第30話 メフィストフェレスに捧ぐ(2)
それは突然だった。
黒馬を操り、自ら先頭に立ってフランス軍に突入しようとしていたヴィルヘルムは、左腹部に焼きごてを押し付けられたような熱さを感じた。
数瞬の後、それは激しい痛みとなって急速に体中に広がっていった。耐え切れず、ヴィルヘルムは体を馬の首に預けた。
「殿下!」
異変に気付いた将官らが慌てて馬を寄せてきた。
「殿下をお守りしろ!」
騎兵らは突撃を中止し、ヴィルヘルムを取り囲んだ。敵陣からの砲撃は止まない。幾人かが被弾し、馬上から崩れ落ちた。
「殿下、ここはいったん退却を」
副官のオルファーマンが叫んだ。
「う、うむ……退却だ……」
激痛に耐えながら必死に手綱を握り、馬首を返した。鞍が揺れるたびに脇腹から血が溢れ出る。視野が次第に狭くなり、まるで彫刻になったかのように身体の感覚が失われ、力が入らなくなってくる。
「もう少しで我が軍の陣地です」
叫んでいるのがオルファ―マンなのか、別の誰かなのか、判別する余力はなかった。ぐらりと視野が傾き、天地が反転したと思った瞬間、投げ出されるように馬から滑り落ちた。
「殿下を安全な場所へお運びしろ!」
すぐに兵士らが駆け寄ってきて、マスケット銃を使って即席の担架を作りヴィルヘルムを乗せた。どうやら味方の陣地の直前で力尽きたようだ。ヴィルヘルムは少し離れた窪地へ運ばれた。
「軍医を呼べ!」
悲痛な叫び声が上がる。
「オ……オルファーマンは……どこだ」
地面に体を横たえたまま、ヴィルヘルムは副官の名を呼んだ。
「ここに」
「いったんウェリントン公の陣まで兵を引き、態勢を立て直せ。以後の指揮は貴官に委ねる」
「はっ」
「それから……シャルロッテに伝えてくれ。子供たちをよろしく頼むと」
「諦めないでください。いま軍医を呼びに行かせました。じきに到着するはずです」
叫ぶようなオルファーマンの声に、ヴィルヘルムは小さく首を横に振った。
流れ出る鮮血が、黒衣を赤く染め上げていく。
全身が赤く染まったその姿に、オルファーマンは先刻ヴィルヘルムが語った赤い悪魔メフィストフェレスを思い起こした。
「まさか本当に悪魔に魂をお売りになったのですか……」
答えはなかった。
静かに、ヴィルヘルムは瞼を閉じた。そして残されたわずかな力で右手を動かすと、胸の上に拳を置いた。
それが彼の最後の動作だった。
そこへようやく軍医が到着した。脈拍や瞳孔を確かめた後、軍医は無言で首を振った。
「死者を看取ることなら我らにもできる。命を救ってこその医者であろう」
オルファーマンは毒を含んだ言葉を吐いた。
無論、いかなる名医であっても既に息絶えている者には手の施しようがない。それが分かっていても怒りをぶつけずにはいられないのだ。
罪のない軍医は、いたたまれず
重苦しい喪失感がその場を覆っていた。だがオルファーマンとしては、このまま悲嘆に暮れている訳にはいかなかった。
主君の死を目の当たりし、兵士の間には動揺が広がっている。逃げ出す者も現れており、このままでは全軍が雪崩をうったように崩壊に至るであろう。シュヴァルツェ・シャールは創設以来最大の危機を迎えている。
「諸君、我々はたった今、主君を失った」
かつて軍楽隊の奏者であったオルファ―マンは、楽団の前に立つ指揮者のようにすっと姿勢を正した。つい先刻までの彼はこの黒い楽団の奏者であった。いま彼は亡くなった主君に代わり、指揮者として戦場に楽音を響かせなければならない。
「諸君の心の中には悲しみのレクイエムが流れていることであろう。それは私も同じだ」
陰鬱な旋律に兵士の間から悲愴なうめき声が上がった。オルファーマンは続けた
「だが諸君、それは殿下の望まれるところであろうか」
オルファーマンは流血の海に横たわるヴィルヘルムの隣に
「お父上の仇を討てず、さぞや無念でございましょう。殿下が悪魔に魂を捧げるのであれば……」
オルファーマンはヴィルヘルムの手を静かに胸に戻すと、おもむろに自分の黒い上衣を脱いだ。そして鮮血に染まったヴィルヘルムの上衣を脱がし、自らそれを羽織った。
「——私は悪魔そのものになりましょう」
オルファーマンは立ち上がり、先ほどまで主君が乗っていた黒馬に
その顔からは、普段の穏やかな表情は消え去っていた。兵士たちはそこに、ゼウスのように峻厳な顔つきをしたヴィルヘルムの姿を見たように思った。
その馬上から、オルファーマンは兵士に向かって呼びかけた。
「陛下はその人生の全てを戦場に捧げてこられた。常に我々の先頭に立ち、誰よりも勇敢に戦う姿を見せてくださった。我々が悲しみに浸ることなく勝利のときまで戦い続けることこそが、陛下の御遺志にかなうことではないだろうか」
オルファーマンは演奏を始める指揮者のように右手を掲げた。兵士らがはっと顔を上げた。
「殿下の血に染まったこの軍服には、殿下の魂が宿っている。これある限り、我らは殿下と共に戦い続ける。我らはシュヴァルツェ・シャール。その望みはただひとつ。ナポレオンを地獄の底に叩き落すことである!」
オルファ―マンは右手を大きく横へ振り広げた。その瞬間、ファンファーレが高鳴るように全軍が鬨の声を上げた。
「北へ向かう。ウェリントン公爵の軍と合流し、もう一度敵を迎え撃つのだ!」
シュヴァルツェ・シャールはフランス軍に背を向け進軍を開始した。だが彼らの表情は敗軍のそれではない。主君の死により悲痛のどん底にあったシュヴァルツェ・シャールは、オルファ―マンの指揮のもと、行進曲にのって進むがごとく揚々と兵を引き上げていくのだった。フランス軍からの追撃はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます