レクイエム

     ★☆★☆★


 聖書の一節を暗誦あんようする司祭の声がひびく。

 無数の花でかざられた棺のかたわらにたたずむ、いまにもたおれてしまいそうな中年の婦人と、彼女をささえる夫、泣きはらしたまぶたをつよくとじた青年の姿がいたいたしい。あつまった人々は一様にくらい表情でうなだれ、すすり泣きが途切れることはなかった。

 マンハッタンの高層ビル群をのぞむ墓地に、えわたった青空から陽光がそそぐ。すずやかな風がわたっていった。

「彼女と、すべての忠実なる故人たちの魂が、神の慈悲によってやすらかでありますように」

 司祭の導きで最後の祈りがささげられ、埋葬の儀式をおえた参列者たちはひとり、またひとりと墓から離れていく。したしい人だけがのこされたのち、一番とおくから儀式をみまもっていたクレアは、車椅子くるまいすを操作しようとして、動きをとめた。いまにもあふれそうなかなしみのうえに微笑ほほえみを懸命につなぎとめたショーンが、ひとくみの夫婦をともなってちかづいてくる。

 どこなくメグミの面影のある東洋人の夫妻をみて、胸のおくに鈍痛が走った。身動きもできないでいるうちに、三人はクレアのまえにたった。

 ひざをおって視線をあわせ、ショーンがいう。

「こんにちは、モーリスさん。来てくださってありがとうございました」

「い、いいえ。……私は参列すべきではなかったのでしょうけれど、それでもどうしてもメグミにお別れをしたくて……。ごめんなさい」

 悲痛な顔になったショーンが、何事かを夫婦に語りかけた。あおざめた婦人は足早にちかづいてくる。すぐ目のまえで足をとめる。つよく瞼をとじたクレアは、おとずれた予想外の感触に体をこわばらせた。

 やわらかなぬくもりだ。膝をついてクレアの両手をとった婦人は涙をうかべ、異国の言葉で懸命に何かをかたっている。困惑しているとショーンが笑顔でつげた。

「あなたに再会できたことを、メグミはとてもよろこんでいたそうです」

「え……?」

「勇気を分かちあってふたたび歌えたことを、しあわせそうに連絡してきたと、そうおっしゃっています」

「ちがう、ちがうんです。感謝するのは私の方。メグミは勇気を振りしぼって、私に重大な手がかりをわたそうとしてくれました。それなのに、私は……」

 声をつまらせたクレアを、婦人はつよく抱きしめた。やさしく背中をさする感触が、ひびわれた心に染みとおっていく。澄みきった風が、重なりあう嗚咽おえつを運びさっていった。

 悲しみがゆっくりとデクレッシェンドしたあと、婦人は体を放すとメグミによく似た笑顔をうかべて言った。

「もしよければ、彼女のために歌ってほしいと。……ずっとあこがれていたあなたの歌に送ってもらえれば、メグミもきっとよろこぶとおっしゃっています」

 ショーンの通訳をきいて驚きの表情をうかべたクレアに、彼女がうなずく。

「僕からもおねがいします。メグミが、しあわせな気持ちでたびだてるように……」

「でも、私の歌は……」

 困惑するクレアに、かたわらから透明な声音がつげた。

「あなたの歌は本物です。ミシェルもそういっていました。オリジナルの心に春を呼びこんだときと、きっとなにもかわっていません」

 うたうことに対して、これほどの恐怖を感じたことはなかった。メグミと歌声をかさねたときにも、おおきなコンクールにも、演奏会にも、この瞬間ほどの重圧はなかった。だがクレアは、懸命に翼をひろげる。たった数度あっただけにもかからず、人生をふかくまじえることになった女性を思いうかべながら。

 息をすった。花の香りをかぐ程度に。あごを、のどを、横隔膜を、姿勢を、体のすべてをあるべき形にととのえ、そして歌声を発した。帰りかけていた参列者たちが、一斉に足をとめて振りかえった。


「慈悲ぶかきイエズスよ、主よ。

 彼らに安らぎをお与えください。

 彼らにとこしえの安らぎをお与えください」


 たった八語のラテン語の祈りだ。繰りかえし唱えられる言葉が、ゆったりと周囲を静謐せいひつな空間へと染めあげていく。

 ピエ・イェズ。発表当時は死のおそろしさが表現されていないと批判されたフォーレの流麗なレクイエムの、死とは永遠の安らぎという信念のもとに作曲された一連の曲のなかでも、比類なきうつくしさでしられたソプラノの独唱だ。

 誰もが身動きもできないまま、ただ一心に聴きいる。うるわしき歌声が織りなす、清浄な祈りに心をうたれて。


 何度も頭をさげて感謝をつたえるメグミの両親から、葬儀のあとに教会でおこなわれる会食にさそわれたクレアは、丁重に辞して別れをつげた。

 シュリとともに車椅子で墓地の入り口までもどる途中、一度だけ振りかえった。たかい秋空のした、なだらかな草地には無数の墓標が整然とならんでおり、その一画にぽつりとおかれた棺をかざる花々は、そそぐ陽射ひざしをうけてかがやいている。彼女の居場所を、天にしめすように。

 教会にむかう参列者たちからひとりの男性がはなれ、周囲をたしかめてクレアをみつけると、あわてた様子で手をふって駆けよってきた。

「モーリスさん、呼びとめてしまってごめんなさい」

 息をきらせてショーンがいう。

「いえ。どうされました?」

「大切なことを失念していました。メグミの部屋の片付けをはじめたのですが、これがみつかったんです」

 彼が上着のポケットから差しだしたのは、透明なカバーにト音記号の描かれたメモリーカードであった。受けとったシュリがそれをたしかめ、うらがえしてクレアにみせた。

 目をみひらく。クレアへ、と手書きでしるされている。不意に文字がぼやけた。そのまるい筆致があまりに彼女らしくて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る