みなかった夢

     ★☆★☆★


 ひんやりとした感触が、不意に両足をつつんだ。

 驚きで体をふるわせる。つよくとじたまぶたのおくからあかるい日差しを感じた。さきほどまでとはまったくちがう、澄明な大気が鼻腔びこうをみたす。

 おそるおそるひとみをひらいて、息をのむ。みわたすかぎりの冠水した平地がひろがっていた。両手には手押し用ハンドルがあり、車椅子くるまいすではほっそりとした後ろ姿が白銀の髪をなびかせる。

 繰りかえし夢にみた光景だった。だがいま、自分はねむってなどおらず、辱めと暴力を必死にこらえていたはずだ。クレアは混乱したまま周囲をみまわした。

 思いだす。クンバカルナと入れかわるように、何かがあらわれたのだ。緋色ひいろの、鳥に似た姿の何かが。

 クレアの思考を断ちきるように、シュリが振りかえった。端正な横顔を涙がつたう。本来ならクレアがどうしたのかと問いかける分の間をおいて、ちいさく首をふった。透明な瞳をまっすぐにむけて、彼女はたずねる。

「もし未来を垣間みることができるとしたら、あなたは何をしますか?」

「わ……からない、わからないわ。私には」

「あなたらしい答えだとおもいます、とても」

 こぼれた本音にかまうことなく、シュリはおなじ応答をかえしてクレアの手をにぎった。たしかな現実感をともなったぬくもりがかなしかった。

「私たちを焼きつくす炎をおってください」

 心臓が、つよくうった。この言葉の直後、テロが発生してくろい炎がすべてを焼きつくし、シュリはうしなわれてしまう。言葉をつむいだ。すこしでもながく彼女をとどめるために。わかりきった未来にあらがうために。

「ねえ……、どうして? どうして私はそうしなければならないの?」

 くろい炎はおとずれない。現実にはなかった場面だ。シュリはもう一方の手をクレアの手にかさねた。勇気づけるように。あるいはすがるように。

「私のねがった未来があるからです、そのむこうに」

「……え?」

 突然、風景がぼやけた。世界はやみに溶けはじめる。だがそれは、すべてを消去しつくす電子の炎ではなかった。おだやかな眠りへといざなうような溶暗だ。うすれていく意識のなかで懸命に呼びかける。声が輪郭をうしなっていく。

「まって! シュリ。未来って一体なんなの? シュリ、いかないで!!」


「シュリっ!」

「はい」

 クレアが瞼をひらくと同時に発した言葉に、平坦へいたんな声が応じた。

「え……?」

 はじかれたように声のした方をみる。背筋をのばしてすわるヴァイオレットの瞳があった。

「……シュリ?」

「はい」

「ここは、どこ?」

列得氏針灸所リエドシー ジェンジゥスオ、リード医師の診療所です」

 そう、とため息をつく。みなれない天井をながめてから、周囲を確認した。シーリングライトや窓の格子に幾何学模様の意匠がほどこされた部屋は、シーラが入院している病室とおなじデザインだ。

「ねえシュリ。……これは現実、かしら?」

「現在時刻は十月十五日午後九時三十二分、あなたの名前はクレア・モーリスで、私はあなたのドリー、シュリです。判断基準になりますか?」

「……ええ。これは現実ね、きっと。手をにぎってもらっていいかしら」

「はい」

 手がやわらかなぬくもりにつつまれる。力が抜けかけた瞬間、かずかずのけがらわしい仕打ちが胸をよぎった。途端に声が震えだす。

「私、いきてるのね……」

「はい。ダニエルが尽力してくれました」

「そ、うだったの……。どうしたの、かしら。急に震えが、とまらなくなって……」

 シュリはベッドのわきにひざをつくと、クレアを抱きよせてよこをむかせ、繰りかえし背中をさすった。ゆっくりと、愛情をこめて。すこしずつ、心と体の強張こわばりがとけていく。あたたかな安堵の涙は、しばらくのあいだあふれつづけた。

