事件後
★☆★☆★
たったひとつだけの窓で、わずかにカーテンがゆれた。風はよわく、部屋に
うすぐらいリビングでは、
数日まえに発生した国際連合本部ビルの襲撃未遂事件は、おもわぬ波及をみせた。犯行には国際条約に違反したAIを搭載したアンドロイドがもちいられており、それを開発したのは世界的総合サイバネティクス企業アスクレーピオス社ではないかという
またたく間に現実空間までひろまったスキャンダルで世間の話題は持ちきりとなり、チャイナタウンの路地でおきたちいさな事件のことなど
そんな騒動から隔絶された時のとまったような部屋に、呼びだされるものへの配慮など一切感じられない呼び鈴のブザーがひびいた。
ソファに倒れこんだまま、女はうごかない。二度三度と繰りかえされた電子音ののち、ドアをノックする音に切りかわった。起きだした黒髪の女は、ふらふらと玄関にむかう。扉をひらくと、くたびれたスーツをきた中年男の姿があった。
「どうも。ルゥさん、こんにちは」
「……なんの用?」
拒絶と怒りの入りまじった視線を気にする様子もなく、ダニエルはのんびりとつげる。
「えーっとですね、先日の現場付近で収集された証拠品のなかに、事件とは無関係なものがありまして。所有者があなたになってたものですから、こうしてまあ、とどけにきたと、そういうわけなんです」
「いらないよ、適当に処分して」
「いやいや、そういうわけにはいかんのですよ。うちはお役所ですから、こうしたことにはきっちり対処するきまりなんです」
「受けとったら帰ってくれんの?」
「もちろんですとも」
「じゃ、はやくして」
「ものはデータでしてね。直接おくってもいいですか?」
「さっさとしてよ、なんでもいいから」
リーリンは投げやりに手をのばした。ダニエルがその手をとる
転送は一瞬で終了した。拡張現実の
「なにこれ」
「まずは受領の電子署名を。――はい、ご協力、感謝します。ところでこの
「
「ああ、なるほど。あなた方の名前はファミリーネームがさきにくるんでしたな。意味は?」
「盧ってのはご飯の容器とか黒いとかそんな意味で、麗玲は、うるわしく妙なる音色ってこと。ねえ、なんなの? これ」
「うるわしく妙なる音色。なるほどなるほど。うつくしい言葉だ」
「いいから質問にこたえてよ。なんなのさ、これ」
「アンドロイドの人格データなんですが、名前がたしか……、そうそうカイル、カイル・クリフ」
「え……?」
「そして所有者がリーリン・ルゥ。まちがいありませんか?」
「ないよ。ないけど……どうして……」
「私のバディが電脳捜査のエキスパートでしてね。一応説明はしてもらったのですが、むつかしすぎて理解できませんでした、はずかしながら。
まあ、
リーリンの
「では、私はこれで。……そうそう、そのデータ。
「あり、がと……」
足音は遠ざかっていく。わたされたデータのもつ、
路地から出てきたダニエルが車をみると、後部座席のクレアがあわてて目をそらした。肩をすくめて運転席に乗りこむ。
車は走りだした。くろい髪と瞳をもつ人々が往来する雑踏では、今日もみちた活気のなかを威勢のいい言葉が飛びかう。
ダニエルがルームミラーでうしろをうかがうと、まっすぐに正面をむいたシュリのとなりで、クレアが口を開きかけてはやめてを繰りかえしていた。じれったそうな様子を観察していると、鏡ごしに目があい、まっかな顔で
「なにか、ご用ですかっ?」
「いやその、なんだ。……彼女、ありがとうっていってたよ」
「そう、ですか……」
「データの方はフレッドがどうにかしてくれるだろう。なにせあいつは女子供と老人にあまい。あんな顔だがな」
「……よかった」
ダニエルはわずかに口角をあげる。彼女がはじめてみせた、おだやかな表情だった。
「君にも礼をいっておく。ありがとう、モース捜査官」
「モーリスっ、クレア・モーリスですっ!」
なんなんですか一体、とふくれっ面で窓のそとをみたクレアはあかい
「それに、お礼をいわれるようなことはしていません。あれは地球に生命が誕生するくらいの偶然がおこっただけのことです」
「私は地球に生命が誕生したのは、必然だとおもっているがね」
「ロマンチストなんですね」
「まあ、私くらいの
片方の
「なあ、モーリス捜査官」
「なんですか?」
「AIって
「人間と同様の知能をコンピューター上に実現したものですね」
「ではもし仮に、電脳上で人の脳を完全に再現したとしたら、その存在もAIと呼ばれるんだろうか」
「それはもう、人ではないでしょうか」
「やっぱり、そうか」
「すくなくとも私はそうおもいます」
「はじめての意見の一致だな」
「非常に遺憾ながら」
眉間にしわをよせたクレアとは対照的に、ダニエルは満足げにうなずいた。
「実にいい。本音で語りあっているあたりがバディらしい。いまのようにフランクに接してこそ、真のバディだといえる」
「はあ、それはよかったですね」
「まずはそのかたくるしい敬語をやめてみるというのはどうだろう。ついでに愛称でよんでもらえるとなおいい。ただしダンはやめてくれ、お婆ちゃんにそうよばれてたんだ。思いだすとかなしくなる」
クレアは、注文もしてないまずい料理を目のまえにおかれた顔になった。
「お望みとあればそうさせていただきます。ですが誰かになにかをのぞむのであれば、まずはその相手の名前くらいおぼえるのは、最低限の礼儀ではないでしょうか」
「まったくだな。よし、では私も愛称で呼ぶことにしよう。なんだ、ますますバディらしいじゃないか」
料理はつぎつぎと山積みにされていく。クレアはため息まじりにいった。
「で、私をなんと?」
「そうだな……。――お嬢ちゃん、こいつでいこう」
「却下ですっ!」
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