窮地

     ★☆★☆★


 たっぷりと水分をふくんだ午前の静謐せいひつな空気がみちた山道の石段を、無数につらなる朱色の木組みがかこっていた。神域と人のすむ空間をへだてる門を意味する木組みのひとつのそばに、シュリとともにたたずんでいたクレアは、こずえがもらす日差しに目をほそめる。

 やがてクレアの拡張現実にノードへの接続要求が通知された。許可をだすと階段のなかほどにメグミがあらわれ、周囲をみまわして目をまるくする。

「ここは、どこ?」

「連邦捜査局のノードのひとつよ。強固なセキュリティーにまもられているから絶対に盗聴されないし、今ここに入れるのは私たちだけだから安心して」

「そうじゃなくって。このノードはどうしてこんな環境エンヴァイロンメントなの?」

「ああ。折角きてもらうのだから、メグミの故郷にちなんだ場所に設定してみたのよ」

「そういうこと。千本鳥居ね。いってみたかったわ、日本にいるあいだに」

 石段をすずやかな風がぬけていった。ひとつ深呼吸したメグミは、クレアに手を差しだした。その手には複雑な文様がきざまれた銅板がある。

「あなたに、わたすべきものよ」

「ありがとう。わすれようとしていた過去ともう一度向きあってくれて」

「お礼をいうのは私の方よ。あなたのおかげで今度こそ自分の人生をいきられそう」

「そのペンダントには、マハー・アヴァター・サマージ、そしてディヤーナ・マンディールをうらからあやつっている連中のデータがのこされているの」

「あなたはそれで、まえにすすめそう?」

「ええ。わるい魔女を退治して、大勢の子供たちを助けだせるはずよ、きっと」

「わかったわ」

 微笑ほほえみをかわす。メグミからデータ送信要求がおくられる。受諾しかけた瞬間、不意に世界が暗黒にとざされた。


 円筒形の部屋に突如、みみざわりな電子音が鳴りひびく。

 クレアのSCUBAのかたわらで椅子いすにこしかけていたダニエルが立ちあがり、接続室の一角で硬直している情報官にちかづいた。

「これは、なにかな?」

「え? いや、でも……そんなまさか……」

「すまないが答えになってない」

「で、ですが、……こんなことが、本当に」

「いいか? こういうとき、君たちが最初にすべきことはただひとつだ。わかっていることをすべて、いつわりなく、簡潔に、報告しろ」

「……し、侵入です」

「どこに?」

 驚愕きょうがくにみひらかれた情報官の目は、さまよいながらもクレアのSCUBAへとむけられていく。警告はやまない。連邦捜査局の情報システムにほどこされた、強固なセキュリティーを踏破した初めての人間に対してのファンファーレのごとく。

 技術官たちが駆けつけ、現状の把握と回復へむけた作業にかかる。にわかにいろめきたつ空間に、ダニエルの声が響きわたった。

ファン!!」

 突然の大音声に度肝をぬかれる技術官たちには目もくれず、ダニエルは部屋を飛びだす。

『I’ll go ahead.(さきにいく)』

 ダニエルの拡張現実にメッセージをおくった凰は、おおきく羽ばたいて旋回した。眼下には都市の夜景がひろがっている。


 やみにとざされた空間に、ほのかな明かりがともった。

 ついさきほどまでとは正反対の、肌にまとわりつくようなよどんだ空気のなかで、クレアは慎重に周囲をうかがう。自分がかたい石の台のようなものによこたえられているのだと察した。首をうごかして視線をめぐらせる。遺跡とよぶにふさわしい時代がかった石造りの空間であった。微弱な光の抗戦をあざわらうように、部屋の大半をみちた漆黒が飲みこみ、規則的にならんだ重厚な柱にほどこされた神々のレリーフは、闇のなかから躍動的に肢体をのばすが、その姿は蔓延はびこった地衣類によって奇怪なまだら模様に塗りたくられている。

「シュリ? メグミ?」

「いねえよ、残念ながらな」

 まうしろからきこえた声に振りかえる。まぢかに異形の顔面があった。もらしかけた悲鳴を必死に飲みこんで、にらみつける。

「クンバカルナ……!」

「おっと、さすがだな。ここでさけばなかったのは、アンタがはじめてだ」

 体をおこした肥満体がだるそうに拍手した。生みだされた振動が細波さざなみとなって体表面をつたっていく。

「実際のところ、アンタよくやったよ、迦陵頻伽カラヴィンカ。今回ばかりは流石さすがにオレも肝をひやしたぜ? まさかランカーの仕組みにきづく人間がいるとはな」

自惚うぬぼれがすぎるようね。私は特別なんかじゃないわ」

謙遜けんそんしなくてもいいんだぜ? それにあの日本人女に行きついたのもほめてやる。だがな、いまさらこんなものにでてきてもらっちゃあ、こっちとしては非常に具合がわるい」

