コンコーネ

     ★☆★☆★


 手入れの行きとどいた庭に面した昼下がりのリビングルームには、あかるい日差しと歌声、そしてピアノの音がみちていた。

 うたうことの喜びにあふれた声をひびかせるミシェルが、旋律を表現しようと身動きするたびに、やわらかな金の髪がゆれる。アンダンテ、歩く速さでという速度記号と、動きをつけてという意味の発想記号がついた、三十六小節とみじかいが表情ゆたかな曲だ。

 メロディーより三拍ながい伴奏をシュリがおえたところで、クレアがとじていたまぶたをひらいた。

「いいとおもうわ。でも二十五小節目からのCDEの最後のE、ここはきっちり三拍のばして。二分音符と四分音符がタイでつながってるでしょう? こんな感じに」

 クレアはみじかいフレーズを口ずさむ。わずかに目をみひらいたミシェルは、旋律がとぎれても真剣な表情のままクレアをみていた。

「どうしたの?」

「あっ、ううん。なんでもないの。もう一度おねがいします」

 彼女はふたたび、あたまから歌いだす。いい教え子だ、とクレアはおもった。教えなれていないため言葉足らずになりがちな説明を、持ち前の勘のよさと熱心さで、つぎつぎに吸収していく。教える側にとってもたのしみな時間になった週に一度のレッスンは、またたく間に過ぎさった。

「来週は四番をやりましょう」

「うん。わかった」

「ミシェルはいい生徒ね、一生懸命で飲みこみもはやいし。私はちゃんと教えられているかしら。こんな風にしてほしいとかある?」

「あー、えっとね。あたしがいい生徒かどうかはともかく、ひとつお願いがあるんだけど、いい?」

「なにかしら」

「フレージングがむつかしくって。でも、お手本があるとちがうとおもうの」

「そうね。目標がはっきりしている方がやりやすいわね」

「じゃ、お手本きかせて?」

「私?」

「うん。さっきみたいにかるくでいいから。おねがい」

「え、ええ……。わかったわ。シュリ、四番をおねがい」

 アイコンタクトののちに息をすって、カウントなしで同時に曲に入る。アインザッツとよばれる出だしの部分が、歌とピアノで完全に一致した。

 ヘ長調の三拍子に、カンタービレ、うたうようにという発想記号がついたこの曲は、三番と同じアレグロで、技巧的にむずかしい箇所はない。あごのど、そして横隔膜、自身の体すべてがうたう楽器として協調するように調整しながら、クレアはシンプルな旋律を歌いあげていく。数百年にわたって声楽家のトレーニングにもちいられてきた楽曲の心地よさが、次第にうたうものの心を引きこんでいく。

 歌いおえたとき、ミシェルがひとみを輝かせていることにきづいた。

「やっぱり素敵すてきね、クレアの歌」

「そうかしら……」

「どうして? しんじられない? あたしのいうこと」

「ちがうのよ。ただ、不安なの。私はうたってもいいのかどうか」

「うたっちゃいけないなんてこと、あるわけないでしょ?」

「もちろんそうなんだけど。ナサニエル・ルーベンってピアニストをしってる?」

「ううん。はじめてきいた」

「ナサニエル・ルーベンはね、技巧派のピアニストだったんだけど、あるとき、事故で右腕をうしなってしまったの」

「ピアニストが、腕を……?」

「失意のそこにあった彼は、当時まだそれほど性能のよくなかった機械化義肢に再起をかけたの。それこそ血のにじむような練習を繰りかえして数年ののち、ついに奇跡の復活をはたした」

「すごい。いいお話ね」

「ところが、世間はそんな風に彼をみなかった。機械の腕をつかっているなら生身よりいい演奏ができて当然だ、そんな中傷にさらされた彼はその後、二度と人前でピアノをかなでることなく、ひっそりと生涯をおえたの」

「なにそれ、めちゃくちゃ」

「そうね、ひどい話よ。いまでこそ彼の演奏は正当な評価をえて名誉も回復されているけれど。私の体もほとんど機械でしょう? だから不安なの。私の歌は本当に歌なのか、それともただ道具をあやつっているだけなのか。そして、人前でうたっていいのかどうか」

 クレアはまっすぐにむけられたミシェルの視線にきづいた。はじめてみる表情にとまどっていると、彼女は唇をひらく。

「いま、すごく変なことをいったよ? クレア」

「え?」

「あのね。うたっていいのかもなにも、いいにきまってるじゃん。どうしてだれかの許可がいるの?」

「それはたしかに……、その通りね」

「第一さ。道具をつかうのがどうこうっていうなら、楽器なんてみんな道具でしょ? 声楽だっておなじだよ。クレアはおしえてくれたよね。うたうっていうのは、人間が進化の途中でわすれてしまった正しい声の出し方を思いだして、歌う楽器の性能を取りもどすことなんだって」

「ええ、そうね」

「じゃあさ、クレアがその体でうたえるようになったっていうのは、誰もおしえてくれる人がいないなかで、自分で努力して身につけた、とっても、とってもすごいことなんじゃないの?」

「そ……う、なのかしら」

「そうなの。クレアはすごいの。さっきのナサニエル・ルーベンさんとおんなじだよ。それに、むかしのクレアの歌もすごかったけど、いまのクレアの歌だって、とっても素敵なんだからね?」

「本当に?」

「まちがいないよ。ずっとクレアの歌を聞いてきた、一番のファンのあたしがいうんだから」

「ありがとう、ミシェル……」

「いいとかわるいとかってさ、きいてどうおもうかでしょ。ナサニエル・ルーベンさんのピアノをきおろした人たちはさ、みんな心できくまえに、偏見がつまった頭できいてたんだよ。あたし、クレアに自分の歌をそんな風に聞いてほしくない」

「私?」

「そう。自分の歌をうたがったら絶対に駄目だよ。クレアはずるなんてしてない。それにいまのクレアの歌は、いまのクレアの歌っていう世界にたったひとつの楽器なんだから、ほかのなにかとくらべるのがまちがってる。あたしはクレアに、自信をもって歌ってほしい」

 するり、とほどけた。五年間もつれたままだった糸が、あまりにも呆気あっけなく。音楽はいま、もっとも純粋で、ゆるぎない強さをもって、手のひらのうえにのせられていた。

「ありがとう、ミシェル。すごいわね、あなたは本当に……」

「へ?」

「うたってみるべきなのかもしれない、私も。あなたみたいに」

「えっ? うそ、ほんとっ!? いつどこで?」

「あ、ちがうの。そんな大それたことじゃないのよ。リハビリというか、いまミシェルがいってくれたようなこと、必要そうな人が私以外にもいて」

「リハビリ?」

「ええ。彼女も私も、乗りこえないといけないものがあるんだわ、きっと」

「あたしもきけるの? クレアの歌」

「ごめんなさい。私だけのことじゃないから」

「そっか……。じゃ、つぎは絶対にきかせてくれる?」

「約束。がんばってみるわ、私も」

 クレアはミシェルがみせた笑顔に目をほそめる。そのまぶしさは、彼女がおおきな窓を背にしているだけではないと、心からおもった。

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