攻撃指令

     ★☆★☆★


 チャイナタウンにあるアパートメントの一室には、食欲を刺激する香りがみちていた。ダニエルがニーナからの連絡をうける十分ほどまえのことである。

 やわらかな湯気をたてるスクランブルエッグをよそった二枚の皿をもつと、カイルはキッチンに隣りあったリビングのダイニングテーブルにならべる。年代物のポップアップ・トースターからパンの焼きあがりをつげられ、キッチンに戻りかけたときだった。

 リビングのおくにあるベッドルームで、リーリンが体をおこしていた。部屋にひとつしかない窓から差しこむ昼下がりの陽光を背後からうけ、彼女のシルエットが浮かびあがる。

「おはよう、リーリン」

 返事はなかった。首をかしげたカイルはちいさなソファがおかれたリビングをぬけ、ベッドルームに入る。光のみちた部屋のなかで、リーリンは声をもらすこともなく、涙をながしていた。

「どうしたの?」

「夢みたいだなって、おもって」

「なにが?」

「こういうの、ずっとあこがれてたんだ。目がさめたときにひとりじゃないっていうか。その、一緒にくらしてるっていうか……だいすきな人と」

 リーリンのそばに歩みよった彼は、そっと背中に手をまわす。

「これからもっとよくなる。ふたりでそうしていくんだ」

「うん……。そうしたい、あんたと一緒なら」

 カイルはかがんで彼女の額にくちづけた。

「コーヒーをついでくるよ。飲んだら食事にしよう」

 キッチンにむかったカイルは、コーヒーメーカーからマグカップにコーヒーをそそぎ、レンジであたためた牛乳をたっぷりとくわえる。

 ベッドルームにもどってリーリンと微笑ほほえみをかわし、コーヒーを差しだしかけたときだった。

 マグカップが手を離れてフローリングの床におち、にぶい音をたてる。まばたきもしないまま、なにもない空間を凝視しつづける彼の足元に、にごった色の液体がひろがっていく。

