ヴィジャヤ・ダシャミ

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 自身が専有する執務室に浮出エキジットしたリチャード・ベイカーは、娘同然の女性を心配する善良な人間と主任捜査官の仮面をぬぎ、ふかぶかと吐息をもらした。彼の組織に多大な影響をおよぼした情報の提供者がいまだ行方不明という状況は、みずから陣頭指揮にたって捜査の影響範囲を調整する以上に、彼の神経を着実に磨耗させていた。

「おじさま」

 彼以外にはだれもいないはずのオフィスに、不意にしたしげな声がおこる。

 顔色をうしなうリチャードのデスクの真正面に、ふたりの女性の姿があった。はじめてこの部屋をおとずれたときとおなじパンツスーツで、メイクや髪もきちんと整えられ、一分のすきもない装いである。オニキスをあしらった金細工のごとき車椅子くるまいすの女性は、やわらかな笑みをうかべ、日陰におかれた白磁のような女性は、ひとみに透明な色彩をたたえている。

 発した声がかすれたことにきづき、咳払せきばらいしてから問いなおした。

「いつの間にここへ?」

「五分ほどまえよ。会議中だったからお邪魔にならないようにしていたの」

「どうやって? 君たちがきたことに、まるできづかなかったんだが」

「機械の目も人間の目も、簡単にあざむくことができるわ」

 オペラの説明をするようにクレアがつげる。リチャードは拡張現実で確認するが、堅牢けんろうさにおいてまちがいなく世界最高ランクに位置する連邦捜査局のセキュリティーのログに、彼女の足跡は何ひとつのこされていなかった。

「そうか。それはしらなかった」

「善守者蔵於九地之下、善攻者動於九天之上。

 守備のたくみなものは地のそこにひそみ、攻撃のたくみなものは天をわたるように行動する。ダニエルがおしえてくれた箴言アフォリズムよ」

 休日に自宅をたずねてきたようなクレアの態度に違和感をおぼえながらも、リチャードは落ちつきを取りもどしつつあった。

「クレア、なぜ急に行方をくらましたりしたんだ。みんな心配している。アシュレイやミシェル、それにCTDのメンバーたち、……もちろん私だって」

「おじさまとおはなしする機会が必要だったからよ、ふたりきりで」

「それならそういってくれればいい」

「私とダニエルがあつめた情報は役にたってる?」

「もちろんだ。これで巨大な犯罪組織を根絶することができるだろう」

「私はそうはおもわないわ。残念ながら」

「……どういう、意味かな?」

 まっすぐにリチャードをみつめたクレアは、ふたたび微笑ほほえんだ。

羅刹らせつの王ラーヴァナは、十の頭をもっているのよ。パトリック・ベネットはそのひとつにすぎない。だからあの男がいなくなったところでラーヴァナはしんだりしないわ」

「まだほかにも共犯者がいると?」

「ええ。私ね、ずっと疑問だったの。なぜ父が、命をおとすような事態におちいったのか。妻と娘がテロに巻きこまれて疲弊していたから? ……ちがうわ。父の不意をつくことができる人物の犯行だったからよ。父の能力を熟知していたその人物は、計画のはやい段階で脅威を排除することをきめていた」

「なるほど。ジェイムズをおそれての犯行だったということか」

「ラーヴァナは私の抹殺指令もだしていたわ。殺害の機会ならいくらでもあったはずのアシュヴィンツインズを退院させたあと、私が連邦捜査局に入ってから。よっぽど自信があったみたいね、捜査官をころすことに関して」

「君もねらわれていたのか? どうしてそんな重要な情報を共有してくれなかった」

「あら、おじさまはしっていたでしょう?」

「なぜそんな風におもうのだろう」

「だって、おじさまもラーヴァナだから」

 ほがらかにクレアは言葉をつむぐ。連邦捜査局の主任捜査官であり、父の親友でもあった善良な男は完全に表情を消しさり、またあらたな仮面をかぶろうとしていた。

「……大したものだ。よくそこまで見抜いた。さすが、ジェイムズの娘だ」

「お褒めにあずかり光栄だわ」

「だが私もまた、ラーヴァナのひとつの顔にすぎない。どうだろう、私たちの力にならないか? 君ほどの能力があれば、ラークシャサとしてこの世界をほしいままにできるだろう」

 リチャードの拡張現実に、不意に映像が差しこまれた。この部屋をななめうえから撮影したもので、思いつめた顔でなにごとかを彼にうったえるクレアと、そのかたわらで円筒形の物体を手にしたシュリがうつっている。

「これは君が私にみせているのか?」

「ええ。そこの防犯カメラがいま記録していることになっている映像よ、おじさま」

「現実の光景とは随分とちがうようだが」

「そうね。親友の娘へむけるあなたのやさしさを勘違いした私が横恋慕して、無理心中をはかろうとしているの。メロドラマみたいでしょう?」

「なぜこんな三文芝居を?」

「おじさまがおかした罪をすべて白日のもとにさらすのはとても簡単なことよ。どれほど有能な弁護士をつけて、多方面に工作をしたとしても、決してのがさない自信もある。でもそんなことをしたら、ミシェルやアシュレイおばさまは犯罪者の家族ということになってしまうわ。あなたの本当の顔をしったふたりは、ひどくきずつくでしょう。けれども世間は、そんな善良でやさしいふたりを追いつめるわ、私はそんな事態をまねきたくないの」

「それで、自分を悪人にして復讐ふくしゅうをはたそうと? 実にうつくしい」

「うれしいわ。そう仰っていただけて。シュリ、おねがい」

「承知しました」

 シュリはバッグのなかから手榴弾しゅりゅうだんを取りだす。

「一体どこから、……そんなものを?」

「父のふるい馴染なじみから」

「君や私が命をおとさず、アシュレイやミシェルも君をうらむこともない解決があるとおもうのだが」

「おじさまは私から、あまりにおおくをうばいすぎたわ。その選択肢をえらべないほどに」

「それなら仕方がない。残念だよ、クレア」

 あまりに自然にリチャードの腕が持ちあがり、その手のなかに拳銃けんじゅうがあらわれた。瞬時に精密な二点射撃がおこなわれる。脳幹を着実に破壊し、即座に人間の機能を停止させるための。

 だがそれがクレアにとどくことはなかった。指先で摘みとったふたつの弾丸を反対の手のひらにおとすと、彼女は瞠目どうもくするリチャードに微笑みかける。

「拳銃弾の速度が秒速千三百フィート程度で初活力がおよそ三百五十フィート重量ポンド。機械化きかいか躯体くたいというハードウェアが、これをつかみとることは物理的に不可能ではないの。それが実現できないのは、ハードウェアをあやつるソフトウェア、人間の処理速度がおよばないから。けれども脳というハードウェアをはるかにうわまわる電脳空間に生まれかわった魂は、それを可能にできる」

「クレア、君は体が……」

「便利でしょう? 私の脳をデータ化する際につくられた欠損を、シュリのデータで上書きしたの」

 車椅子から立ちあがったクレアは、シュリから手榴弾を受けとった。安全ピンにつづいて、レバーをはずす。

「さようならおじさま。愛してたわ、とても」

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