刺客

     ★☆★☆★


 明かりのおとされた廊下にさしこむ都市の光が、リノリウムの床にぬれた光沢こうたくをくわえていた。

 人のいない暗がりをサックスブルーの白衣をきた男性があるく。スクラブとよばれるVネックの半袖服はんそでふくの胸元には、このマンハッタン大学ジェイコブ医療センターに所属する看護師であることを証明する顔写真かおじゃしん入りのIDがあった。

 ひとつの病室のまえで立ちどまった男は、入院患者の名前を拡張現実で確認したあと、周囲の様子を入念にうかがってから、胸の高さにあるリーダーにIDを読みとらせて扉をひらく。

 患者の生命活動を監視するいくつかの装置とベッドがおかれただけの部屋だ。仄暗ほのぐらやみが現実感を、あわいブルーで統一された色調が生活の気配けはいを希薄にしている。

 眠りつづける少女の枕元まくらもとに歩みよった男は、ブランケットをめくって彼女の腕をあらわにする。すこやかに繰りかえされる寝息に耳をすませたあと、上着のポケットからペン型の注射器を取りだした。

 キャップをはずし、すんなりとした腕をもつ。注射器の先端をしろい肌にちかづける。距離がちぢまる。爬虫類をおもわせる顔つきに、一切の変化はない。針がささる直前、はじめて男の顔に感情がうかんだ。動揺の色だ。

 なにもない空間からはえてきた手に、腕をつかまれている。ホラー映画さながらの光景をまえに、状況を理解した男から表情が消えうせる。怪異の発生した箇所を中心によじれた空間がめくれあがると、さえない中年男が姿をあらわした。

「素人だな。こんなおもちゃにひっかかるとは」

 ダニエルがシートをすてる。光をふくめた電磁波に対して自然界の物質にはない振る舞いをする、メタマテリアルをよばれる人工物質をもちいて作られた光学迷彩だ。

 突如、闇に赤色の線がひかれた。体をそらせてかわしたダニエルめがけ、続けざまに直線がえがかれる。二度三度と風をきる音がひびく。手品のように男の左手に出現した、赤熱するナイフの軌跡である。

 男はナイフを右手に持ちかえると、すきのない構えをとった。だるそうに首をならすと、ダニエルは人差し指を襲撃者にむける。

「感心せんぞ、女性の寝室でそういうものを振りまわすのは」

 言いおえるまえに男は距離をつめていた。心臓めがけて最短距離でナイフが突きだされる。動じることなく踏みこんだダニエルは、右の掌打で凶器をもつ手のこうをうって軌道をそらせ、男の側面に入りこみつつ回転、遠心力をともなった強烈な左の手刀を後頭部に打ちこんだ。

 声をあげることすらできずに意識を刈りとられた男は、つかまれた右手をのこして崩れおちる。打つと同時につかまえていた男の手から、注意ぶかくナイフを抜きとりながら、ダニエルがつげた。

「殺人未遂の現行犯だ。……とここで本来ならお約束のミランダ警告を読みあげるんだが、まあ、あとにしておこうか。うん」

 当然のごとく、男からの返事はない。

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