「カイル……?」

 不安げな彼女の声にも応じず動きをとめていたカイルが、ようやく口をひらいた。

「やっと、わかった……」

「なにが?」

「なぜリード医師やこのあいだの捜査官が、君は人間か、だなんておかしな質問を僕にしたのかが」

「気にしなくっていいよ、そんなの」

「いや。これはきわめて重要な問題だ」

「たいしたことじゃない、かんがえなくっていい」

「そういうわけにはいかないよ。だって、僕は……アンドロイド、なんだから」

 突然十度ほども温度をさげた室内で、リーリンがふるえる声を絞りだす。

「どうして、急にそんなこと……」

「おくられてきたんだ、啓示が。僕はいかなければならない」

「どこに」

「いえない。機密事項だ」

「なにしにいくの?」

「それもいえない」

「かえって……くるんだよね?」

「多分、無理だ。僕は、……破壊されるだろう」

「ならいかなきゃいい」

「アンドロイドにとって、所有者の命令は絶対なんだ」

「そんな命令おかしい。そんなやつのいうことなんてきくことない」

「本当に、そのとおりだね」

 ベッドをおりたリーリンは、水音をたててコーヒーのなかに踏みこんだ。

「約束したばっかじゃない、ふたりでもっとよくしてくって!」

「ごめん、無責任な約束をした」

「あやまらなくっていい! だからいかないで! ここにいてよ!!」

 カイルはただ、かなしげな笑みをうかべた。駆けだしたリーリンは玄関のまえに立ちふさがり、両腕をひろげる。

「いかせない、絶対に。カイルをころさせたりなんかさせない」

 音がしそうなほどにつよい意思をみなぎらせたひとみをむけられた彼は、しあわせそうな表情であとずさりした。

「ありがとう、リーリン。僕のために一生懸命になってくれて。あいしてる。イブなんかよりもずっと」

 言いおえるなり、カイルはベッドルームにある縦開きの窓をひらき、宙に身をおどらせた。

「カイル!」

 あわてて駆けよる。なにごともなかったように、カイルは路地に降りたっていた。きおこったざわめきだけが、まちがいなく彼が五階から飛びおりたことを証明している。

「いかないで、カイル!」

 窓から身を乗りだしてさけぶ。往来の視線が集中する。リーリンの言葉に体を震わせたカイルは、みっつ呼吸するほどの時間ののちに、振りむくことなく歩きだした。

「あたしのそばにいてよ!」

 声のかぎりに呼びつづける。ふと彼が足をとめる。行く手には、くたびれたスーツをきた中年男が、くわえ煙草たばこでたっていた。


 突如、男が空から降ってきたことでうまれた騒ぎは、うすよごれた路地にひろがりつつあった。

 対峙たいじするカイルの透明な視線をうけたダニエルは、こまったような、くたびれたようなかおで紫煙を吐息する。

「色男。女の子をなかしちゃあいかんだろう」

「僕だってなかせたくなかったです」

「わかっててどこへいく?」

「いえません」

「お仲間と合流するのか?」

「いえません」

「なにがねらいだ」

「いえません」

「まいったな。話にならない」

「お話しできることがないのです」

「そこをどうにか――おや、ちょっと待ってくれ。仲間から連絡だ」

 カイルをみたまま、ダニエルが黙りこむ。通話をおえると彼は、盛大なため息とともにしゃがみこんだ。

「私の優秀なバディが、君たちの目的地を特定した。まあ、たしかに人種差別主義者たちにとっては格好の標的なんだろうがな。なんというか……大問題になるぞ?」


 おなじころ、一番街四十二丁目付近は、チャイナタウン以上の喧騒けんそうにつつまれていた。連邦捜査局と市警察が、交通局と協調して交通管制をひいたうえで付近を封鎖し、バリケードを構築したことによるものである。

 封鎖線のそとは野次馬やじうまと報道でごったがえし、上空をヘリが飛びかう。対照的に、イースト川をわたった湿気をおびた風のふく四車線の通りは、一切の車両が締めだされて、開演直前のコンサートホールのごとく静まりかえっていた。

 オーケストラは連邦捜査局のSWATと市警察の緊急出動部隊ESUからなる混成部隊だ。

 対地雷伏撃防護装甲車MRAPとよばれる重厚な装甲車両の数台を中心に、暗緑色と濃紺、それぞれの色で統一された装備に身をつつんだ隊員たちが、けわしい視線をむける。ニーナもまた、バラクラバで顔をかくし、SWATレッド小隊のリーダーとして現場にたっていた。

 歌手たちが姿をみせた。自分たちのためにもうけられたランウェイをすすむ複数名の男女は、近所にある知人の家をたずねるような表情で言葉を交わしあう。ことなる肌や髪、瞳の色をもつ一団が、簡素ながら清潔な衣服を身につけて歩みをすすめるさまは、きよらかでうつくしかった。

 待ちうけるオーケストラの背後、彼らの行く手にそびえるのは、さまざまな人種で構成された彼らにふさわしい場所だ。全世界的な平和と協力の実現を目的とし、参加する百九十二の国の旗をかかげた国際組織の中枢――国際連合本部ビルである。


 路地ではうつくしい青年の行く手を、老犬のような男がふさぎつづけていた。

「申し訳ないのですが、これ以上の猶予はありません」

「そう邪険にされるとかなしくなってくるな」

「あなたの情報は共有されています、とてもつよいと」

「よしてくれ、買いかぶりだ」

「ですがいかなければなりません。あなたとたたかってでも」

「そういう展開はさけたかったんだが。――最後にひとつだけいいかな」

「なんでしょう」

「君は、人間かな?」

「いいえ。僕はアンドロイドです」

 一瞬で距離をつめたカイルのこぶしが、ダニエルの顔面をねらう。きわどいところでかわした相手に左ストレートで追撃しかけ、腕をとらえにきた両手にきづいて距離をとった。あきらかに二打目をさそった回避行動である。

「これで買いかぶりだと?」

「ロートルをいじめるな、若人」

 一度後退したカイルはガードをかためた。ボクシングに似ているが腕の位置と重心のひくい構えだ。つめたい殺気をむけられるダニエルはみがまえるわけでもなく、両腕をさげたまま脱力した姿勢で肩をすくめる。

 カイルがまえにでた。引きのはやいパンチで関節技を警戒し、胴体をねらった打撃を織りまぜてダニエルに揺さぶりをかける。左右のコンビネーションからのボディーブロー、コンパクトで無駄のない攻撃だ。わずかにそらしてさばき、最小限度の動きでかわしてすきをうかがう相手に対して、自分の間合いをゆずらず果敢にせめる。

 かろやかなステップで、点と点を最短距離でむすぶようなカイルのフットワークに対して、ダニエルの足さばきは独特だ。足が地面と平行に離れ、おりる。ながれる川のごとく柔軟に、よどむことなく、つねに相手の側面へと入りこむ。

 手数でまさるカイルに、次第にダニエルが追いつめられているようにみえた。命中こそゆるさないものの、防御の合間をぬって繰りだされる反撃はどれも阻まれ、形勢を逆転させることがないまま、じりじりと後退を余儀なくされる。

