夕べの祈り

     ★☆★☆★


 その日の空はたかく澄みわたっていた。あたたかな色合いをした木造の軒のしたから空をみあげていたクレアは、視線をおろしてちいさな時計台をみる。まもなく午前十時だ。通りむかいにあるカフェのテラス席から、なごやかに談笑する声がきこえた。

 木立のむこうから車輪がレールをふむ音がちかづいてくる。次第に音量をおとしながら間隔をひろげ、やがてきこえなくなった。クレアがとなりをみると、透明な視線を改札にむけていたシュリが、彼女と目をあわせてちいさくうなずく。

 電車が駅をでていったあと、まばらに改札をでてきた人のなかに、こがらな女性の姿があった。ふたりにきづいて一揖いちゆうする。

「こんにちは。クレア、シュリ」

「メグミ、こんにちは。きてくれてありがとう」

「私の方こそ、よんでくれてありがとう」

 ぎこちなく笑みをかわしたふたりは、駅の駐車場にとめてあった車にのった。シュリの運転で走りだした車は、道を譲りあっているような面映おもはゆい空気のなか、閑静な住宅街をぬけてクレアの家に到着する。

 クレアの車椅子くるまいすにつづいて、メグミはリビングに入った。庭に面したおおきな窓と煉瓦れんがの暖炉をみて、彼女は笑顔になる。

素敵すてきなおうちね」

「ありがとう。すわって」

 お茶をいれてくると立ちあがったシュリをみおくったクレアは、メグミの視線が、部屋の一角におかれたアップライトピアノにむけられていることにきづく。

「つらかったらやめてもいいのよ」

 ぴくり、とちいさく体をふるわせたメグミはしずかに首をふった。

「私も乗りこえたいの。歌を取りもどしたい、この手にちゃんと」

「取りもどす、か。とてもいいわね。私もそうしたい」

「クレア、ききたいことがあるんだけどいい?」

「何かしら」

「どうしてあの曲をえらんだの?」

「ほかもかんがえたのよ。ソプラノのデュエットなら、メグミの故郷にちなんで蝶々ちょうちょう夫人ふじんの花の二重唱とか、あとはラクメとか。でもどっちのお話もハッピーエンドじゃないでしょう? 私たちの物語は絶対にハッピーエンドじゃなきゃいけないから、ぴったりな曲ってこれしかないって、そうおもったの」

「ハッピーエンド。そうね、理想的だわ」

 シュリがもどってきて三人分のお茶をいれると、リビングにはゆたかな香りがみちた。それまでより幾分か親密な会話がかわされ、ポットがからになったころ、クレアとメグミは、どちらからともなく視線をかわした。ふたりの雰囲気を察したシュリは、立ちあがってピアノにむかう。

 二重唱の相手をしてほしいとクレアがメグミに連絡をしたのは一週間ほどまえのことであった。突然の申し出に困惑するメグミは、ながいあいだ立ちどまっていた自分たちがまえへすすむには、ただひとつの方法しかないというクレアの言葉で意を決した。それぞれの思いを胸に練習をかさねたふたりは、五年ぶりの舞台にむかう。ただひとりの観客もいない、たがいの再起をかけた舞台へと。

 台本リブレットの通りであれば、ならんでひざまずいたふたりが両手をあわせる場面だが、メグミはクレアのまえにひざまずいて手をとる。機械仕掛けの腕ごしにたしかなぬくもりを交換しながら、視線をかわした。シュリのかなでるピアノの伴奏が、ゆったりとした宵の空気を描きはじめる。夕べの祈り、歌劇ヘンゼルとグレーテルの第二幕で、おさない兄妹が眠りにつくまえにささげる曲だ。


「夜、わたしがねむるとき、十四人の天使さまがあらわれます」


 ふたつの歌声は、自然にうまれてきた。支えあうようにひびきながら、素朴な調べでおさない祈りをつむいでいく。


「ふたりは頭に、

 ふたりは足元に、

 ふたりは右に、

 ふたりは左に」


 重なりあっていた旋律は次第に離れ、それぞれのメロディーをえがきながらゆっくりとふくらんでいく。


「ふたりはわたしをつつんで、

 ふたりはわたしをめざめさせて

 ふたりはわたしをみちびく、天の楽園へと」


 しずかな後奏の残滓ざんしが融けさったあと、ふたりはまぶたをひらいた。

「メグミ、ないているの?」

「あなたこそ」

「え……?」

 メグミがほそい指先をのばし、クレアのほおから透明なしずくすくいとる。それはまちがいなく、五年まえに数ヶ月の昏睡こんすいからめざめて絶望のふちにおちて以来、数かぎりなく流してきた血の味がするそれとはちがう、きよらかな涙であった。

 包みこむように、あるいはすがるように、メグミがクレアを抱きしめる。

「……ごめんなさい、私もあなたを抱いてあげればいいんだけど」

「わかるわ、あなたの心が私を抱いてくれているのが……」

 やわらかな光につつまれた午前の部屋に、静謐せいひつ嗚咽おえつがみちていった。


 再起をかけた舞台をおえたふたりは、シュリの運転で駅にもどった。

 数時間しかたっていないはずなのに、朝この場所にいたことが随分とおいことのようにおもえ、まだあかい目で微笑ほほえみあう。拡張現実で時刻表をたしかめたシュリがいった。

「次の電車は五分後です」

「ありがとう。メグミ、そろそろホームにいった方がいいわ」

「ねえ、クレア。私たち、友だちになれるかしら」

「もちろん。これからもよろしくね」

「ありがとう。あなたのおかげでまたうたえるわ」

「私もよ。あなたにあえなかったら、私もうたう勇気はもてないままだった」

「……今度は、私がするべきことをしないとね」

「するべきことって?」

「連絡するわ。ちかいうちに、かならず」

 決意にみちた目でクレアをみたメグミは、はれやかな表情で手をふり、駅に入っていった。

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