 みせつけるように持ちあげたクンバカルナのぶあつい右手には、幾何学模様の刻みこまれたちいさな銅板があった。

「まちなさい、それは――」

「――こいつは処分させてもらう」

 クンバカルナが指先に力をこめる。決意をもってメグミからたくされたペンダントは、いともたやすく砕けちった。衝撃にみひかれたクレアの目が、怒りにそまっていく。

「いい顔だ。そういう顔をした女を屈服させんのが、またたまんねえんだけどな。ところで、ひとつ質問があるんだが。アンタわかるか? セキュリティーの強固なこの連邦捜査局のノードに、どうやってオレが入りこんだか」

「メグミの、SCUBA……?」

「正解だ。めずらしく現実空間のお仕事だったもんで、ちょいとばかり緊張したがな。簡単だったぜ? ぼろっちぃアパートメントに忍びこむのも、日本人女をバラすのも、SCUBAをクラックするのもな」

「ゆるさない。……絶対に」

 怒りにみちた視線をむけられたクンバカルナは、愉悦の哄笑こうしょうで受けとめた。

「お友達より自分を心配した方がいいかもな、迦陵頻伽。ここの環境って、アンタにしかいじれないはずだよな」

 クレアにうかんだおどろきの表情に、恐怖の色がまざった。ふるえる声を意思の力でねじふせる。

「私のSCUBAをジャックしたのね」

「ま、そういうこった。つまりアンタをいかすもころすもオレ次第ってわけだな」

「……卑怯ひきょうものっ!」

「なんとでもいえばいいさ。ちなみにこの環境はな、修行で電脳麻薬ソーマがキマった女たち相手につかってるんだ。ちょろいもんだぜ? このアバターであらわれて、クラックしたSCUBAでちょいと奇跡をおこしてやりゃ、オレを神様だとおもってくれる。そうしたらやりたい放題だ」

「下劣な人間にふさわしい手口ね」

「口には気をつけた方がいいぜ? 手のひらのうえでとんでいたはずのアンタが想定外に活躍してくれたおかげで、随分とオレは苦水をのまされたんだ。オレの気持ちひとつでアンタをどうにでもできるってこと、わすれてもらっちゃあこまる」

 不意に全身が外気にさらされる。なにがおこったか理解すると同時に、うずくまりたくような羞恥しゅうちと屈辱におそわれた。

「ほお? いい体してんじゃねえか……。作りもののくせによ」

 無遠慮な視線が全身をいずりまわる。だが、うごかせない体ではどうしようもない。奥歯をかみしめてとがらせた視線を異形にぶつけた。

「おっと、こわいこわい。色がついた女なんか好みじゃねえんだが、折角だからな。精々たのしませてもらうぜ?」

 せせらわらうとクンバカルナが胸を鷲掴わしづかみにした。ねぶるように耳元でささやきかける。

「アンタ、体はうごかせないけど、感覚はいきてるんだってな」

 胸をもてあそびながら、耳たぶに舌をはわせる。ねばつくような不快感をこらえて、一切の反応をけした。

 執拗しつように体中をまさぐられ、でまわされ、いじられる。虫にたかられるような嫌悪感を、込みあげてくる吐き気を、許しをこいたくなる心を、歯を食いしばって耐えつづけた。

 突然、ほおにするどい衝撃が走って視界が横にずれた。おくれて熱と痛みがつたわってくる。まっすぐに異形をみすえた、侮蔑ぶべつをこめて。

「つまんねえな。オレは女を屈服させるのが好きなんだよ」

 なぐられる。何度も何度も。涙がにじむ。シュリのないだ菫色すみれいろひとみを思いうかべ、必死に自分を支えつづける。

「アンタも強情だな。ならちょっと趣向をかえてみるか」

 不意に一切の音がきえた。拡張現実にテキストメッセージが表示される。

『オレはアンタのすべてを好きにできる。いま聴覚をうばった。つぎはそうだな……、視覚にするか。声だけは最後までのこしておいてやる。いい声でないてくれよ? 迦陵頻伽』

 つぎの瞬間、世界が暗闇にとざされた。

 心がくだけそうなほどの恐怖がよみがえる。体を奪われて昏睡こんすいからめざめ、うごくことはおろか、口をきくことも見ることもできず、医師からかけられる言葉だけを頼りに、懸命に自分を保ちつづけたながいながい暗闇の時間が。

 絶叫が、ほとばしった。

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