 壁際に追いこまれたことにきづく。あくまでも冷徹に、カイルは逃げ道をふさいでいく。そしてついに、左フックが標的をとらえた。あさい打撃ではあったが好機と判断し、決着をつけるべく踏みこんだ。それが老獪ろうかいわなだとは気づかず。

 カイルが右の拳をはなった瞬間、ダニエルは初めてみずからうごいた。右手で払いながら前進して側面に回りこむと同時に、無防備になった側頭部に掌底打ちをはなつ。虚をつかれながらもカイルは、迫りくる左腕をうって攻撃をそらせようとする。だがそれすら偽計であった。ダニエルはさばきにきた左手をつかむと引きよせ、相手の右腕を支点にして体を反転、肩とひじを極めながら押さえこみ、脇固めに持ちこんだ。人間の力をはるかにこえた膂力りょりょくせめぎあう。

「ここまでだ。おとなしくするんだ」

「そうおもいますか? 痛覚は無効にできますし、腕をすてればこの程度は――」

「――いいや。お前さんを取りおさえるのは私じゃない」

 ダニエルはスーツのボケットから取りだしたものをカイルの後頭部にあてる。ヘーゼルの瞳にうかんだいぶかるような色は、直後に驚愕きょうがくにかわった。

 極上の歌声をひびかせる存在を知覚する。つぎの瞬間、幾重にも張りめぐらされた軍用の電脳防壁に、やすやすと穴が穿うがたれた。精神の深奥へと入りこんできたそれは、たからかにアリアを歌いあげる。

「これは、まさか……クラッキング……?」

「私の優秀なバディは、こういうことのエキスパートでな。君たちをあやつっている命令を解読させてもらう」

「そ……んな、こんな一瞬、で……」

 電子の歌声に翻弄ほんろうされながら、カイルは首をひねってアパートメントをみあげた。五階のすみにある部屋の窓に、いとしい人の姿はない。

「それで、いい。……君はなにもしらなかった。ただの、善意の人……だ。どうか、しあわせに……」

 溶暗していく意識のなかで、たえなる調べにつつまれた男はただ、ひとりの女の未来があかるいことだけをいのった。


 ビルの屋上やその一室など、複数箇所に配置された狙撃手そげきしゅたちがアンドロイドたちを照準線レティクルにおさめてから、かなりの時間が経過した。地上に展開した部隊を危険にさらすことなく、対象を破壊できる状況にもかかわらず、指揮をとるクロフォード管理捜査官は、全隊に待機を命じたまま、沈黙をとおしている。

 国際連合本部ビルへむかう一団が、バリケードを防衛する部隊の射程距離まで到達した。

 投降をうながす何度目かの拡声器の声がむなしく風にのる。攻撃指示を請う部隊内の通信が苛立いらだちの色をおびる。隊員たちは安全装置を解除し、ライフルをかまえた。それでも彼らは巡礼者のように澄みわたった目で歩みつづける。完璧かんぺきな射撃姿勢で銃を保持しながら、ニーナは、どこかにいるくたびれた中年男とダイヴセンターの車椅子くるまいすの女性をおもっていた。

 戦術作戦センターのクロフォードが最終決断をくだしかけたその瞬間――全隊通知で女性の声が響きわたった。

『アンドロイドたちの通信プロトコルの解析完了しました。攻撃中止と投降を指示します』

 立ちどまった巡礼者たちがたがいの顔をみて微笑みをかわす。先頭の男がよくひびく声で呼びかけてきた。

「停戦、ならびに投降命令がくだされました。我々に戦闘をおこなう意思はありません」

 一斉に歓声があがる。アンドロイドたちはひざまずき、両手を頭のうしろで組みあわせた。クロフォードから指示が下知され、SWATレッド小隊が確保にむかう。前進するニーナの口元には、笑みがうかんでいる。

 いたるところにそなえられたカメラを通じて事態の収束を確認したクレアは、接続室ダイヴセンターで吐息をもらした。シュリと隣りあったSCUBAに接続したままで。


 そうした華やかさとは無縁の路地で、アパートメントのエントランスから飛びだした女は、たおれた男のもとへとかけよった。

 かたわらにひざまずき、ふるえる声で呼びかける。

「カイル……?」

 返事はない。澄んだヘーゼルの瞳は宙空にむけられたまま、ぬれた光をはなっている。

「やだよ、こんなの……」

 リーリンのほおをつたったしずくこぼれおちる。涙をぬぐうべき彼のおおきな手が、その役割をはたすことはなかった。

「ねえ……、返事してよ。かなしいのは、もう……いやなんだよ……」

 ダニエルは、こまったような、くたびれたような顔で、彼女のそばにしゃがんでいる。

 サイレンの音が、彼方かなたからちかづきつつあった。

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