 クレアがおちついてから、シュリがフレデリックをよんだ。普段とかわらぬ凶相ではあったが、接触が必要な検査はシュリに指示しておこなわせる姿勢や言葉のはしはしには、きずついた人間に対する配慮があった。

 診察をおえたフレデリックがいう。

「問題ない」

「ありがとうございました」

「礼は必要ない。面会希望者がいるが、気乗りしないなら追いかえす」

「誰です?」

「捜査官たちだ」

「それでしたら、あいます」

「つたえておこう。今日はやすんでいけ」

 白衣をなびかせてフレデリックが病室をあとにする。シュリにたのんでベッドを操作して上体をおこし、いくらかの時間がすぎてから遠慮がちなノックの音がひびいた。応じるとニーナが顔をみせる。

「はい、クレア」

「ニーナ。心配させてしまったわね」

「気にしないで。すわっても?」

「どうぞ」

「ありがとう」

 ニーナはベッドのわきの椅子にシュリとならんでこしかけた。

 微笑ほほえみをかわす。クレアの手をとった彼女は、そっと額にあててうつむいた。

「よかったわ。あなたが無事で……」

 声にしめりけがまざりかけたニーナは、あわてて唇の両端を持ちあげる。

「あたしがないても仕方がないわね。あなたのバディのおじさんとうちの坊やも会いたがってるんだけど、かまわない?」

「ええ、もちろんよ」

 ニーナが拡張現実の共有レイヤーでよびかけると、横開きの扉がひらいた。緊張した様子で入ってきたダニエルがじっとクレアをみつめる。

「なんて顔してるの。私は大丈夫よ、ひどい目にはあったけど。あなたのお陰よ。ありがとう、ダニエル」

「そうか、よかった。……いや、よくないか。すまない。こんなとき、何をいえばいいのかわからないが、とにかく君を取りもどせてよかった」

 脱力してしゃがみこむダニエルのうしろから、毛足のながい大型犬をおもわせる人物が姿をみせた。

「やあ。君の顔がみられて安心したよ」

 みどりの瞳に柔和な光をうかべたトラヴィスは、ダニエルに視線をむける。

「おやっさんでもあんな必死な顔するんですね」

「いやその……、まあなんだ。お嬢ちゃんなら大丈夫なのはわかっていたんだがな」

 頭をかくダニエルをみて、ニーナがクレアにわらいかける。

「すごかったのよ、あのときのダニエル。勝手にポリスのバイクで出てっちゃうし。そのうえそれを――」

「――よし、その話はそこまでだ。ニーナ、トレイヴ」

 親密でなごやかな空気がみちる。クレアが首をかしげた。

「そういえば、どうして私はここにいるの? ミルキーオーシャン・サイバネティックス・テクノロジーズの病院がかかりつけなんだけど」

「非常事態だったものでな。私の独断でえらばせてもらった、信頼できて腕のたつ医師を。どこでぎつけたのかアーロンとかいう医師が連絡してきたうえに、かのパトリック・ベネットまで出てきたが、ことわらせてもらった」

「なにか不便を感じたらすぐに連絡するよう、伝言をうけたまわっています」

 わずかに苛立いらだちをにじませたダニエルとは対照的に、淡々とシュリがつげた。

「まあ、散々な目にはあったけど、ひとつ報告できることがあるわ。オーウェン・ビショップ。それがクンバカルナの本名よ」

 けわしい表情になったダニエルがたずねる。

「どうやってそれを?」

「油断したのね、あの男。浮出エキジットする直前、私のSCUBAの制御がもどったの」

「なるほど。さすがだな」

 ひとつ深呼吸をしてからクレアが口をひらいた。

「それで、メグミは……?」

「……すまない。間にあわなかった」

「そう……」

 目をふせたクレアは、鼻のおくのしびれがみちびくものをりすごそうとつよく瞼をとじたが、とどまるはずもなかった。真上をみすえて、歯を食いしばる。その日何度目かの涙が、すべらかなほおをぬらした。

「私のせいね。彼女を、呼びもどしてしまったから……」

 丁度ちょうどそのころ、診療所が入った雑居ビルの屋上にとまっていた緋色の鳥は、翼をひろげ、夜の空へと飛びさっていった。

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