第31話 コルネイユ

 平和だ。なんと平和なのだろう。

 元陸軍省軍務局副局長のコルネイユは空を見上げた。白い雲。そよぐ風。小鳥がさえずりながら青天へと舞い上がっていく。


 ダブーの指名で徴兵第1号にされてからは、戦闘への恐怖で眠れぬ夜が続いた。だが入隊して以来、コルネイユの属する部隊は一度たりとも敵と銃火を交えることなくここまで来たのだ。うまく行けば何事もなく兵役を終えることができるかもしれない。

 これは考えようによっては非常においしい話ではないか。戦争省内では武官と文官は反目しあうことが多く、コルネイユも軍人から戦場を知らない青二才と蔑まれることも少なくなかった。だがこれからは、戦場を経験したエリート官僚として、武官の間でもコルネイユの名声は高まることだろう。軍務局長の座も近づいてくるというものである。


 ただ、今のコルネイユには1つ心配事がある。朝から腹の痛みが治まらないのである。

 昨日、行軍の途中に沿道の民家の庭先から桃をこっそりくすねて食べたのだが、どうもそれが傷んでいたらしい。

 トイレを使いたいが付近に民家はない。しかし幸い今は休憩中で行軍が止まっている。すぐ傍の森に入れば、誰にも見られることなく用を足せるだろう。問題は森に入るまでだ。盗み食いをして腹を壊したなど人に言えるはずもない。なんとしても気づかれることなく森に入らねばならない。


 ちょうどその時、小隊長が上官に呼び出されたらしく持ち場を離れた。下級の兵士らは、監視の目がなくなり一斉に雑談を始めた。

「今ならいける」

 部隊内で浮いた存在であるコルネイユに話しかけてくる者はいない。本人は自分が一目置かれているのだと都合よく解釈しているのだが。

 さておき、コルネイユは目立たぬよう、そっと森の中へと入っていった。


   *


 コルネイユは晴れやかな気分でズボンのベルトを締めた。

「ため込んだ鬱憤を一気に開放するのは何と清々しいものだろう」

 特権階級の抑圧から自分たちを解放した革命当時の民衆もまた、かくのごとき晴れがましい気持ちであったに違いない。

 大きく深呼吸して、森の空気を胸いっぱい吸い込んで歩き出したコルネイユであったが、すぐにまた腹痛に襲われた。

「抑圧から解放されたというのに、また抑圧がはじまったのか。お前はルイ18世のような奴だな」

 つい3か月前まで主君であった者になぞらえて、コルネイユは腹痛という見えない敵に向かって毒づいた。


   *


 体内で暴政を振るったルイ18世を退位させることに成功したコルネイユは、今度こそ心から晴れやかな気分で森の外へと向かった。

 王政復古のせいで少々時間がかかってしまった。だがコルネイが所属するフランス軍第1軍団は総員2万人と聞いている。そのうち1人くらいがしばらく姿を見せなくても、誰も気付かないであろう——。


「ど、ど、ど、どういう事だ!」

 森から出たコルネイユは思わず大声で叫んだ。

 彼の目の前にいるはずの2万人の部隊が、忽然と姿を消していたのである。

「まさかとは思うが……」

 キョロキョロと辺りを見回した。

「置いて行かれた?」

 大地が緩やかに波を打ったように丘が彼方まで連なっている。遠く東の丘の頂に、整然と列をなして進む部隊がちらりと見えた。

「待ってくれ!」

 叫んでみても届く距離ではない。

 コルネイユは走り出した。されどすぐに立ち止まってしまった。銃と銃剣、弾薬、そして携帯用の食糧。兵士の装備は意外に重く、体力のないコルネイユはあっという間に息が切れてしまったのだった。

「嘘だろ……」

 コルネイユはがっくりと膝を落とした。

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