
「そうかじゃないよ。死ぬかもしれなかったんだよ?」
「かもな」
「かもなって、それだけ? 死んでもよかったみたいな口ぶりやめてよ。今のはいつものそうちゃんの優しさじゃない。自分を大切にしてなかった。そのまたどこを見てるのかわからない目もやめてよ。その目をしてるそうちゃん、見てるだけでなんだか不安になる」
「うるせえな。ほっとけよ」
「両親が引き取ってくれなくて、それで自分はいらない人間だとでも思ってんの? だから簡単に命を投げ出すようなことしたの?」
「お前には関係ないだろ」
「関係あるよ。彼女作る気ないって言ってたのも、両親のことが関係してるんでしょ。それが理由でそうちゃんが恋愛しなくなるなんておかしいよ」
「おれはあんな奴等みたいには、なりたくないんだよ」
「ならなきゃいいじゃない」
「おれの体の中にはあいつらの血が流れてるんだ。だからきっと、おれも恋愛したらあんな風になっちまうに決まってる」
「そんなのやってみないとわかんないじゃん」
「そうだけど、やらなかったら、あいつらみたいになる可能性はゼロなんだから、だったらおれは最初からやらないことを選ぶ」
「そうちゃんの両親は離婚しちゃったけど、恋をするってそんなに悪いことかな? そうちゃんの両親が恋をして結婚したこと、あたしはよかったと思ってる。だってそうちゃんが生まれてきたんだから。そうちゃんの両親が恋をしなかったら、あたしはそうちゃんに出会えなかったんだから。あたしそうちゃんと出会えてよかったって思ってる。そうちゃんに出会えてなかったあたしの人生なんて、そんなの絶対やだよ。もしそうちゃんをいらない人間だって言う奴がいたら、あたしがそいつを断固否定する。だってそうちゃんは優しくて、すっごくいい奴なんだから。こんないい奴がいらないわけないだろって。バシッと言ってやる!」
小鳥が瞳から大粒の涙を零し、両手でおれの制服を掴んですがりついてくる。
「だから、さっきみたいな危ないことはもう二度としないで! さっきそうちゃんが車に轢かれそうになった時、あたしすっごく恐かったんだから!」
小鳥がおれの胸に顔を埋めて嗚咽を漏らす。
そうか、おれは『ここにいてもいいんだよ』って、誰かに言ってもらいたかったのか。
この前、小鳥に一方的に映画を見に行こうと誘われた日、約束の時間を大きく過ぎていて、小鳥はもう待ってるはずがないって思いながらも、どうしておれはゾウ公園に足を向けたのか、その理由が今わかった。
昔一緒によく遊んでいた頃、待ち合わせ場所にはいつも小鳥の方が早く来ていて、おれが行くと、
「そうちゃん!」
とおれの名を呼んで、おれに向けてくれていたあの笑顔を、もう一度向けてもらいたかったから。
昔好きだった女の子に、親に捨てられた今のおれを、昔と変わらず受け入れて欲しかったから。
昔おれが大好きだった小鳥のあの笑顔を見るために、おれはゾウ公園まで走って行ったんだ。
堪えようもなく、両の瞳から涙が溢れ出てくる。抑えようとしても、嗚咽が抑えきれない。
「そうちゃん?」
おれの胸に顔を埋めていた小鳥が、おれの顔を見上げる。
おれは泣き顔を見られたくなくて、小鳥の体を抱き寄せた。
そして小鳥の体温を感じながら、おれはいつまでもいつまでも泣き続けた。
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