研究者

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 景色が一変する。メタバースプロトコルが適応され、仮想現実が構築される。

 しろく、清潔感のあるひろびろとした部屋だ。中央に数台の大型機器がおかれ、壁にそってデスクがならべられている。

 そのうちのひとつ、超高層ビル群をのぞむ窓のちかくにある机に、クレアの車椅子くるまいすはとめられていた。デジタル・フォト・フレーム、懐古趣味なアナログノートと万年筆。みなれた、そしてうしなわれた眺めは、彼女の心のやわらかな部分を、容赦なく締めつけた。シュリとであい、そしてすべてをうばわれた場所、母親のアヴィーラの研究室である。

 母親の椅子にすわったファンは、まっすぐにクレアのひとみをみた。

「神経科医にして心理学および神経科学者でもある稀代きだいの天才サウンダララジャン・アヴィーラ・ジェイムズ博士。あなたは彼女の研究内容をしってる?」

「唐突ね。くわしくはしらないわ。たしか脳の研究だったとおもうけれど」

「そのとおり。博士はそれまで誰も思いつかなかった大胆な方法で脳のメカニズムをさぐろうとしていたの。すこしレクチャーしておきましょう、彼女の研究について」

 鳳がみじかいメロディーを口ずさむと、半透明の女性のシルエットがあらわれた。脳と神経の経路が光の線で精彩に描きだされている。

「人の遺伝子配列を解析したヒトゲノム計画の完了から約二十年後、複数の研究機関による国際的な協力体制のもとでおこなわれていた人体の神経伝達の解析が完了して、脳への入出力の仕様が完全に解きあかされたわ。この結果をうけて開発されたのが、神経伝達に情報を付与する拡張現実や、伝達そのものを上書きする仮想現実、そして機械化義肢ね。人体の代替技術の真骨頂が機械化躯体くたいで、アンドロイドの体もその延長線上にあるの」

 鳳がさらに旋律をつむぐ。脳が拡大表示された。

「けれども脳は、ブラックボックスのままだった。神経細胞の働きや伝達の仕組みといったミクロが解明されても、そこから人の思考や感覚といったマクロにいたる橋頭堡きょうとうほは発見されず、複数の部分が協調して動作することからホログラム的ともいわれる脳の機能は、研究者たちを悩ませつづけたわ」

 一枚のパネルがあらわれ、白衣をまとったアヴィーラを中心にした、彼女の研究室のメンバーを撮影した集合写真が映しだされる。いくつか見覚えのある顔もあった。

「停滞をつづけていた脳機能の解析に、まったくあたらしいアプローチをこころみたのが、サウンダララジャン博士よ。心理学・神経科学者であり、ソフトウェア工学についても造詣ぞうけいの深かった博士は、電脳内で脳を再現し、それを解析することで脳の機能を解明しようとしたの。高次脳機能障害や神経発達障害の治療を最終的な目標とした彼女の研究は、順調に成果をあげていったわ」

 パネルの表示内容が切りかわる。数年前のネットニュースの記事には、握手をかわすアヴィーラと、ミルキーオーシャン・サイバネティックス・テクノロジーズ社の最高経営責任者パトリック・ベネットの画像がそえられていた。

「新進気鋭の企業ミルキーオーシャン・サイバネティックス・テクノロジーズの全面的な協力のもと、データ化された脳を動作させるためのエミュレーターはバージョンアップを繰りかえして、ついには人間の脳の再現すら可能になった」

「……コンピューターのなかに、人をつくるってこと?」

 口のなかの渇きを感じながら、クレアは鳳をみた。温厚で涙もろく、どこまでもお人好ひとよしな母親が、人の尊厳までおびやかすような研究をおこなっていたとはおもえなかった。

「あくまで理論上の話よ。実現にはひとつのおおきな問題があったの。それがリバース・エンジニアリングね」

「リバース・エンジニアリング?」

「脳を解析してデータをえることなんだけど、その為には対象の脳を詳細に分解する必要があったの。そんなことを人間相手にできるはずがないでしょう? サウンダララジャン博士は倫理的な視点から人間の脳のリバース・エンジニアリングを反対していたし、動物のエミュレーションの解析を通じて、いずれは人間の脳の仕組みも解明可能だという姿勢をとっていたの」

「……そう、それならよかったわ」

「さあ、閑話休題よ。ついてきて」

 母親の研究者としての側面をみせられてとまどうクレアを、鳳はつぎの世界へとみちびいた。

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